関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家が誰よりも長生きできたのは、島流しのお陰?

関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家が誰よりも長生きできたのは、島流しのお陰?

  • Japaaan
  • 更新日:2021/07/22
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時は戦国時代末期の慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いに敗れた西軍の副将・宇喜多秀家(うきた ひでいえ)は、必死に逃亡を図ったもののついに捕まってしまいます。

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「無念……!」捕らわれた秀家(イメージ)

「……さぁて、どうしてくれようか……」

東軍の大将・徳川家康(とくがわ いえやす)はもちろん秀家を殺す気満々でしたが、前田利長(まえだ としなが)や島津忠恒(しまづ ただつね)ら有力大名のとりなしによって仕方なく死一等を減じ、八丈島へ流刑(島流し)の判決を下しました。

「トホホ……ひとまず助かったのはよかったが、生きて再び本国の地を踏めるじゃろうか……」

現代でこそ飛行機で1時間弱(羽田空港発)、フェリーでも10時間半(竹芝桟橋発)で行ける八丈島ですが、当時の感覚では鳥も通わぬ絶海の孤島。一度流されれば、生きて帰れる希望はほとんどありません。

かくして慶長11年(1606年)、当時35歳の秀家は八丈島へ流されたのですが、以降、八丈島は江戸時代を通じて重罪人の島流しスポット(つまり、秀家はその第一号)となります。

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八丈島。流された宇喜多秀家が、その後故郷の土を踏むことはなかった(イメージ)

かくして八丈島の厳しい大自然を相手に、秀家の新生活は幕を開けたのでした……。

「白い米が懐かしい……」秀家の極貧生活

本土と遠く離れている地形上、生活環境に一定の制限がかかってしまうのは現代も同じですが、当時の八丈島はそれ以上に条件が悪く、秀家は苦しい生活を強いられたと言います。

(まぁ、島流しですから、そうでなくては刑罰の意味がありません)

水が少ないため稲作はできず、やせた土地でも育つ稗(ひえ)や粟(あわ)といった雑穀を細々と収穫し、ほか魚介類や山菜などの採取によって糊口をしのいでいたそうです。

「あぁ、白い米が懐かしい……」

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飢えた時にはお米を食べたくなるのが日本人というもの(イメージ)

ある時、八丈島の代官(彼らには本土から食糧の支給があります)が白米のおにぎりをご馳走してくれた時、秀家は二つとも食べてしまわず、一つを懐中に入れて家臣のために持ち帰ったり、嵐のために八丈島へ避難してきた福島正則(ふくしま まさのり)の家臣に酒を恵んでもらったりなど、涙ぐましいエピソードが伝わっています。

そんな貧乏暮らしであれば、あまり長生きは出来なさそうですが、秀家はしぶとく49年もの歳月を耐え抜いたのです。

(実は妻の実家・前田家から、多少なりとも仕送りを受けていたという説もあります)

人生五十年と言われた時代、平穏に暮らしたって49歳まで生きるのは大変なのに、いったい何を食べたらそんな長生きできたのでしょうか。

長生きの秘訣は八丈島のアシタバ?

極貧生活の中で秀家が食べていたのは、八丈島の名物・アシタバ(別名:八丈草、長寿草)。

漢字で「明日葉(明日草、明日穂とも)」と書かれる通り、今日葉を摘んでも、明日には新しい葉が出てくるほど生命力が強く、ビタミンやミネラル、食物繊維など栄養を豊富に含む健康食品として、現代でも重宝されています。

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明日葉。天婦羅にしたら美味しそう。

古くは中国大陸の薬草辞典『本草綱目(ほんぞうこうもく。16世紀)』や、江戸時代中期には貝原益軒(かいばら えきけん)の生物学書『大和本草(やまとほんぞう)』でも言及され、万能薬とは言い過ぎにしても、それだけ薬効が知られていました。

葉と茎を食用とし、現代では天麩羅に揚げたり汁物の具にしたり、お茶にしたりなど八丈島の食卓に欠かせない食材となっていますが、アシタバは伊豆大島や太平洋沿岸(概ね房総半島~紀伊半島)にも自生しているそうなので、もし見つけたら試してみたいですね。

早寝早起き、腹八分(?)。特に重労働を課せられるでもなかった(大名だったころの方がよほどハードワークだった筈)秀家の生活は、健康食や八丈島の温暖な気候と相まって、彼に長寿を与えたのかも知れません。

エピローグ

その後、徳川家康が亡くなった元和2年(1616年)、島流し生活も10年に及んだため、秀家は罪を赦され、前田利常(としつね。利長の弟で養子)から大名に復帰しないかと打診されます。

「貴殿ほどの逸材が絶海の波濤に朽ちていくのは忍びない。我が所領を10万石お分け申すゆえ、お戻りにならぬか」

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宇喜多秀家。大名よりも、八丈島の暮らしが性に合っていた?(イメージ)

しかし秀家はこれを辞退。たとえにっくき家康が死んだと言えども、徳川家に仕えるなんてまっぴら御免という意地か、それとも八丈島での暮らしが意外に快適だった(むしろ大名になんて戻りたくなかった)のかは分かりません。

そして関ヶ原の合戦から半世紀以上の歳月が過ぎた明暦元年(1655)11月20日、秀家は84歳で世を去ったのですが、世は既に江戸幕府の第4代将軍・徳川家綱(いえつな。家康の曾孫)の時代となっていました。

「ケンカってのは最後に立っていた奴の勝ちだ」※原泰久『キングダム 19』より

かつて激しく天下を争った者たちは敵も味方もほとんど死に絶え、最後の最後まで生き抜いた秀家こそ、戦国乱世の終焉を見届けた真の勝利者だったのかも知れませんね。

※参考文献:
浮田丈男『封じ込められた宇喜多秀家とその一族』文芸社、2001年3月
大西泰正 編『シリーズ・織豊大名の研究3 前田利家・利長』戎光祥出版、2016年8月
永山久夫『武将メシ』宝島社、2013年3月

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