美川憲一が語った「これからの恋愛」と「宿命の背負い方」

美川憲一が語った「これからの恋愛」と「宿命の背負い方」

  • 週刊女性PRIME
  • 更新日:2022/05/14
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美川憲一さん

相手が妻子ある身とは知らず、実母が身ごもった子だった。「流産させられそうになったのに生まれた“運の強い子”なの」実母のその言葉をエネルギーにして逆境を生き抜いた。子どもがいなかった姉夫婦に2歳で引き取られ、中学1年生になるまで事情を知らずに育った。生みの母と育ての母、2人を生涯不自由させないため、“美川憲一”でいるために、恋人との結婚と父親になる選択肢を捨てた20代。76歳の誕生日を目前に語った、これからの恋愛、そして宿命の背負い方とは―。

【写真】本格復帰のきっかけをくれたコロッケと

YouTubeの体当たりの企画が話題に

黒々とした艶髪にナチュラルメイクをほどこし、カフェの隅に佇む歌手の美川憲一さん(75)。女性でもなく男性でもない、存在感のある大人のオーラがにじみ出る。

グラスに添えられた手の美しさを思わず口にすると「触ってみて」と袖をまくった。触れた腕は、吸いつくようにしっとりしている。

「角質取りのスクラブをして、寝る前にハンドクリームやオイルを塗って寝るの。そうすると朝ツルツルになるのよ。これが美川の手よ(笑)。着物を着て歌っているとき、手を上げるとひじが目立つのよ。だからお手入れしてるの」

そう気さくに話しかけられ、「おだまり!」と言われないかと、ビクついていた取材陣も一気に和む。

美川さんといえば、1966年にリリースした『柳ヶ瀬ブルース』が120万枚の大ヒットを記録し、以後『さそり座の女』など数多くのヒットを飛ばした大物歌手だ。

大麻取締法違反で逮捕され、テレビから姿を消した時期もある。再ブレイクのきっかけは'80年代終わり、ものまねタレント・コロッケによる歌まねがウケたことだった。以来、「おだまり」などの流行語を生み出し、歌手の小林幸子とNHK紅白歌合戦で豪華な衣装対決をしたことでも注目を集めた。

2020年からはInstagramを開始。翌年、にはYouTube『おだまりチャンネル!』も始めた。さそりの唐揚げを食べたり、夜中に心霊スポットを訪れたりと、体当たりの企画が話題だ。

「そこまでやんなくてもいいんじゃないの?って言う人もいるんだけど、結構楽しんでやっているのよ。日々新しいことをやらなきゃいけないから、大変じゃないですか。本当は面倒くさくて、やりたくなかったのよ。でもね、時代に乗り遅れるのだけは、嫌だなって思ったの」

週に何度も食事をするほど親しいタレントのはるな愛(49)は、美川さんの情報収集力には舌を巻くという。

「美川さんは世間の変化をすごく敏感に捉えていて、テレビや雑誌、SNSを見ては、ご自身のファッションや生活に取り入れてるんですよ。若さの秘訣かなって思います。

先日、私がネットで調べた大学生が行くような居酒屋に2人で入ったときは、“あんた、なんなのここ!?若者うるさい!”って言ってたのに、食事が出てきたら、“あら、おいしいわ!これ安いわ!”って(笑)」

店長が挨拶に来ると、店に感心したことを伝え、「あんたこんなに安くて、大丈夫なの?」と心配そうに話していたのだとか。

「美川さんは“あら、知らなかった”とか“すごいわね”ってちゃんと言える大人なんですよ。よく、しぶとくやってれば、誰か見てるのよっておっしゃいます。ブレずにしぶとく自分を貫き通してきた一方で、柔軟に新しいものを吸収してきたから、どの時代も美川さんにしかできない“枠”があるんだと思います」

デビュー以来、公私共に長い関係が続いているという歌手の研ナオコ(68)は、美川さんのSNSを時折チェックするそうだ。

「いろんな引き出しがある方なので、どこかでSNSにも火がつくかも?ただもうちょっと砕けたほうがいいかなと思います。テレビで見てる美川さんとあんまり変わらないっていうのが、私の感想なんで。

