「君幸いに健康に」戦地の息子と、父が交わした70通 望郷と覚悟つづる

「君幸いに健康に」戦地の息子と、父が交わした70通 望郷と覚悟つづる

  • 西日本新聞
  • 更新日:2020/08/02
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深田文次さん。写真の裏には「昭和16年1月上旬 南支にもこんな冬服を着た日がありました」と書かれていた

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商店を営んでいた深田政次さん。店の領収書などに使った複写できる紙に手紙を書いたため、控えが残っていた

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深田政次さんが残していた息子文次さんへの手紙の控えと家事記録

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陸軍歩兵第124連隊のガダルカナル島での戦闘の様子を報じた西日本新聞(1943年10月)も、深田家には保管されていた

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実家の物置で見つかった、戦地への手紙の控えに目を通す足立麻紀さん(撮影・宮下雅太郎)

≪拝啓 内地も若葉萌(も)え桜花咲き香る春の訪れを見た事と存じます≫

1940年春、中国広東省で警備に当たっていた深田文次さんは、福岡県の父親に手紙を宛てた。二十歳で陸軍に入隊し、日本軍の占領地に着いたばかり。所属する歩兵第124連隊は、日中戦争勃発から連戦連勝で士気は高かった。

「南支」と呼ばれたこの地の気候は、高温多湿の亜熱帯。田には青々とした稲が伸び、くわを担いだ現地住民がたばこをくゆらす姿もある。夜間に銃声は響くものの、襲撃を受けることはなかった。

≪美しい月の出た夜は月を眺めて戦友と故郷の思い出にふける事があります。去年の夏まで面白く遊んでいた事が浮かんできます≫

実戦に向けた厳しい訓練が続き、下士官教育も受けた。討伐戦に加わり、重たい装備を背負って約40キロを歩くことも。長雨で湿った靴は乾かす暇もなく、足の湿疹に皆悩まされた。

当初は珍しかったバナナはすぐに食べ飽き、缶ドロップなど甘い菓子をねだる手紙を何通も書いた。慰問袋で届いた干し柿やおはぎを頬張り、お守りは鉄かぶとに入れ、両親の写真は朝夕と拝んだ。

≪写真受け取りました。父母の健在な姿を見て、いまさらながら懐かしさと非常な心強さを感じました≫

41年5月、1カ月に及ぶ作戦に参加。あぜ道を進軍中、山の上に陣地を構えた中国軍から突然、機銃掃射を受けた。身を伏せた泥田に弾が「ぶすぶす」と落ち、水煙が上がった。

≪これが最後のご奉公だと決死の覚悟を固めました。頑強な敵も我(わ)が軍の猛攻撃にたまりかね、ついに撃退。戦死者1を出し、真に壮烈な戦死でした≫

マラリアにかかり、作戦終了後に20日間、陸軍病院に入院。罹患(りかん)のうわさを聞いた父から身を案じる手紙が届いていた。退院後、日の丸と「皇軍萬歳」の朱書きの文字が入ったはがきに、びっしり近況を記した。ただ、事実は隠した。

≪幹部候補生の訓育に全力を注ぎております。マラリヤ入院云々(うんぬん)も何かの間違いでしょう。ますます張り切って奮闘していますので何とぞご安心ください≫

「福岡連隊史」によると、124連隊は41年5月の作戦で郷土部隊の勇猛ぶりを示し、輝かしい戦果を挙げたという。一方でこうも書かれている。「半年後、南方での短い“勝利の日”の後、急転直下、死の谷に転落するのである」。太平洋戦争が間近に迫っていた。

「あなたの特命取材班」に寄せられた古びた手紙は、戦地と故郷を結んだある父子の私信だった。

音信が絶えても、父は書き続けた

福岡県津屋崎町(現福津市)の港町で商店を営む深田政次さんの元に、「南支」から最初の手紙が届いたのは1940年3月27日。太平洋戦争開戦までの1年8カ月間に便りは約30通に及んだ。政次さんはそのたびに筆を執り、息子文次さんに近況を詳しく尋ねた。

