「本当によく酒を飲んだ」安仁屋宗八。初めてオフに遊ばず防御率1位

「本当によく酒を飲んだ」安仁屋宗八。初めてオフに遊ばず防御率1位

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  • 更新日:2021/01/13

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第14回 安仁屋宗八・後編(前編から読む>>)

毎シーズン、広島東洋カープを温かく見守る大物OBとしてファンに親しまれている安仁屋宗八(あにや そうはち)さん。個性豊かな「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズの14人目として、旧広島市民球場からの本拠地移転をきっかけに2008年に行なわれた取材を取り上げる。

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前編では"沖縄野球界のレジェンド"でもある安仁屋さんの、プロ入りまでの歩みが語られた。後編ではメインテーマだった市民球場の話題とともに、"あの時代のプロ野球"の空気感が伝わってくるエピソードが明かされる。

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1966年7月、巨人戦で9回にノーヒットノーランを逃し苦笑する安仁屋(写真=共同通信)

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安仁屋さんはさまざまな方向に話が飛んでも、"市民球場の思い出"という主旨からは外れていないことに驚く。最初に頼んだアメリカンコーヒーは飲み干され、ウェイトレスが片づけに来たところで2杯目を頼み、左手で顎髭(あごひげ)をさすりながら言った。

「あの、巨人戦いえばね、僕は1カード全部、投げたときもあったんです。1試合目、完投して、2試合目、3イニング投げて、3試合目も投げたんです。その3試合目、長嶋さんに打たれたんですけど、1球目、シュート投げたら、『うーん、この球、打てないよ〜』って、僕に聞こえるように言うたんですね。それで今度、スライダー投げて、勝負、シュート。長嶋さん、ハイ、待ってました、いう感じで、体開いてね、カーンと二塁打。それで負けたんです」

今ではあり得ない、カード頭の第1戦に先発完投しての3連投。そんな大車輪の働きも、最大の武器であるシュートがあったからこそだろう。ただ、長嶋茂雄はその武器を狙いすまして打つべく、"陽動作戦"に出ていた。

「そういうところが、あの人はうまかったんですよ。動物的カン、いうんですか。でも、憎めないですもんね。打たれても、クソッ、悔しい、いうのがなかったですから」

巨人ファンだった少年時代、ONから三振を取るのが夢だった安仁屋さん。もう一人、Oとの対戦はどうだったのか。左バッターでもあり、なかなか打ち取りづらかったことだろう。

「やっぱ、打たれましたね、長嶋さん以上に。何しろ、王さんには詰まってバットを折ってもホームランにされたんです、市民球場で。ポールいっぱいでしたけど、それでも入ってしまって。まあでも、王さんですから、これも市民球場のいいほうの思い出ですよ」

通算119勝のうち、巨人戦で34勝。"巨人キラー"と呼ばれた安仁屋さんにすれば、ONとの対戦自体がいい思い出なのだと思う。その一方で、68年に挙げた23勝。自己最高の勝ち星だが、この年、外木場義郎(そとこば よしろう)さんも自己最高の21勝をマークしている。市民球場の思い出とは別に、両投手間にあったはずのライバル意識についても、ぜひ聞いておきたかった。

「外木場は僕が入団した翌年に入ってきて、初勝利がいきなりノーヒットノーラン。実際、僕はすごいライバル意識を持ちました。たぶん外木場もね、口には出さないけど、僕のこと意識しとったと思うし。僕も当時はね、『コイツがライバルじゃあ』言うてませんけど、自分が意識しとるいうことは、相手も意識しとるんじゃないかなあ、いう気はしてました」

この両右腕エースが誕生した68年、広島は球団初のAクラスとなる3位に浮上。新たに根本陸夫が監督に就任し、阪神から強打者の山内一弘、好守の朝井茂治(しげじ)を獲得するなど、補強の面でも功を奏していた。

「あのとき、僕と外木場はね、根本さんに一日500球、投げさせられたんですよ。キャンプも、オープン戦の間も。それだけ一緒に鍛えられただけに、より意識したと思うんです。向こうが勝ったら、離されんように。逆に向こうが負けたら、追い越してやろうと一生懸命になったし。僕、そこまで張り合うのが本当のライバルや、思いますよ」