本当の美川さんはもっとずっとおもしろいとこ、いっぱいあるんですよ!それを伝えるために、隠しカメラをつけたいくらい。すんごく優しくて、面倒見もいい方ですよ。幼いころから苦労されている分、ファンやスタッフ、共演者にも丁寧に接し、人を大事にされていますよね」

ご意見番として迷いがない発言

ご意見番として、バラエティー番組でも、歯に衣着せぬ発言をしてきた美川さん。

最近の芸能界の騒動について話題を振ると、ぴしゃりと見解を述べ、迷いがない。

タレント・小林麻耶が歌舞伎役者・市川海老蔵や実母を口撃し続けていることについては、こうたしなめる。

「麻耶さんが自分のイメージを大切にするのなら、ああいうことは口にしないと思うの。何でも切り開くのは自分だし、反省するのも自分なのよ。そういうことがわかっていたら、人に牙を向けるようなことはしないんじゃないかしら。

海老蔵さんもね……SNSのメッセージで女性をひっかけるとか、それもどうなの?團十郎になる人なんだから、こういうことで足をすくわれたら、もったいないなって。役者としてはいい顔してて、神々しいのよ。個人的にはファンだから、気をつけてほしいとは言いたいわよね」

10代からの付き合いだというタレントの神田うの(47)は、自身のSNSが炎上するたびに、美川さんから注意の連絡が入るという。

「例えばダイヤを盗られたときとか、旦那さんから誕生日にエルメスのバッグを5個も6個も贈られたみたいに書かれちゃったときとか、すぐ電話がかかってきます。あんた、世間じゃこんなイメージになってるわよ!ちゃんとブログに誤解のないように書きなさいって。結局、自分の判断で、後から説明することはしなかったんですけど。

結婚する前も旦那さんに会ってもらいましたしね。いいんじゃない、あんたらしくいられるだろうからって。憲ちゃんがいつも親身になってアドバイスくれるので、どうにかこうにかやれてます。ありがたいと思っています」

美川さんは自分がご意見番と言われることには、本当は抵抗があるという。「人のこと言える立場じゃないから」と明かし、大麻取締法違反で人生に汚点を残した過去を振り返る。

「あのころ、大麻はファッションみたいなもので、安直な気持ちで手を出したのが、落とし穴だったのね。今も若い人たちがそういう感覚でドラッグをやってしまうことがあるかもしれないけれど、自分で墓穴を掘って、そこから這い上がるのが、どれだけ大変かってことをわかってほしいの。人生台無しにするわよって」

両親を知らずに育った幼少期

1946年、長野県諏訪市で生まれる。実母が妻子ある交際相手との間に産んだ子どもで、実父は神田で会社を経営する実業家の男性だった。

「実母は華やかな人で、当時、新橋の『フロリダ』ってダンスホールで、社交ダンスの相手役をするダンサーとして働いて、結構人気だったらしいの。最初は実父のこと好みじゃなかったようだけど、生活するのに大変な時代だったし、結婚を前提にと言われて、その気になったのね」

実父は実母に住まいを用意し、毎日訪ねてきたが、家に泊まっていくことはなかった。実母は事業が忙しいせいと気にせずにいた。ほどなくして美川さんを身ごもる。

「妊娠したと話したら、父の顔つきが変わったんだって。“そう、ふーんって、こういう顔したのよ!”って母がお芝居してみせるの。あっけらかんとした人だったから」

お腹の膨らみが増してくる中、実父は「元気な赤ちゃんが生まれるから」とピンクの容器の薬を実母に渡した。

「その場で“お飲み”と言われたけど、後で飲むからと飲まなかったのね。お腹に赤ん坊がいる母親の勘みたいなもので、その薬は捨てたの。翌日来た父は母に飲んだと告げられて、“ああ、よかった。いい赤ちゃん生まれるよ”と言ったそうよ。すごいわよね!

