「地上の楽園」北朝鮮に渡った在日朝鮮人が語る辛苦

「地上の楽園」北朝鮮に渡った在日朝鮮人が語る辛苦

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  • 更新日:2021/04/08
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朝鮮学校の入学式。この時、李泰炅氏は日本に住んでいた

かつて日朝両政府が推進した在日朝鮮人とその家族を対象にした「帰国事業」。1959年からの25年間で9万3000人以上が「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮に渡航したとされる。その多くは極貧と差別に苦しめられた。両親とともに1960年に北朝鮮に渡った脱北医師、李泰炅(イ・テギョン)氏の手記。

(李 泰炅:北送在日同胞協会会長)

私は1952年、山口県下関市大和町東山1丁目で生まれた。両親は韓国の慶尚北道慶州(キョンサンブクド・キョンジュ)から日本に渡った朝鮮人で、私は7歳になると地元の朝鮮初中級学校に入学した。

下関朝鮮初中級学校で一緒だった44人の同級生のうち、4人とは後に北朝鮮で再会した。残りの40人は今頃どうしているのだろう。社会人として活躍しているか、あるいは引退して余生を送りながら、当時の写真を見ているに違いない。今でもあの時の同級生に会いたくてたまらない。

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筆者の幼少時代

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日本の自宅裏

私の父は解放後、故郷の慶州(キョンジュ)に帰るため、韓国に近い下関に住んでいた。当時の韓国は政治も経済も悪く、帰国した人々ですら密航船に乗って日本に舞い戻ってくるような状況だった。

韓国にいる叔父から手紙が届くと、韓国に帰ろうとしていた父の気持ちは揺らいだ。「兄さん、生まれ故郷に帰ってこなくても、いい暮らしができるならそこが故郷だよ。住みやすいなら、そのまま日本に住んだらどうかな」という内容だった。この手紙は、私が北朝鮮で暮らしている時に何度も何度も見せられた叔父からの最後の手紙だ。

北朝鮮は「無償治療」と「無料教育」を掲げ、人民が幸せに暮らせる「地上の楽園」だと喧伝していた。両親はその嘘を信じ、数年以内に北朝鮮が朝鮮半島を統一するから、早い時期に北朝鮮へ行って生活を確立する、その後に親のいる故郷へ向かうと言っていた。

わけも分からぬまま、私は朝鮮学校が組織する「帰国実現デモ」に参加し、1960年、両親に連れられて北送船(帰国船)に乗った。帰国者は、地上の楽園に行く幸せな移民だと思われていた。小学校2年生だった私はクラスで送別会をしてもらった。モデルのようにきれいな先生や同級生44人に激励を受けた記憶がある。

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朝鮮学校の同級生

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7歳の子供が感じた「地上の楽園」の現実

「帰国実現」とは、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)と朝鮮総連の韓悳洙(ハン・ドクス)が在日同胞をだまし、北朝鮮に移住させた事業だ。資本主義社会から社会主義社会への大移動であり、それすなわち社会主義の大勝利だと彼らはこの事業を高く評価していた。北朝鮮は「無償治療」と「無料教育」の国、「地上楽園」であると偽りの喧伝をしたのだ。

日本赤十字社と朝鮮赤十字会との間の協定により、新潟港から北朝鮮の清津(チョンジン)港に行く航路が開設された。1959年12月14日に最初の帰国船が出発し、975人の在日同胞が北朝鮮に送られた。

私の乗った「トポルスク号」の操縦士たちはソ連人だった。休憩時間になると船頭に出て、私たちにロシア民謡「カチューシャ」を教えてくれた。そんなふうにして3日間を船で過ごした。2段ベッドが備え付けられた部屋では8人寝ることができ、家族単位で過ごした。「トポルスク号」で思い出すのは黒っぽくてカビ臭いごはんと、ゴルフボール大の渋いリンゴだ。

地上の楽園で暮らすという夢はすぐに打ち砕かれた。午前10時、清津港に到着した瞬間、「だまされた」と思った。ハンマーでガツンと殴られたように、頭がくらくらした。港で私たちを出迎えに来てくれた人々の浅黒い肌と、彼らが着ている灰色の制服、朝鮮労働党の命令によって激しく振られ続ける花束を見るに、彼らの苦しい暮らしぶりがうかがえた。後に聞いたところ、歓迎に来てくれた人たちは「乞食が来る」と聞いていたらしい。本当に「乞食」が来ると思っていたら、見るからに「紳士淑女」で驚いたそうだ。

