サトミツ、コンビ解散危機を明かす「芸人も辞めるつもりだった」【連載:佐藤満春って何者?】

サトミツ、コンビ解散危機を明かす「芸人も辞めるつもりだった」【連載:佐藤満春って何者?】

  • WEBザテレビジョン
  • 更新日:2021/09/15
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佐藤満春 ※ザテレビジョン撮影

サトミツこと、どきどきキャンプ・佐藤満春。自身が構成兼DJを務めるラジオ番組では膨大な音楽の知識を生かした生放送を展開し、放送作家として「スッキリ」や「ヒルナンデス」、「キョコロヒー」「オードリーのオールナイトニッポン」など多数の番組に携わる。そして、あるときは掃除やトイレの専門家として「有吉ゼミ」などといった番組に出演し、さらにはロケ企画の進行として参加したオードリーMCの番組「日向坂で会いましょう」で号泣。

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この連載では、芸人・放送作家以外にも掃除やトイレの専門家などとしても活動し、人形劇の脚本なども手掛けるなどさまざまな顔を持つ謎の男・佐藤について、インタビューなどを通して紐解いていく。

第2回となる今回は、佐藤に大学卒業後のコンビ結成からブレイクに至るまでを振り返ってもらう。

ナイツ塙とコンビ結成していた可能性も

――大学卒業後、今の相方である岸学さんとコンビを組まれたそうですね。

大学卒業から1年後の2001年に、知り合いの紹介で岸と組みました。文化祭などで漫才をしたりはしていましたが、正式にコンビを組んだのは岸が最初ですね。当時、岸は創価大学の落研をやってて、僕の友達にも創価大学の落研の人がいたんですよ。その人が落研のライブに誘ってくれてよく行っている間に、岸やナイツの塙(宣之)君とかと知り合いになりました。

最近塙くんに言われて気づいたんですけど、その時に一回、塙君に探りを入れられてるんですね。塙くんが土屋(伸之)君とコンビを組む寸前くらいにご飯を食べに行ってるんですが、お互いに相方を探している状況だったので、ともすると「僕と塙君がコンビを組んでいた」みたいな世界線もなくはなかったかもしれません。

――もしかしたら塙さんとサトミツさんがコンビを組んでいたかもしれないとは、すごい話ですね。

もしあの時にどちらかが具体的に「一緒にやろう」と言ってたらやってたかもしれないし、僕が岸を見つけてなければ、塙君が土屋君を見つけてなければ、組んでたかもしれないし。まあ、タラレバですが。

――もし塙さんと組んでたらどうなっていたと思いますか。

見た目的な素養でいうと、つっちーと近いものはありますけど(笑)、つっちーのようにマメに淡々とツッコむ感じは、僕にはできないかなと。でも塙君のネタづくりの実力を見ると、今のナイツほどは成功してなかったにしても、ある程度は形になっていたかもしれないですね。

――現在の事務所に所属したのは2005年とのことですが、2001年のコンビ結成からの4年間はどんなことをされていたんですか。

当時僕と組んだときに、岸がアミューズのお笑い部門の立ち上げ組織の預かりになってて、僕らもそこで活動をはじめました。WAGEという人気グループだった脚本家の森ハヤシくん、かもめんたるの2人、小島よしお、手賀沼(ジュン)君とか、あとは今のギースの尾関君とかと一緒にライブに出てました。アミューズのお笑い部門がすぐ閉鎖になったので、そこからは自分たちで単独ライブをやったり、ネタ見せに参加してお笑いライブに出させてもらったりしてました。

――そうなんですね。

劇場も自分たちで借りたりして。僕はライブがすごく好きなので、劇場を借りて、チラシつくって、音響さんや照明さんを手配して、って無茶苦茶好きなんですよ。今でも好きですけど。だから自分たちでライブを主催することは、全然苦じゃなかったです。とはいえ、ライブだけでは飯が食えないので、岸が今の事務所のマネージャーさんと知り合いだったので、紹介してもらい、オーディションでネタを見てもらってケイダッシュステージに入りました。

念願の初冠ラジオ番組「ラジオの入口の入口に立てた」

――事務所に入ってみて、いかがでしたか。

事務所に入って最初びっくりしたのは、こんなにテレビのオーディションがあるんだってことですね。ようやく芸能界の入り口に立たせてもらった感覚を覚えました。いわゆるネタをつくってライブで披露するという、お笑い芸人としてベーシックな活動はできていたので良かったのですが、もう1つの目標である「ラジオ」にどう向かうか、ずっと考えてました。でも、やってみて分かったんですけど、ラジオにたどり着くというのはすごい難しいなと。