流産させる薬があるんですってね。でも、お腹はどんどん大きくなるし、飲んだと聞いたのに全然効かないから、父はびっくりしちゃって!パタリと来なくなっちゃったそうよ。逃げたのね」

心身共に衰弱してしまった実母に、姉は子どもがいない自分たち夫婦が面倒を見るから、信州で安心して子どもを産むようにと諭した。

「養父も私を育てることをすごく喜んでくれたんですって。でも実母は自分がこうと決めたら実行する人だから、生まれて間もない私を抱えて、実父の家に乗り込んでいったらしいの。石畳のある立派なお屋敷だったそうよ」

実父は不在で、夫人が出てきた。実母は「妻子がある方とは知らずに、結婚前提と言われたのでお付き合いを始めて、この子ができちゃったんです、申し訳ありません」と謝った。

すると夫人も「夫がこんな罪作りなことをしてごめんなさい。あなたはまだ若くてこれからの人生があるから、お互いにいがみ合うよりも、夫と別れてほしい」と頭を下げたという。

「もらった慰謝料を半分お姉さんにあげて、お姉さんのもとで私は育ったの。実母はその後、結核を患って、信州で療養した後、また東京に戻ったのよ」

東京新橋に住む姉夫婦に引き取られたのは2歳のときだ。思春期までそんな事情があるとは夢にも思わず育った。

「裕福じゃなかったけど、家にはお手伝いさんがいて、養父は書道の先生をしていたの。ところが知人の借金のせいで差し押さえにあって。赤紙が貼られた家財を触っちゃダメって言われたことを覚えているわ」

養父は美川さんが小学校低学年のときに脳溢血で亡くなる。養母は180度生活を転換。昼は保険の外交をし、夜は料亭の仲居をするなどして、借金を返済しながら、美川さんを必死に育てた。

「中学1年のとき、隣に住むおばさんに、“あんたの本当のお母さんは、叔母ちゃんなのよ”と言われて。この人何言ってんだろう?と思ったけど、ショックじゃなかった。実母も私をかわいがってくれていて、幼稚園の運動会では、おしとやかだった養母の代わりに私をおぶって一生懸命走ったりしてくれたから。そのとき、実の母も苦労してやってきたんだろうなって子ども心に感じたわ」

やがて2人の母から前述の秘密が語られ、すべてを受け止めた。

「実母から、あんたは本当ならこの世に出なかった子なのよってよく言われたのよ。実の子によく言うと思わない?流されていたはずなのに生まれたんだから、運が強い子なのよって。だからね、何か壁にぶち当たるたびに、この言葉を思い出して、私のエネルギーにしてきたの」

2人の母に、お金に不自由のない暮らしをさせてやりたいという思いが、美川さんを芸能界へと突き動かす。

嫌々歌ったら……大絶賛!

役者を目指して高校を中退し、アルバイトをしながら東宝芸能学校に通った。1964年、大映ニューフェイスとして芸能界入りを果たす。

翌年、歌手に転向し、青春路線でデビューしている。

「途中で歌の道に転向したのはお金のためだったの。歌がヒットすれば、歌謡映画にもなるから、一攫千金を狙ったのね。この道をつかんだのがよかったんだと思う。1年足らずでヒットしちゃったから。でも新人時代は挨拶回りをするたびに、“なんか暗いね、売れないよ”って言われてたのよ。線が細すぎる、個性がなさすぎるって」

養母にこぼすと、「個性は自分でつくるもので、自然に出てくるものだから、気にしたってしょうがない」とハッパをかけられたという。

「だから鏡見ちゃ、個性、個性……って唱えて。今じゃ個性の塊みたいなもんだけど(笑)」

大ヒットとなった『柳ヶ瀬ブルース』は、もともと岐阜の繁華街で流しをしていた宇佐英雄さんの曲だった。美川さんは最初、青春路線とはかけ離れたこの曲が嫌でたまらなかったという。