先発投手が勝ち星を競い合うことは、最終的にはチーム全体のためになる。その年の広島の3位浮上は、安仁屋さんと外木場さんのライバル意識によって実現したも同然だろう。

「そうそう。あの年、二人で44勝してカープはAクラスに入りましたからね。これ、僕が阪神にトレードで移ったときも同じような感じだったんですよね。前の年は4位だったのが3位に上がって、次の年に2位になって」

にわかに話が阪神へと飛んだ。投手として、チームの勝利に貢献することが何よりの喜び、ということなのか。だとすれば、阪神に移籍した75年、広島が初優勝したときはどんな思いだったのか。去年までいたチームの優勝に貢献できなかった、という思いはなかったのだろうか。

「そんな未練みたいなもんはないですよ。あのときのオフはカープを見返してやろう、思って、プロに入って初めて、遊ばないで練習したんです。それでタイトルも獲れましたから、自分にとってプラスになったし、阪神の順位も上がりましたので」

安仁屋さんは74年、首脳陣との確執もあって不調に終わっている。それがトレードでの放出につながったという思いがあり、「見返してやろう」となったのだった。

「もしも僕、広島だけで現役を終わっとったら、とうに沖縄へ帰ってたんじゃないか、いう気がします。阪神は名門ですし、報道陣もうるさいし、世間の目も浴びたし。そういうチームでやったから今がある、思いますね」

カープひと筋ではわからなかったことがわかった、勉強になった、ということだろうか。

「そう、まさしくそうです。勉強いうたら、小山正明さん、皆川睦雄さん、いいコーチに恵まれました。二人ともすごく選手思いで。それが、のちに自分が広島でコーチとしてやっていくときにね、阪神でいい勉強させてもらった、思いましたから。あの二人の真似をしてみたら、選手がついてくるなあ、いうのを感じたりしましたよ」

安仁屋さんは現役引退後、広島の投手コーチとして3度のリーグ優勝に貢献している。それも阪神での経験があればこそだったようだ。

「もちろん、広島のコーチも素晴らしかったですよ。厳しかった藤村隆男さん、白石勝巳さんのあとの監督だった長谷川良平さんにも大感謝してます。本当に、指導者の方、先輩方にも恵まれてきました。だから、僕はもう世界でいちばん幸せな男じゃないかな、思います」

世界一──。あまりにも唐突な言葉と感じた僕はつい声を上げ、笑ってしまった。安仁屋さんは一瞬、これまでになく険しい表情になった。

「いやいや、僕個人はそうだ、って言えますよ。人生において、自分でやりたいまんま、やらせてもらってきたし。世界一、幸せな男は僕じゃないか、思って、人生、生きていくのって素晴らしいことじゃないですか?」

僕は「世界一」に圧倒され、まじまじと見つめられ、「はい」と答えるのが精一杯だった。そして、いちばん聞きたかったことを、まだ聞けていなかった。広島に復帰して、再び市民球場がホームになって、どのような印象を持ったのか、ということを。

「ああ、それがですね、キャンプではすごく調子よかったんですけど、調子に乗り過ぎて、飲み過ぎて、十二指腸潰瘍になって、それで即入院です。たはっ」

大きく出遅れた80年のシーズン。安仁屋さんはわずか2試合の登板に終わった。

「僕、お酒は、とってもいいもんだと思います。プロ入ってから、本当によく飲みました。それで痛風になったりもしたけど、お酒は、いいときも悪いときも、全部、覚えさせてくれたり、忘れさせてくれたりする。

コーチ時代もね、選手を飲みに連れて歩いて、硬いことなしに話し合えたのはよかったです。選手もお酒の席だったら、聞く耳を持ってくれるんですね。でも、広島に戻ってきたときだけはお酒で失敗しました」

失敗はしたが、近鉄との日本シリーズでは第1戦に登板している。延長12回、江夏豊が勝ち越し2ランを浴びて降板したあとのマウンドだった。

「あのときは二死満塁でツースリーになって、投げたら、たぶん〈ボール〉やったろうけど、審判が『安仁屋ボールじゃ、ストライク!』って言ってくれて助かったんです」

当時のプロ野球、際どい球の場合、例えば、王が見逃したんだから〈ボール〉と判定されるケースがあったといわれる。その逆のようなことが安仁屋さんにもあったとは。

「昔の審判はそういう余裕があったし、ミスったら穴埋めしてました。でも、今の審判は若い人が多いせいか、硬い。こないだの日本シリーズも、フォアボール、多かったですよね。大試合いうのはわかるけど、際どい球は平等にストライクにしてあげたら、もっと試合が締まるし、進行も早くなるでしょう。そうしたらファンの人も、もっと野球が楽しく見られると思う」