――それはどういったことがあって感じたんでしょうか。

当時、文化放送の「レコメン」にはなわさんとか前田健さんが出るときに、後輩芸人軍団というくくりでオードリーとかビックスモールンとか7~8組いる中の1組で呼んでもらいました。ラジオの現場に行って、「文化放送ってこんななんだ」ってラジオファンとしては楽しかったですけど、放送に一声のるかどうかでしたし。これはとんでもない道のりだなと。

――大勢のゲストの中の1人ですしね。

大勢の1人だし、その中でも面白さやトーク力でいうとビリですよ。みんなの間に入って一言面白いことを言えるなんて技量もないですし。「無理だな~きついな~」と思いながらそれでもなんとかしなきゃと思って努力するわけですが。

それから文化放送でやっていた「のーぎゃらくん」というオーディションに参加させていただいてたまたま優勝して、ご褒美で「どきどきキャンプののーぎゃらくん」という長年夢見たラジオ番組を収録させていただきました。確かBSじゃないと聴けない放送だったので誰が聴くんだっていうことはありつつも(笑)、そこで初めてラジオの入口の入口に立てました。

――ついに冠のラジオ番組ができたんですね。

番組は鈴木純子アナと作家の吉原じゅんぺいさんとディレクターさんと収録したのですが、終わったあとに「僕はラジオやりたくて芸人になりました」と全員に話して、収録終わったときに3人に手紙書いてるんですよ。気持ち悪くないですか(笑)?でも芸人として色々お仕事くるようになった後、文化放送で仕事したときに、僕の声を聴いた鈴木純子さんがスタジオに入ってきてくれて再会して、その時の話をしてくれたというドラマもありました。

解散予定だったどきどきキャンプ「芸人も辞めるつもりだった」

――どきどきキャンプとしては2008年、「爆笑レッドカーペット」での「24」ネタでブレイクしましたが、当時を振り返ってみていかがでしょうか。

当時は、僕が夢見ていたラジオの片鱗を少しずつ掴んでは掴み切れずのときで、「オンエアバトル」でも5回に1回ぐらい受かるぐらいでした。お笑い芸人としては認めていただいているけど、飯は食えないという状態で。

そんななかで、ちょうどショートネタブームが来たわけですが、岸と「もう解散しよう」と話していました。もう30にもなるし、お笑いでやる難しさも感じていて、風呂なしのアパートにいつまで住んでるんだとも思ってましたし、モラトリアム的に夢を見させてもらう時間もそろそろ終わりかなと。

で、第何回か目の単独ライブをやった後に、「もう解散だな」と2人では一致してて、当時のマネージャーにも話しました。先の仕事も入っていたので、あとは解散のタイミングをどうしようかという状態でした。解散したら、僕は芸人も辞めるつもりでしたね。

「爆笑レッドカーペット」での大ブレイク

――そうだったんですね…。

そういった中で、ちょうどフジテレビのネタ番組「爆笑レッドカーペット」が始まりました。解散を決めている僕らも、向こうはそうとは知らずにオーディションに呼んでくださって参加しました。僕らにはショートネタがなかったんですが、たまたまライブでやっていた「24」のネタを短くして披露しました。解散を決めているので、オーディション会場でもネタ合わせをほぼせずに適当にやったら受かっちゃったんですよ。

1回目の収録でものすごくウケて、すぐに次の収録にも呼んでもらえることになり、それ以降は怒涛の「ネタ番組に呼ばれるブーム」が来ましたね。5月ぐらいからテレビに出始めたんですが、9月にはバイトを辞めました。バイトを辞めたことがある種、「芸人を続けていい」という印鑑で、解散を決めていたけど、「仕事もあるしやろうか」と岸と話してそのまま続けることになりました。

――お話を聞いていると、解散を決意していたというものの、岸さんとの関係が悪くなったから、という感じではないんですね。

そうですね。そもそもドライなコンビではあったのですが、仲が悪くなったりはなかったんですよ。今ぐらいの感じで、ずっと淡々としている感じで。岸もああ見えてお笑いには熱い男なので、全然コンビの空気が変な感じになることはなかったですね。コンビ組む時に岸も僕も、「それぞれが活躍しないとコンビとして活動する意味ないから」とずっと言ってましたし、コンビのスタンスはずーっと変わらないと思います。

ブレイク後の絶望「想像だにしない世界でした」

――そこから多くテレビに出るようになったかと思いますが、いかがでしたか。

いろんな番組に出させてもらえるようになるんですけど、そこからは僕の知らない、想像だにしない世界でした。しばらくはショートネタブームで同時期に活躍した芸人さん数十組の皆さんとひな壇に呼ばれて、僕自身は収録では1言もしゃべれないで帰るという日々が続きます。性格的にも実力的にも本当に難しかったと思います。

ご飯を食べれるようになったとて、またできないところにたどり着いちゃったんですよ。「飯が食える」というレールに乗った瞬間に、自分に向いてない仕事がいっぱい来て、また絶望でしたね(苦笑)。飯さえ食えてテレビに少し出られたら何かが変わると思ったら、変わらないどころかさらに状況が悪化して。