「社長から渡されたソノシートを聴いて練習したんだけど、こぶしが回らなくて、回るのは首だけで。歌詞の意味もわからないもんだから、社長にこれ歌いませんから、断りますと言ったの。そしたら“クビだ!”と怒鳴られて」

帰宅して養母に報告すると、「あんた、学校も大映も途中で辞めて歌手になったのに、冗談じゃないわよ!」と叱りつけられた。養母は美川さんと一緒に社長の家へ行き、土下座。誠意が伝わり、社長から許しを得た。

「でもね、社長にクビだと言われたことが頭に残ってて、あーこの世界って、簡単に人をクビにするんだと思ってね、レコーディングのときに嫌々歌ったんですよ。そしたら、社長や専務らが“この若さでこんなに冷めて歌うのはすごい!”って大絶賛して(笑)」

キャンペーンで各地を回ると、名古屋を皮切りに全国に人気が連鎖。120万枚の大ヒットとなった。『新潟ブルース』『釧路の夜』とヒット曲が続き、'68年にNHK紅白歌合戦にも初出場を果たす。

「当時は美空ひばりさんや三橋美智也さん、ザ・ピーナッツとすごい方ばかりで。新人枠は2、3人分しかなかった中、よく出させてもらえました」

新人のとき、2万5000円 だった月給は、1年後に15万円に。『釧路の夜』が出た年には、300万円になっていた。大手が30万~40万円の時代に、小さな事務所だったため、破格だった。

2人の母には仕事を辞めさせ、生活全般の面倒を見ることにした。

'71年に出された『お金をちょうだい』は作詞・星野哲郎、作曲・中川博之で作られた曲で、歌い手の候補として美空ひばりさんや菅原洋一さんが挙がっていた。美川さんは自分に歌わせてほしいと直談判し、リリースにこぎつけたという。思い入れの強いその曲を、美川さんが口ずさむ。

「別れる前にお金をちょうだい。あなたの生活にひびかない程度のお金でいいわ~!この曲が決まったとき、これでやっと自分の好きな歌が歌える!と思ったの。和風シャンソンみたいだったから」

その後、'72年にリリースされた『さそり座の女』は10万枚を超えるヒットとなった。当初B面だったこの曲を美川さんの提案でA面に変えたことも奏功する。

「いいえ私はさそり座の女って、否定から入る歌で、奇抜な感じが気に入ったの。“地獄のはてまでついて行く”がいちばん好き!」

『さそり座の女』以降は、目立ったヒットがなく、スランプの時期が続く。7年連続で出場していたNHK紅白歌合戦も、'75年に落選した。

「デビューから10年間、すごいヒット曲が続いていたから、だんだんヒットが出なくなってくると、自分が許せなくなってくるのね。

そうすると周りに寄ってくる人がいるのよ。新宿や六本木の遊び人のたまり場に出入りしてたし、危ない出会いもあってね」

美川さんは'77年10月、大麻取締法違反容疑で逮捕された。同年8月に友人が逮捕されたことを受けて、自ら出頭するが、証拠がなく起訴猶予となった。2回目は、'84年のことだ。

「どんなものかしらって興味があって。またそういう人が近寄ってきたから、ちょうだいって。無防備だったのよ」

東京拘置所に収監された。2人の母は連れ立って面会に来たという。

「あら、意外に元気そうじゃないって笑ってるのよ。それで“ねぇ金庫にあるお金使っていい?”って。外に出た途端、2人で抱き合って泣いたとは、後から聞いたわ」

歌手の淡谷のり子さんは東京地裁に美川さんの減刑を求める嘆願書を書いた。

「あなたは歌で希望と勇気を人に与えてきました。そういうお仕事してきたんですよって。これからしっかり立ち直って、歌い続けてくださいねって。淡谷先生の言葉がすごく心に染みて。ああ、なんてことしたんだろうと後悔したわ。でも人間て、きれい事だけじゃ生きていられないじゃない。この失敗を糧にして、前へ進もうと決めたの」

