【地上波初放送】一見散漫な『竜とそばかすの姫』から感じられる「細田守イズム」の正体

【地上波初放送】一見散漫な『竜とそばかすの姫』から感じられる「細田守イズム」の正体

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2022/09/23
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金曜ロードショーで地上波初放送

細田守監督の『竜とそばかすの姫』が23日、金曜ロードショーで初放映される。2021年に公開された際には、最終的な興行収入は66億円を超える、細田作品ではナンバーワンのヒットとなり、カンヌ国際映画祭でもワールド・プレミアとして上映されるなど、国際的な注目も浴びた。

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『竜とそばかすの姫』公式HPより

インターネット上の仮想世界〈U〉において、歌姫「ベル」として圧倒的な支持を浴びた女子高生・すずは、対照的に〈U〉のなかで忌み嫌われている存在である「竜」に出会い、しだいに心を通わせていく。その過程で、現実世界の中で彼らが抱えているさまざまな問題も浮き彫りになっていく。ざっくり言えば、本作はそのような物語だ。

私は初めて『竜とそばかすの姫』を見たとき、「不器用」という言葉をぼんやりと思い浮かべたが、今回何度か再見し、その印象はより強まった。この言葉は本作の登場人物、および本作の構造そのものに通底するものではないだろうか。とはいえ、それは否定的なニュアンスではない。いわば、作品構造と登場人物がどこかで「不器用」の一点で響き合いを見せ、それが『竜とそばかすの姫』という映画の大きな魅力となっている。

まず、主人公であるすずについて。最初の登場でいきなりベッドから転げ落ち、縁の欠けたマグカップを口にあてる彼女からはあまり、ものごとを要領よくこなしそうな印象は受けない。

やがて幼なじみのヒロちゃんから「月の裏側」「地味」などと形容されるシーンや、同級生からの誘いをうまく断ることのできない彼女の姿も描かれる。集合写真を撮る際にも、すずはうながされてようやく輪に入り、その表情はどこか自信がなさげである。前半のこうしたシーンの積み重ねから、すずの「不器用」という印象は強化されていく。

不器用な登場人物たち

そして、そのような印象は、何もすずだけに留まるものではない。たとえば、すずが通う高校で、カヌー部をひとりで切り盛りする同級生のカミシン。初対面の人でも臆せずに話しかける明るい性格の彼だが、自分を応援してくれる女子をみな「自分に好意を寄せている」と勘違いするように、やや空気の読めないところがある。

また、同じくすずの同級生であり、吹奏楽部に所属するルカちゃん。学校のアイドルのような存在だが、その反面、好意を寄せる相手にはやや挙動不審になる一面が目立つ。毒舌さが目立つヒロちゃんも含め、高校生活を送る彼女たちはどこか、人付き合いにはぎこちない点が目立っている。

彼らは未成年であり、それゆえの未熟さと言うことはできるかもしれない。しかし、本作に登場する大人たちもまた、どこか不器用である。たとえばすずの父親は、妻であるすずの母親が水難事故で亡くなったあと、娘とどう接すべきかがつかめずにおり、親子間での会話もