「土下座できないならば俺は会わない」西武グループの“異母兄弟”、堤清二・義明の“確執”

「土下座できないならば俺は会わない」西武グループの“異母兄弟”、堤清二・義明の“確執”

  • 文春オンライン
  • 更新日:2021/06/10

「毎日のおかずにも事欠いて弁当が真っ白なんだ」西武グループ創業者の元に生まれた堤清二が送った“奇妙”な生活から続く

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1927年、西武グループの創業者堤康次郎と、愛人の青山操の間に生まれた堤清二。康次郎の築き上げた西武グループを引き継いだのは清二の異母弟・義明。一方、義明の兄でありながら、康次郎から西武グループの中核企業の相続を許されなかった清二は、西武グループとはまったく異なる「セゾングループ」を作り上げた。

生みの母を異にする清二、義明兄弟の確執はどんなものだったのかーー。ノンフィクション作家・児玉博氏の『堤清二 罪と業 最後の「告白」』から清二と義明の関係について一部抜粋して紹介する。(全2回の2回目/#1を読む)

清二と義明

清二が、自らの能力を頼りに地平を切り開こうとしたのとは対照的に、義明はある意味、律儀に康次郎の教えを守り抜こうとした。

康次郎は自らが早稲田大学で柔道部に所属していたこともあり、東京・麻布の米荘閣の敷地内に柔道場を作り、義明に日課のように柔道に取り組ませた。早稲田大学に進学した義明が観光学会のサークルに所属し、卒論に書いた研究内容が、後に「大磯ロングビーチ」として具現化したという逸話は有名だ。

一方で早稲田進学にあたり、康次郎が義明に柔道部に所属することを条件としたことは、あまり知られていない。義明はそれを従順に守った。名前だけの柔道部員ではあったが、05年3月に証券取引法違反容疑で逮捕され、西武王国の“天皇”の座を追われてからも、義明は毎年5000円のOB会費を律儀に払い続けている。

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堤義明さん

義明が逮捕された後、西武グループは銀行から送り込まれた後藤高志主導で経営再建を目指した。清二は、父康次郎の時代から築き上げて来た有形無形の遺産を意図的に壊していく経営手法を「銀行屋の数字合わせだけの経営」と厳しく指弾し、弟の猶二らと共にコクド株の所有権確認訴訟なども起こした。

意図的に堤家が西武グループから排除される状況下で、経営の主導権を正常な形に戻す、つまり真正な株主である堤家の意向を経営側は汲むべきだという主張を通すために、最も有効だろうと清二が望みを託していたのが、実は義明と手を結ぶことだった。2012年当時、西武ホールディングスの筆頭株主は米投資会社「サーベラス・キャピタル・マネジメント」(持ち株比率はおよそ32.4%)。サーベラスに次ぐ第2位の株主は14.95%を持つNWコーポレーション、かつて西武グループの“持株会社”だった旧コクドだ。そして、このNWコーポレーションの最大の株主で、他の株主にも圧倒的な影響力を持っているのが義明なのである。つまり義明個人が第2位の株主といっても過言ではない状況だった。

サーベラスとNWコーポレーションの株式を合わせれば西武グループの株の過半数を押さえられる。清二と、行動を共にする康弘、猶二がそう考えるのは必然だった。

「土下座できないならば俺は会わない」

清二たちは様々な仲介者を頼りに義明との接触を試みた。仲介者たちは、義明が内縁の妻とひっそりと生活を送る長野県軽井沢を訪ねては説得を試みたが、結果は捗々しいものではなかった。堤家と古い付き合いがあり、義明とも懇意にしていた元参議院議員、義明と麻布高校で同級生だった弁護士……。彼らは複雑な義明の心を解き放つのではないかと期待され、軽井沢に赴いたが、そのわだかまりを解くことは叶わなかった。

もう80歳になろうとしていた義明は、時に上機嫌で(清二と)会ってもいいぞ、と言ったかと思うと、

「俺に会いたいのなら、今までの非礼を詫びて俺の前で土下座するのが先だ。土下座できないならば俺は会わない」

と、態度を豹変させた。

清二と義明の兄弟の不仲を案じて軽井沢まで足を運んだ関係者に、かつて“ハービー”の愛称でアイスホッケー界のスター選手だった若林修がいる。実兄の仁とともに若林兄弟といえば、日本アイスホッケーの代名詞のような存在だった。

若林兄弟はカナダ生まれの日系カナダ人で、先に来日し、西武鉄道のアイスホッケー部に所属したのは兄の仁だった。兄の誘いで修が来日したのが1969年(昭和44年)、同じく西武鉄道に所属した。

この兄弟に義明は自ら目を付け、獲得を指示した。JOCの会長も務めた義明のスポーツ好きは有名で、ゴルフ、スキーなどは相当な腕前でもあり、軽井沢に逼塞した後は、旧知のゴルフクラブで一般客がスタートする前にプレーをさせてもらっていたほどだ。

義明が熱をあげた代表的なスポーツが、アイスホッケーだった。70年代は今では考えられないほどにアイスホッケーの人気が高く、中でも必ず白熱した試合となったのが、西武鉄道vs国土計画(旧コクド)の同じグループ企業同士が闘う黄金カードだった。このカードはテレビでも放映され相当の視聴率を記録した。西武グループの総帥、義明は必ずリンクに足を運び、激しくぶつかり合う様を満足げに見ていた。

わけても若林兄弟は義明のお気に入りの選手であり、兄弟もそれに応えるように忠誠を示した。“ハービー”の兄の愛称は“メル”だが、ある時期、カナダに渡った義明の親族の生活の面倒を、メルが何くれとなく親身に見続けたこともあった。若林兄弟は、いわゆる“義明ファミリー”の一員だった。

「近いうちに会うようにするよ」

その弟のハービーが義明の元を訪ねた。義明は大層な喜びようだったという。かつて自らリクルートし可愛がったアイスホッケー界のスターが、訪ねてきてくれた。鬱々として身を潜める義明にとっては誰より嬉しい訪問者だったのではないだろうか。義明自らがお茶を入れ、菓子や果物を次々に勧めた。昔話に花が咲き、義明は久しぶりに声を立てて笑った。

若林は40年以上にも及ぶ付き合いを通じて、義明の性格を熟知していた。機嫌良く振る舞っている時でも、不用意な一言ですべてが豹変してしまう。若林は義明の表情を窺いながら慎重に話を切り出した。

「社長たちファミリーがつくった会社が西武なんだから、社長達ファミリーがもう一度手をつないでやるのが良いんじゃないですか。僕らはそれが願い。それでもう一度、アイスホッケーをやりましょうよ。それには社長が元気でなくちゃ」

若林は極度に緊張したという。義明にとってファミリーといえば、清二、康弘、猶二の3人しかいない。康弘とはたまに電話でも話す関係が続いていて、義明が牙を剥むくことはほとんどなかった。しかし、清二に対してはまったく違う。劣等感の裏返しなのか、清二の名前を出しただけで猛烈な拒否反応を見せた。若林は終始、義明の好むスポーツの話題を投げかけてはその心を和ませようと努めた。義明はご機嫌だった。昔に帰ったように若林のことを「ハービー」「ハービー」と呼んで、笑顔を見せた。

若林はもう一度、家族の話を持ち出した。残された堤家の人たちが協力して、堤家の手によって西武を復活させてください、と。若林は義明の表情に変化がないか凝視した。その危惧をよそに、義明はこう答えた。

「お前にも心配をかけてすまないな。心配するな、近いうちに会うようにするよ」

「我が耳を疑った」

若林が後でそう振り返ったほど、義明の答えは意外なものだった。あれほど頑かたくなに清二や猶二と会うことを拒んできた義明が、いともあっさり会っても良いと、言ったのだから。若林は小躍りをするように軽井沢を後にした。東京でその報告を聞いた清二や猶二も、自然と顔がほころんだ。義明の凝り固まった心の扉を開けるのは誰か。思い悩んだ末に白羽の矢が立てられた切り札が、若林だったからだ。

「義明君は本当に可哀想な人なんですよ」

西武グループを堤家の手に……。世間の指弾は覚悟の上で、実父が作り上げた西武王国の経営を再び取り戻そうと切望する清二は、若林の再訪に並々ならぬ期待を寄せた。最初の訪問からおよそ1週間後、清二や猶二の励ましを受け、若林は再び軽井沢を訪れた。