懲役1年6か月、執行猶予3年の判決が下り、70日間の勾留後、釈放される。

それから表舞台に戻るまでは試練の連続だった。小さなスナックの10周年のイベントに呼ばれたときのことが蘇る。

「昔は大きなステージで歌ってたのに、今はカウンターとボックス席が2つしかないようなこんな店で歌うのはつらいなって。これが今の私なんだから、しっかり見とこうって。でもこのままじゃ終わんないわよって。いつもそうやってもう1人の私が私に言い聞かせるのよ、叱咤するようにね。それが心のバネになるの」

営業回りの温泉地では、酔った客から“引っ込めー!”とヤジを飛ばされた。

「浴衣着たお客さんたちでしょ。女の子と一緒に来てお酒飲んでるから、歌なんか全然聴かないのよ。だから“おだまり”って、“静かにおし”って言ったの。そしたら、みんなビックリしちゃって!シーンとなっちゃって。

そこで生まれたのよ、おだまりが(笑)。それでおだまりって言うと、みんな笑うのよ。もう1回言ってとか言われちゃって。あれも自然の流れの中で出てきたのよね」

コロッケの力を借りた復帰秘話

完全復帰はなかなか叶わず、低迷する日々が続いた。そんなとき、自分の誕生日パーティーに呼んだ、ものまねタレントのコロッケ(62)に、自分のまねをするように持ちかける。頼まれたコロッケはその日、美川さんを観察し続けたそうだ。

その後、コロッケが美川さんの特徴を極端に誇張した『さそり座の女』の歌まねが大ウケとなる。

'89年、フジテレビの『新春特番!オールスター爆笑ものまね紅白歌合戦』で、まねされた本人がサプライズで登場するという初めての企画が実現した。

「美川さんが登場することを僕は本当に知らなかったんですよ!1コーラス目を歌い終えたのに、2コーラス目もかかったから、音響さんが間違えたんだと思ったんですね。

2コーラス目の歌詞を知らないからどうしようと思っていたら、お客さんがワッて盛り上がってて、振り向いたらご本人がいて、慌てて逃げたっていう(笑)」

美川さんも当日を振り返る。

「司会者にコロッケさんにものまねされてどう思いますか?と聞かれて、迷惑なのよ、こんなペラペラの安い衣装なんか私着ないわよって言ったら、ばかウケしたの。

私は100万円くらいする衣装を着て出ていたから。審査員に淡谷先生がいらして、大笑いして喜んでくださっていたのが、うれしかった」

それが『タンスにゴン』の CMプロデューサーの目に留まる。美川さんは歌手・ちあきなおみの横を自転車で通り過ぎ、「もっと端っこ歩きなさいよ」と言い放つオネエキャラを演じた。

CMのユニークさと相まって、美川さんの演じた鮮烈なキャラクターが一大ブームを起こす。

「キャラクターがあんなにひとり歩きすると思わなかったわよ。そしたら私もただで起きないタイプだから、商売になるわと思って、コロッケに私と組まない?と誘ったの」

コロッケと訪れる各地で、駅に降り立てば大勢の人に囲まれ、会場はいつも2階席まで満員だった。美川さんは本格復帰のきっかけをくれたことを感謝していると話すが、コロッケもこう語る。

「それまでの芸能界では、歌手の方とお笑いの方が同じステージに立つことはなかったですから!美川さんがいなかったら、あそこまでものまね界は盛り上がってなかったですよ。そこがいちばんの感謝ですね」

2人のジョイントコンサートは、30年以上の時を経ても、絶大な人気を博している。

「オープニングでやるネタなんですけど、美空ひばりさんの『お祭りマンボ』を美川さんと、ひばりさんが憑依した僕で歌うんです。その後、全部アドリブで“ひばりさん、今日は会えてうれしいわ。淡谷先生とはどうなの?” “最近仲いいのよ” “あら、仲悪かったじゃない。仲よくなったの!?”なんて会話するんですけど、みなさん、涙流して笑ってくださるんですよ!」