2008年の日本シリーズが終わって、まだ2日しか経っていないこともあるのだろう。安仁屋さんの話題はそこから今のプロ野球選手への提言へと広がり、コーチ時代の思い出、さらには沖縄の野球のレベルにまでおよんだ。

「僕はプロで結果が出てから、『沖縄の後輩が入るまで』いう目標があって頑張れたんです。今はもう沖縄から、どんどんプロに入っていますよね。で、これはうぬぼれでも何でもないですけど、ピッチャーは僕を目標に置いてくれたらありがたいなあ、思います」

実際、安仁屋さんの通算119勝を超えた沖縄出身の投手は出現していない。

「できることなら年間23勝も超えてほしいし、野手なら石嶺ですよ。彼、タイトル獲って、オールスターで4番を打ちましたよね。そういうバッターに出てきてほしいんです」

阪急・オリックス、阪神で活躍した石嶺和彦。豊見城高から1978年のドラフト2位で阪急に入団し、実働16年で通算1566試合に出場。1419安打、269本塁打、875打点を記録し、90年に打点王のタイトルを獲得している。

「石嶺は後輩ですけど、僕は尊敬しますね。中日でコーチとして貢献してるし。僕、解説と評論の仕事をするようになってから、市民球場は毎試合、一日も欠かさず見に行ってたんですけど、石嶺はいつもちゃんと挨拶に来てくれるんです。やっぱ、うれしいですよね、その気持ちが」

沖縄の野球から、話は市民球場へと帰還した。安仁屋さん、毎試合、一日も欠かさずに見に行っていたのだ。そこまで通っていた野球人、カープOBの方でもいないだろう。

「いないですよね。よく来る人はいますが、毎試合ではないし、僕が最高ですよね。自信持って言えます、それだけは。はっはっは。もちろん新球場にも行きますよ。毎日、毎っ試合、行きます。よっぽどケガとか病気せん限り、全部。それが僕の目標ですから。僕も選手たちと同じく、目標持って、市民球場に通ったんですから」

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日差しはあるのだが、小雪が舞っている。2008年12月6日。カープOBオールスターゲームは、真冬の寒さのなかで始まろうとしていた。選手は〈チーム広島〉と〈チームカープ〉に分かれ、安仁屋さんは〈広島〉だった。

試合前、三塁側ベンチにいる安仁屋さんに挨拶に行くと、「おお。ゆっくり見てってください」と言われたが笑顔はなく、緊張した面持ちだった。ユニフォーム姿で帽子をかぶっているからか、取材時とはまったくの別人のように感じられた。

選手たちはベンチ前に置かれたパイプ椅子に座る。ファンにできるだけ姿を見せてあげたい、という配慮なのかもしれない。軟式球を使用するのも、それゆえ安全性を考慮したのだろう。取材エリアも両サイドのファウルグラウンド上に設けられ、僕はそこで観戦させてもらった。

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2008年のカープOB戦、往年の投球フォームで力投する安仁屋さん

1回表、カープ先発の外木場さんはゆったりとしたフォームで丁寧に投げ、三者凡退に抑えてチェンジ。安仁屋さんがマウンドに上がる。いつの間にか雪はやんで、夕焼けのような日差しに照らされ、[沖縄の星]が光り輝いていた。

1番、高橋慶彦は初球を打たせてピッチャーフライ。ところが、2番の木下富雄は2ストライクと追い込みながらデッドボール。安仁屋さんが一塁に出た木下に脱帽して頭を下げると、スタンドが笑いに包まれた。その後、3番の西田真二には右中間に運ばれたが、4番の山本浩二はファーストへのファウルフライに打ち取る。続く5番、萩原康弘──。

そのとき、背後のスタンドから野次が飛んだ。

「いいぞ〜、あにや〜、まだまだいけるぞ〜」

力強く澄み切った声が、静かな市民球場全体に響き渡った。安仁屋さんはトコトコと足踏みをしてこちらに向き直ると、再び脱帽して、ゆっくり、深々と頭を下げた。

(2008年11月12日・取材)

高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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