「真っすぐは遅かったが、“旅立ち”は早過ぎる」外城田川忍氏、安田猛氏を悼む

「真っすぐは遅かったが、“旅立ち”は早過ぎる」外城田川忍氏、安田猛氏を悼む

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  • 更新日:2021/02/21

1970年代にヤクルトの左腕エースとして通算93勝を挙げた安田猛(やすだ・たけし)氏が死去したことが20日、分かった。78年に球団初のリーグ優勝、日本一に貢献した名投手を当時の本紙ヤクルト担当、外城田川忍氏(71)=本名・小林忍=が悼んだ。

「オイッ、女房が怒ってるぞ!」

昭和51(1976)年、ヤクルト担当になったその年の夏、安田投手から怒気をはらんだ声を掛けられた。何と、某女性週刊誌に安田投手と記者のツーショットがデカデカと掲載され、その写真のキャプションに「女房連れでのんきに自軍の試合を観戦するヤクルトの左のエース・安田」とあった。

当時、記者は入社5年目。まだ若く、はやりのロン毛をしていた。上がりの安田投手をスタンドで取材する記者を安田夫人と間違えたのだ。これは、美人で有名だった夫人も怒る。

以来、早大の2年後輩ということもあって、安田家には何かとお世話になった。そもそもの出会いは、室内練習場で右のエース・松岡と並んでピッチングをしているのを見て、「何でスライダーばかり投げる練習をしているんですか?」と聞いたことだった。

「何、スライダー? バカヤロー、あれが俺の真っすぐだ! 失礼な奴だなあ!」と、逃げられた。隣で投げる松岡は150キロ以上の本格派。130キロそこそこしか投げられない安田投手の真っすぐがスライダーにしか見えなかったのは、記者の経験不足とはいえまい。いしいひさいちの漫画でもヤスダくんのタマは、へろへろ、と描写された。

しかし、安田投手はこのスピードであの世界の王さんを幾度となく詰まらせ、「あのスピードで詰まらせられたのは安田以外にいない」と、言わしめた。

球界一の硬骨漢。厳しい管理野球を敷く広岡野球のもと、規則違反を繰り返すナインをかばい続け、自らも右膝半月板を故障しながら決して、「投げられない」と言わず、ヤクルトの悲願のV1につなげた。「ピッチングは配球だろう」という理論派の野村監督にも、「いえ、ピッチングはコントロールです」と、真っ向から立ち向かった。

3年前の夏、三重・伊勢で行った記者の出版パーティーにもつえをついて、足を引きずりながらやってきてくれた。突然、登場した球界のスターに握手を求める伊勢の人々に笑顔で応えていた姿が、かつてのマウンドでの姿とダブり、たくましかった。

真っすぐは遅かったが、“旅立ち”は早過ぎる!(外城田川忍)

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ヤクルトは1978年の日本シリーズ第7戦で阪急に勝ち、初の日本一を達成。安田さん(左)は胴上げ投手となった松岡(右は広岡監督)に抱きついた

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