「社長の様子を清二さんたちに伝えてきました。とても喜んでいましたよ。社長に会うのを愉しみに……」

若林がにこやかにこう話しかけた時だった。黙って聞いていた義明が、突然怒声を発したのは。

「お前は何様だ。何が清二だ。俺はあんな奴になんか会わない。だいたい、アイスホッケーの選手だろ、お前は。ただのホッケー選手が口をはさむような話じゃないんだ。何様だと思ってるんだ」

逆上した義明の顔は紅潮していた。若林は呆然と赤く膨らんだ顔を見つめ、沈黙するしかなかった。たかがホッケー選手となじられたことがショックでもあった。言葉が出ない。義明の荒い息づかいが聞こえてきた。若林はプライドをボロボロにされて、軽井沢を後にした。

それから3年後の2015年6月、若林は急逝する。密葬の後、関係者のみの「お別れの会」に義明は顔を出したが、早々に会場を後にした。西武王国の“天皇”として君臨し続け、そして全ての権力を取り上げられた義明の精神状態は誰にも推し量れなかった。

「義明君は本当に可哀想な人なんですよ。周りがいけないんだな。大事にされ過ぎて世間のことなんかこれっぽっちも知らないんだな。雨の中に放り出された子犬みたいなもん。可哀想な人なんだ」

義明との面談の可能性について訊ねると、清二は淡々とした口調で、「可哀想な人だ」と何度も呟いた。たしかに義明は西武グループの“天皇”として育てられたが故に、世間からは完全に遊離した存在になっていた。

「今から馬乗りをやる」

全国にあるプリンスホテルの支配人たちは、いつジェットヘリの爆音を轟かせて天から降ってくるかも知れない義明に、備えなければならなかった。プロペラの音が近づくにつれ、支配人の緊張感は高まり手には汗が滲んだ。彼らの日課の1つが、義明が前日に食べた献立を知ることだった。万が一、前日と同じメニューを出せば義明の側近から𠮟責の声が飛ぶ。前日と同じメニューを出しただけで閑職に追いやられた支配人の悲劇が、伝説となってホテルの幹部を金縛りにした。義明の到着が事前に分かっている場合、従業員は義明の到着に備え、迎えるための事前練習に励んだ。黒塗りの車がホテルの玄関前に着く。赤い絨毯を音もなく敷き従業員が整列して迎える。プリンスホテルの従業員にとって、最上のもてなしを考えなければならないのは顧客ではなく、義明に対してだった。

康次郎の言いつけを守り続け、幼い時から堤家独特の帝王学を学んできた義明の精神構造は、独裁の酷薄さと幼稚さが同居した。ロールスロイスに乗るや、運転手に「コロッケを買いに行け」と言いつけ、コロッケをロールスロイスの広過ぎるであろう後部座席で1人頬張っては、

「お前たちはこんな美味いもんをいつも食べているのか」

と、漏らしたりもした。

康次郎の存在そのものが、精神的な圧迫を与えていたのだろう。義明は時として、突飛な行動を起こすこともあった。

ある日突然、義明の側近たちに招集がかかった。指定された場所は箱根プリンスホテル(現・ザ・プリンス箱根芦ノ湖)にほど近い義明の別荘だった。理由を聞かされないまま集まってきた西武グループの幹部に、義明は何の照れもなく真面目な顔で言うのだった。

「俺は子供の頃からスパルタで育てられ、子供がやるような遊びをしてこなかった。だから今から馬乗りをやる。いいか。わかったな」

義明の前に立っている幹部は一瞬、何を言われたのかわからないように押し黙った。1人が「会長が馬乗りをやるんだ」と言いながら、背広を脱ぎ始める。「どうやるんだっけ」。幹部たちとて皆60歳を過ぎようかという年齢だ。幼い日の馬乗りの記憶など半世紀も前のものだ。

馬となった幹部らに向かって、「いくぞ」と声をかけた義明が飛び乗る。

義明はさも嬉しげに馬となっている幹部に、

「どうだ、重いか? 昨日肉を食べたからちょっと重いだろう?」

と言っては、1人ケタケタと笑い転げた。静まり返った夜の別荘に、義明の笑い声だけが響いた。

(児玉 博/文春文庫)

児玉 博

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