船から降りると、チェコスロバキア製のバスに乗せられた。朝鮮戦争ですべてが破壊された後だから、完全なバスはなかっただろう。自動ドアが作動するこのバスは、私たちのために用意した最高の待遇だったに違いない。

バスはある会館に向かった。到着すると家族ごとにテーブルに座らされ、菓子を食べながら管弦楽団の音楽や歓迎の演説を聞いた。菓子といっても黒い物体と石ころのような飴が1皿。黒くて味のしない菓子を弟が「これ、うんちだ」と言って放り投げた姿を今も鮮明に思い出す。

生まれて初めて北朝鮮の無煙炭火を使った母

新潟港を発つ時は、楽園に行けると思ってうきうきしていた。しかし、清津港に到着してすべてを見た瞬間から、私の気持ちはどんよりと陰鬱になっていった。会館を出ると、ガタガタと揺れるバスに暗い気持ちで乗り、清津市にある「帰国者招待所」に向かった。約900人の「北送在日同胞」が朝鮮各地に配置されるまで、5~6日間、過ごす場所だった。

「帰国者招待所」のマンションの前には、大きな地図が掛かっていた。行く場所を選定するのだが、行きたい場所を自由に選べるわけではなく、党が配置を決めるのだ。私たちは北朝鮮で比較的南側のD郡という村に配置された。平壌までは汽車で移動し、西平壌駅からD郡まではマウルバス(地域の小型バス)に乗っていかなければならなかった。わざと砂利をまいたような舗装されていない道路を走る。耐えられないほどひどく体が揺れた。

D郡の家はいずれも平屋の家屋で、村人たちは清津の人々以上にみすぼらしく見えた。ここでも多くの人々が紙で作った花を振って私たちを歓迎し、資本主義社会から来た新しいタイプの人間を好奇心と驚きのまなざしで見つめた。

下関市の舗装道路しか知らなかった私は、歩くたびにほこりが舞うこのような道を「ぬかるみ」と呼ぶことも知らなかった。しわくちゃのズボンと黒く色あせた服を着た、支配人と名乗る人が満面の笑みを浮かべながら握手をし、家まで案内してくれた。山のふもとに新しく建てられたという1棟2戸の平屋。それぞれの住戸には8坪と6坪の2間しかない。トイレは家の前に建っていて共同で使う。掘っ立て小屋に仕切りを作り、地面に穴を掘って、そこに便をした。私は何もかもに幻滅した。

政治も経済も日本とは天地の差がある社会の中で、新しく生まれ変わらなければならない。すべてが不慣れな私たちのために、世話をしてくれる女性が党からあてがわれた。主婦だった母はその女性に一から手ほどきを受けた。その苦労は言葉では言い尽くせない。

母は生まれて初めて無煙炭火を使った。無煙炭火と土を3対1の割合で混ぜて火をつけ、消えないようにまきをくべ続けなければならない。もし消えてしまったら再びまきに火をくべて、無煙炭火を生き返らせる。

母の爪と顔の小じわには石炭水が染み込んで真っ黒になった。暖房もごはんも無煙炭火を使わなければならない。慣れない仕事をする母にとって、これは北朝鮮に渡って初めての苦痛であり、その後も死ぬまで耐えなければならない苦痛の一つだった。

苦痛はそれだけではなかった。

資本主義社会で乞食になった私たちを見る目

食べ物が豊富にあった日本にいる時は、食事の問題がこれほど重要だとは思わなかった。着る物や住まいは根性と心構えでどうにかなっても、生命維持の問題でもある「食事」だけは無理だった。一年中、トウモロコシごはんとキムチ、干し菜のスープばかり。カステラやバターをたっぷり塗ったパンを食べたかったし、牛乳やジュースも飲みたかった。肉や米を買える場所すらないから、おやつを食べるなんてまさに夢物語だった。

解決策として、トウモロコシを炒めて食べながらカステラを食べていると想像し、自分を慰めた。ひたすら我慢しなければならない。日本でバターたっぷりのパンとカステラを食べたことをすごく後悔した。最初からあの味を知らなかったら、食べたいなんて思わなかったものを。

