Netflix『呪詛』から考える“信じる心”の危うさ 安易にお勧めできない呪いの一作

Netflix『呪詛』から考える“信じる心”の危うさ 安易にお勧めできない呪いの一作

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  • 更新日:2022/08/06
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Netflix『呪詛』

「観たら呪われる映画」という触れ込みは、古今東西様々な作品で使われてきた。

参考:台湾映画『呪詛』が生み出した恐怖とは? “ルール違反”といえるホラー映画の“タブー破り”

日本では『リング』の劇中劇として「呪いのビデオ」が登場するし、2018年に公開された『アントラム 史上最も呪われた映画』は、呪われるどころか「観たら死ぬ」という鑑賞者への直球な触れ込みが話題になった。だが、どんな映画を観ても死ぬことはほとんどないし、呪われることもない。

とはいえ、いつまでも頭から離れず、安易に観たことを後悔する映画は存在する。そのひとつがNetflix映画『呪詛』だ。

注意)この記事にはネタバレを含みます。クライマックスにも触れているので、未視聴の方は閉じることをお勧めします。

●呪いの映画

台湾映画『呪詛』は、超常現象調査隊として活動していたYouTuberのルオナンが、ある土着信仰を調査しに行って呪いを受けてしまった話だ。

その呪いは穢れのように観た人や触れた人に伝染するため、ルオナンの娘ドゥオドゥオにも呪いの影響が出る。ルオナンは呪われたドゥオドゥオを助けるために手を尽くす。視聴者は、ルオナンの必死の努力と自分ではどうすることもできない無力さをひたすら追うこととなる。

本作には殺人鬼も悲惨な過去を持つ幽霊も出てこない。ゆいいつ、天井付近に浮かぶ「なにか」がそれらしい描写になるだろう。あとは、ありふれたことの連続でしかない。

見えない何かに怯える幼児、別室から聞こえる物音、昆虫、暗闇、土着信仰、道に落ちた障害物、幼稚園での揉め事、秘密を知る人びとなどは、現実世界にも存在しているし、誰もが経験していてもおかしくない。だが、短期間に連続して経験すると、そこに何かしらの因果関係を作り出してしまう。

本作では、6年前の取材で禁忌を破ったことで呪いを受けた、という前提があるため怪奇現象が呪いに所以しているのは明らかだが、肝心のルオナンは威力を増して襲いかかる呪いを前にどうしたらいいかわからない。

●何も信じていないルオナン

そもそもルオナンは信心深くない。彼女がYouTuberとして、超常現象調査隊の活動をしていた際に、土着信仰をテーマのひとつに選んだことからもそれが窺えるだろう。

信仰とは心の拠り所だ。その重さや信仰の対象は人によりけりだが、茶化したりネタにしたりしていいものではない。異論があるなら理論武装する必要があるだろうし、武力行使したいのであれば3人では少なすぎる。なんにせよ、安易に近寄れば取り込まれる可能性も否定できない、取り扱い注意な領域と言える。その危険性を理解していなかった時点で、ルオナンは宗教や信仰心を軽視していた可能性が高い。

そして、そのスタンスは彼女と娘にかけられた呪いが凶暴さを増しても変わらないのだ。例えば、娘が穢れに触れて体に不調をきたせば医者に駆け込む。現代に生きる人間なら医学に頼るのは当然の行為だが、彼女は原因が呪いにあることをすでに知っているはずだ。当然だが、医療では呪いを解くことができないから、今度は師匠に助けを求める。しかし、お祓いの準備として娘に7日間の断食を厳命され、守れないようであれば師匠の命が危ぶまれると言われても、目の前の娘が空腹を訴えれば食べ物を与えてしまう。つまり、彼女はこの後に及んでも信仰や呪いの力を軽んじているのだ。

結果的にさらなる悲劇が襲う。そして、いよいよどうにもならないことがわかると、最悪な方法で呪いの力を信じることとなる。

●ルオナンの最悪の選択と後味の悪さ

ルオナンの最終選択は、呪いの元凶となった土着信仰を受け入れ、その呪いを広めることだ。

土着信仰の禁忌を破り、目の前のことから逃げてきたルオナン。だが、彼女の軽はずみな行動は愚かさからきているのではなく、好奇心や親切心、そして母性だった。観客は、ルオナンに共感し、応援するだろう。そして、呪いをもたらす神である「大黒仏母」や、自らの富を求めるがゆえに恐ろしい神を信仰する人々を否定したくなるだろう。

だが、観客はずっとルオナンに裏切られていたのだ。これが『呪詛』の恐ろしいところであり、ホラー映画としてずる賢いところでもある。

観客がホラー映画を楽しめるのは、映画と自分が完全に別世界であると頭で理解しているからだ。ありとあらゆる手法で人を殺す『ファイナル・デスティネーション』シリーズを楽しく鑑賞できるのも、逆さ吊りにされた女性を真っ二つに切断する『テリファー』を痛快だと思えるのも、カニバリズムの兄弟の活躍を描く『クライモリ』シリーズを微笑ましく眺められるのも、全てはそこで起こっていることが画面の向こうであり、自分は安全地帯にいるのがわかっているからだ。

ところが『呪詛』は、映画の世界と客席の間に存在する「第四の壁」を、いとも簡単に飛び越えてくる。たとえば、冒頭では「信じる力」の実験をしようと観客に語りかける。また、ルオナンが元YouTuberという設定を生かして、スマホを使って撮影したような、視聴者に向かって語りかける映像を定期的に差し込んでくるため、観客はYouTube動画を観ているかのような、親近感を抱く。

そして迎えるクライマックスでは、観客とルオナンと間に存在するはずの壁が完全に取り払われ、実はこれまでの話はルオナンが視聴者に呪いを広めるために行っていた種明かしがされる。その原動力が娘を救うためだったこととはいえ、見守ってきた観客にとって衝撃だったはずだ。

「観たことを後悔する」といったコメントが出てくるのも納得だ。というのも、『呪詛』は「信じる心」が何を可能にするのかを散々見せてきた。「大黒仏母」に強力な力を与えたのは強い信仰心だったはずだ。その呪いを解こうと尽力した師匠にも信じる力があった。彼は呪いの存在を信じていたからこそ、結果的に命を落としたのだ。

私たちも、偶然の重なりに関連性を見つけて運命を感じたり、恐怖したりする。それだって信じる心があるからだろう。

つまり、『呪詛』がフィクションとはいえ(原作となる事件はあるらしいが)、この作品を観た人が呪われたと信じれば、何かしらの力が及ぶ可能性を孕んでいる。映画は人を呪わないし、殺さない。だが、その作品が人を呪い殺す力を持った映画だと強く信じれば、どうだろう。

ホラー映画を見慣れている筆者は『呪詛』を怖いとは思わなかった。だが、『呪詛』が秘める可能性には恐怖する。そして、その可能性を否定できないからこそ、安易に観ることはお勧めしない。(中川真知子)

中川真知子

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