『警備は何人くらいでどれ位の地区を警戒するのですか。隊長は何と言う人ですか。初年兵は、同郷がおりますか。なまものと生水を食せぬように』

日中戦争の泥沼化で国内は総動員体制に移行し、ぜいたく品の製造販売や娯楽も制限された。一方、第2次世界大戦中の欧州ではドイツが快進撃を続けていた。こうした情勢にも、政次さんは触れている。

『兵隊さんも非兵士も不自由して困苦を共にし国家の興隆をはかるのであります』『ドイツの強さ驚きます。大いに支那(中国)を平定して国家永遠の基礎を堅くする決心を持ち-』

フランスがドイツに降伏したことに乗じ、日本は40年9月、中国軍への英米の援助ルートを断つ目的でフランス領だった北ベトナムに進駐。直後に日独伊三国軍事同盟を結び、英米と対立を深めていった。

41年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃と同時に英国領マレー半島に上陸、太平洋戦争が始まった。文次さんが所属する歩兵第124連隊も石油などの資源を求めてボルネオ島などを攻略。伝えられる戦勝のニュースに政次さんは歓喜した。

『皇軍の意気昇天の勢い、痛快の至りだ』『英米射て、徹頭徹尾ヤッツケテ仕舞え』

開戦後、戦地から届いた便りはわずか4通。42年10月13日、母を気遣う内容のはがきを受け取ったのが最後となった。その12日後、文次さんは太平洋のガダルカナル島で米兵に右こめかみや右腕を撃たれ、戦死した。23歳だった。

音信が絶えても、政次さんは手紙を書き続けた。ガ島からの日本軍撤退(43年2月)や連合艦隊司令長官山本五十六の戦死(同4月)など戦局悪化のニュースに触れ、身を案じている。

『三社参り等、祈願を尽くしておる』『今頃どこで奮闘せられておるか、まさか不吉な事はあるまい』『君幸いに健康に健康に。暇ができたらお便りを』…

43年8月3日、戦死の公報

足立麻紀さん(39)は、福岡県福津市の実家に保管されていた戦地からの手紙を「あなたの特命取材班」に寄せた。戦死した文次さんは祖母(故人)の兄だ。さらに曽祖父の政次さんが戦地に宛てた手紙の控えや日記が物置で見つかった。店の領収書などに使う複写紙に手紙を書いていたため、控えが残っていた。

日記には、戦死の公報が届いた43年8月3日の様子も記されていた。

『夕方六時半ごろ、理髪に行く。途中、娘が泣いて手紙を持ちて帰るのに出会うた所、文次の戦死の公報であった。かねてより覚悟の事とは言え、眩(くら)みておったが落ち着いて理髪を終わり、家族に知らせた』

『嗚呼(ああ)文次…。性活発、寡言にて実行力強く、孝心厚く、母の逆まつげを抜くことを受け持ちていたが、妹へ教えこんで出征した。最後の通信まで一回も漏れなく母の安否を尋ねた』

70通にもなる往復の手紙を読み進めるうちに、麻紀さんは会ったこともない身内の死を初めて実感したという。「心配させまいとする文次さんの気持ちや、帰りを待っていた家族の心境がリアルに迫ってきた。戦死を知らずに手紙を出し続けた政次さんのことを思うと…」と声を詰まらせた。

文次さんを知る唯一の親族も今春病死し、戦争の記憶が失われていく現実にも直面した。戦場と銃後の生活、いずれも読み取ることができる父子の手紙なら、「戦争が起きた時、家族に何が起きるのかを伝えることができる」と麻紀さんは思う。色あせ、黄ばんだ手紙や日記が、背中を押している。 (久知邦)

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【ワードBOX】ガダルカナル島の戦い

1942年8月、米軍は日本軍が建設した飛行場を奪うためガダルカナル島に上陸。日本軍は部隊を逐次投入して奪回を目指し、敗退を繰り返した。戦史叢書によると、補給がなく絶食状態で戦闘を繰り返した兵士たちの間では「立つことのできる人間は寿命は30日間。身体を起こして座れる人間は3週間。寝たきり起きれない人間は1週間。寝たまま小便をするものは3日間。もの言わなくなったものは2日間。またたきしなくなったものは明日」とささやかれたという。日本軍は撤退するまでの半年間に2万人以上の戦没者を出した。米軍が本格的反攻に転じた戦いで、太平洋戦争の転換点となった。

西日本新聞

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