北送在日同胞は2学年下に入学した。朝鮮語が分からないからだ。放課後は残り、夏休みも学校に出ていって朝鮮語を学んだ。先生もクラスメートも「腐って病んだ資本主義社会」で乞食になったはずの私たちを疑問の目で見つめた。初めて見る日本製の消しゴムや学習帳、鉛筆を不思議そうに眺めながら、貸してほしいとねだってきた。いつの間にかなくなっていたこともある。

何もかもが嫌だった。放課後に行われる生活総和(反省会)、授業中に騒ぐクラスメートの姿、授業中机の下の弁当を隠れて食べる姿、雨の日に傘も差さずぬかるみをはだしで歩く姿、寒い冬に火鉢の煙で涙を流す苦痛──。そのすべてに耐えなければならなかった。我慢できず、不平と不満を持ってもいけないのだ。

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北朝鮮の中学時代。右から二人目が筆者

不満を抑えきれず、北朝鮮と中国の国境を流れる鴨緑江(アプノクカン)を渡って脱北する14~15歳の子もいた。思い立ったらすぐ行動に移す年齢だ。川を渡っている途中に捕まる子、中国に渡ってから捕まる子もいた。60年代初頭は党の統制も比較的緩かったので、脱北して捕まっても叱られて終わった。

金正日体制で始まった弾圧と粛正

70年代初めに金正日が後継者に決まると、「党の唯一思想体系確立の10大原則」が発表された。北送在日同胞は「動揺階層」に分類され、大々的な監視や弾圧、粛清が起こる。

恐怖に打ち震えた両親は、「日本のことを聞かれたら、蔑視と冷遇の中で生きてきた、北朝鮮での生活のほうがいい、どんなにバカにされても『知らない』と言え」と私に言った。これがわが家の「家訓」になった。

金王朝という時代に、なぜ北送在日同胞が常に緊張を強いられてきたのか。党は自由民主主義を経験した北送在日同胞に「資本主義思想に染まった人」という烙印を押して監視した。北朝鮮の住民たちに比べると、確かに北送在日同胞は洗脳されていなかったし、党と首領に対する忠誠心も薄かった。忠誠心があるかのように演技していただけだった。

このような根本的な理由により、北朝鮮住民と北送在日同胞が「つらい」「腹が減った」という同じ言葉を発しても評価は異なる。北送在日同胞は「不平」、北朝鮮住民は「真実」とされるのだ。北朝鮮の歴史と経済状況に慣れている住民と違い、自由民主主義社会で暮らしてきた北送在日同胞は厳しい生活になかなか溶け込めなかった。

北送在日同胞は北朝鮮に住んでいた間中、心配と不安で押しつぶされそうな毎日を送っていた。少しの隙もない監視と弾圧、いつ政治犯収容所行きになるかも分からず、今日も明日も食べることができるのか、心配だった。北送在日同胞は「心配の人生」を生きたと言いたい。監視と独裁弾圧の恐怖によりすべてが不満だった。自由で幸せだった日本の生活が対照を成し、記憶から消えない。

私は北朝鮮で人民学校(日本の小学校)、中学校、高校を卒業した。その後、「朝鮮人民軍」に入隊する過程で、北朝鮮の社会主義・共産主義の人間になっていなければならなかった。

北送在日同胞だった高容姫

自由民主主義の国・日本から北朝鮮に送還され、北朝鮮で9年間の義務教育を終えた私は、金王朝の奴隷として過ごした。1971年に軍隊に徴集され、前方部隊に配置されて満6年という青春を費やした。それまで北送在日同胞に兵役はなかったが、私は「党の配慮で」朝鮮人民軍に入隊することになった。

今振り返ると、その頃は金正日氏と高容姫(コ・ヨンヒ)氏の熱愛が絶頂を極めていた時期だった。高容姫が北送在日同胞だったため、彼女の地位を高めるためだ、という話もあった。おかしなことに、義務として服務する「奴隷生活」が「配慮」だと言われ、命を捧げて忠誠を誓わなければならない。大切な自分の命が銃となり爆弾となり、「党と首領を命懸けで死守せよ」と強要されたのだ。

私は軍に入隊し、ひとりで静かに過ごす歩哨所で、後日医者になり脱北する計画を立てた。(翻訳:金光英実)

※李泰炅氏は朝鮮学校時代の同級生と再会することを切望されています。李泰炅氏と連絡を取りたい方は以下のメールアドレスまでご連絡ください。kaburi2020@icloud.com

李 泰炅

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