末期がんの患者が涙した歌

毒舌オネエキャラでブームになる中、最初はとまどいもあった。

「やっぱり女言葉を使うことに抵抗があったんですよ。ちょっとひ弱な男の子っていうんで生きてきたから。どうしたら違和感なくやれるかいろいろ考えて。きれいになりたいけど女にはならないよ、でもこの世のものと思えない雰囲気がいいわって」

そうして自身を演出していった。一方で、ブームは去ると冷静に捉える自分もいた。

「ブームは必ず引くものだけど、私には歌がある。こういうときこそ一生懸命やって、歌い続けられるようにしようと思ったの」

復帰後、美川さんは紅白歌合戦にも16年ぶりに復帰し、通算26回出場を果たす。

演歌歌手でプライベートでも親交のある藤あや子(60)は、20年ほど前に美川さんからかけられた言葉が忘れられないという。

「体調を崩してコンサートツアーをキャンセルしたり、テレビ番組も休みがちだったり、あまり仕事に集中できない時期があったんです。

たまたま歌番組のラインナップでお隣になったら、“あんた、ちゃんとしなきゃダメよ!”と言われたんです。ハッとして、“ちゃんとしてますけど”って言ったら、“ダメよもっと仕事しなきゃ、断らずにちゃんとしないともったいないわよ”って。

今のような関係性じゃないときに、後輩の私なんかにもったいないって言ってくださったことが響いて」

美川さんは新境地としてステージでシャンソンに取り組んできた。定期的に行ってきたシャンソンコンサートも今年で21回目を迎える。

「歌謡曲の歌手がシャンソンを歌うというのも、淡谷先生の教えがあったからなの。20歳のころ、あなたの声はシャンソンに向いているのよと言われて。越路吹雪さんも紹介していただいたの。衣装にお金をかけるのも、おふたりから学びました。豪華なものを身に着けるのは夢を売るプロの務めだと。見栄でなく、ひとつの生き方でもあるのよ」

今、美川さんはフランスの楽曲『生きる』を大事に歌い続けている。死が近づいても怖くはない、最後まで悔いなく生きることだと魂を込める。この曲を持ち歌としていた元宝塚の歌手・深緑夏代にも許しを得て、フランスから著作権も取り、'13年、執念のCD化を果たした。

「この年齢になって歌える歌、長く歌っていける歌にやっと巡り合えたわって」

コンサートの最後にこの曲を歌うと、涙する人も多いという。

「末期のがんの方がどうしても『生きる』を聴きたいと、病院から抜け出して車いすで来てくださったこともあったの。だから負けちゃダメよ、頑張ってねって。会場のみなさんからも大きな拍手でエールが送られて。改めて歌の持つ力を感じた瞬間でした」

一方で、年を重ねて歌うほどに、緊張することも多くなったと隠さず話す。

「ステージに立つことの怖さを感じるの。越路さんのような方でも、幕が下りたときに倒れるくらい、緊張されてたのを見てましたから。毎回ステージは闘いですよ。でもそのお客さまとのやりとりが私の力になっているのね。

罵声を浴びせられたこともあったけど、歌い続けてきてよかったって。きちんと鍛錬して、90歳まで元気で歌えたらなって。それは私のひとつの目標」

実母を説得し、実父の墓参りへ

40代のころ、フジテレビの番組『夜のヒットスタジオ』のご対面コーナーで、実父に会った。後日、実父から申し出があり、赤坂の料亭で2人きりで会ったという。

「対面に座った実父に頭を下げて謝られて。この人が本当の父親なんだ、しっかり目に焼きつけておこうって思いました。それ以来、一切連絡しなかったんですよ。育ててくれた養父母や実母の複雑な思いがあるじゃないですか」

その後、異母兄弟に当たる人から、実父の十三回忌の知らせを受けた。一度参拝してもらえないか、「不憫な思いをさせて申し訳なかった」と言いながら、実父は亡くなっていったと告げられる。

「母に伝えると、今さらなによ!私がどんな苦しい思いして、あんたを産んだと思ってるの?って。だけど、このまま終わっていいの?って聞いたら、そんな簡単に言わないでちょうだい!って」