――売れたものの、テレビでは自分には向いていない仕事が多かったと。

そんなときに、同じ事務所で仲良かったオードリーが2008年の「M-1」で準優勝をし、そこからの活躍で「オードリーのオールナイトニッポン」が始まりました。僕としては、憧れの現場に着いて行けるということで2回目の収録から現場にお邪魔させていただきました。

(藤井)青銅さんにご挨拶させていただきご相談する中で「そういう人がたまにいて、いろんな理由をつけて放送を見に来てたよ。君もたとえば作家見習いということにすれば毎週来る理由になるんじゃない」って言ってくださって。ディレクターの宗岡さんも認めてくださって、毎週行かせていただき、会議にも呼んでもらえるようになりました。

放送作家として活動をする第一歩でした。とにかくラジオの現場にいるという喜びがありましたね。そこから5年~6年間ほど番組の作家として修業させていただき、一旦離れて、全国ツアーのライブからまたお声がけいただいて、一昨年からまた正式に番組の作家として呼んでいただいてます。

転機となったラジオ番組と「アメトーーク!」

――現在、サトミツさんはご自身でラジオ番組を担当されたりしていますが、「オードリーのオールナイトニッポン」以外で転機となった出来事はありますか。

ラジオ日本の朝の番組「おはよう!SPOON」で、ゲストに呼んでいただいたことです。今もお世話になっているんですけど、宮川賢さんが僕のトークを褒めてくださったことは自信になっていきました。このあたりからメディアでトイレの話をさせていただく機会が増えていきます。後にそこから宮川さんと一緒にラジオ日本に企画を出し、今も長く続いている「佐藤満春in休憩室」という番組がはじまります。

そして、同じぐらいのタイミングで「アメトーーク!」で「トイレの紙様芸人」に呼んでいただきまして、あれだけひな壇が苦手だと言っていた自分が、しっかり収録で活躍できた回であったと記憶してます。「アメトーーク!」は「じゃないほう芸人」や「掃除大好き芸人」など僕の名刺になるようなくくりの回でお声がけいただき、そこでテレビでの立ち振る舞いなど、出演者の皆さんやスタッフさんに教えていただきました。好きなことや自分の素養にあることは、自信もって話せばテレビでも伝わるのだなという原体験になりました。トイレ好きという旗を立てることができたという意味でも、本当に「アメトーーク!」には感謝です。

――では現在の「サトミツさん=トイレ好き」というイメージは、「アメトーーク!」で確立したかたちですね。

そうですね。僕が持っている素養をしっかり話すことで面白くなるというフレームをつくってくれたと思います。僕の世の中に対する印象を与えてくれたのは完全に「アメトーーク!」ですね。トイレも掃除も“じゃないほう”も、僕にある要素を縁取って面白くしてくれたのは「アメトーーク」です、完全に。

未熟でセンスも何もない自分でもテレビで活躍できる場所があると思えたのは、本当に自信になりました。実力もないし、5角形レーダーチャートだとしたら、かなり偏ってる僕のような人間でも「できること」で勝負できるのだなと思えた瞬間でもありました。

ギリギリ選択肢を削って削って見つかった細い道

――サトミツさんご自身の“戦う場所”が見つかったんですね。

放送作家の仕事をはじめた頃だったのも大きかったかもしれません。このころは作家の仕事をしたり、トイレの研究発表をするイベントを開催すると「芸人なのに…」「何がしたいのかわからない」なんてまだまだ言われ、甲子園のように賞レースを追い求めてひな壇で活躍してテレビに出ることだけが正義だと思われていた時代(そういう意識が強かった時代)なので。

息苦しかったところはありますが、素敵なご縁もたくさんあって「自分といういびつな丸を磨いて仕事にしていく」作業をさせていただけたように思います。決してエリートでもスマートでもないですが、僕にとってはギリギリ選択肢を削って削って見つかった細い道なので、誰に何を言われても関係ない感じでしたね。

――なるほど。

メジャーなものしか許容されない時代がゆっくりゆっくり変わっていきはじめたのも、このころかもしれないです。有名じゃないと存在価値がないかのような空気感は少しずつ和らいでいったように思いますが、当時はまだまだ「知らない=価値が無い」と思わる機会も多かったですね。

僕なんて、今までもこれからもドメジャーな超有名タレントにはならないんで、その尺度で計られたら無価値かもしれないんですが、そんなことないんですよね。無名なバンドでも素敵な曲を奏でて人の心を揺さぶることがあるように、メジャーなバンドのメジャーな曲でも細かいアレンジをした人の名前は世にでないけど必要だったように、僕自身も手柄も知名度もいらないので細々とエンタメに関わりたいなとはっきり思った頃だと思います。

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