養母も、同じ思いだった。

「あっそう、じゃあ恨んだまま天国へ行きなさいよ、もう時間だってそんなに残ってないのよって言ったのよ。そしたら、実母も考えたんじゃない。次の日にやっぱり行くわって。もう仏様になってるんだから、恨むことないものねって」

養母は遠慮するというので、実母と2人で行くことにした。

「手を合わせて、ご連絡いただいてたのにすみませんでした、今日は母と参拝させていただきました、ご成仏くださいと祈ったの。母も長いこと手を合わせていたわ」

帰り道、母がありがとうと言った。「こうしてあんたがいるのは、あの人がいたおかげなんだから。お墓参りできて本当によかったわ」と。

「私も、年を重ねるうちにね、変にこだわることなくね、もっと優しく生きようって感じるようになったのよ。人から裏切られたこともあったけど、恨まないのが私の信念なの。本当は悪い人じゃなかったわ、ちゃんと生きててほしいなって」

美川さんは2人の母を自宅で介護し、養母は84歳、実母は86歳のときに看取った。

「一緒に生活すると、姉妹でも性格が違うから、結構大変なこともあったのよ。でも2人の母が、“いろいろ苦労があったけど、あんたのおかげで贅沢させてもらって、人生幸せだったわ、ありがとう”と言ってくれたの。親孝行できたから、悔いはないわ。

生い立ちってね、やっぱりしょうがないのよ。そこに育った宿命ってものがあるから。そっから自分で切り開かないといけないの」

現在、美川さんは都心のマンションでひとり暮らしをしている。2人の母たちのために建てた世田谷の邸宅は、昨年手放した。

はるな愛いわく、料理をはじめ家庭的なことは何でもこなす美川さんだが、人生のパートナーは必要としないのか。

「昔は男にもモテたのよ、それもノーマルな男に。私だったらいいっていう人が結構いたの。男にも女にも口説かれて、一体どうすればいいの?って感じだった。男と女、両方持っているんですよ。でもね、やっぱり精神は男よ」

20代のころ、女性と恋愛し、結婚して子どもを持ちたいと思ったこともある。けれど、父親の役割を求められることは無理だと思ってやめたのだという。

「仕事でオネエ言葉を使うようになってから、楽になっちゃったのね。子どもを育ててたら、美川憲一でいられなくなるなって。結婚しないでよかったのかなと思うわ」

最近見てもらった占いでは、今年、女性との恋愛相があるという。

「結婚してくださいっていう手紙多いもん。大学生2人の子がいるんですけど、美川さんと結婚したいですって。でも急にそう言われてもね。今は意中の人はいないわよ」

ときめくことは必要だが、付き合うことによって束縛されるのは苦手なのだとか。

「今さら、他人と暮らすのは難しいかもね。老人ホームにも入らないと思う。もともと女か男かわからないから、浮いちゃっていじめにあうかもしれないし(笑)。

幼いころからずっと鍵っ子だったから、1人が寂しいと思ったことがないのよ。よく人から、寂しいんです!って相談されるけど、孤独を感じるときのほうが成長できるわよって言うの」

そして、人生の醍醐味は常に自分に挑戦し続けることだと言う。

「もっと楽に生きたら?って、人は簡単に言うけど、子どものころから闘ってきたから、楽になんかなりようがないのよ。のんびりしちゃったら、そこで止まるの。

長い人生だからいろんなことあるわよ!いいことも、つらいことも。失敗もあるけど、それを乗り込えていくのも人生だから、とにかく諦めちゃダメよ!」

素の美川さんは、2人の母から受け継いだユーモアと情に満ちあふれていた。男っぽさとたおやかさを併せ持つその人に、全力で『生きる』ことの貴さを見た。

〈取材・文/森きわこ〉

もり・きわこ ライター。東京都出身。人物取材、ドキュメンタリーを中心に各種メディアで執筆。13年間の専業主婦生活の後、コンサルティング会社などで働く。社会人2人の母。好きな言葉は、「やり直しのきく人生」。

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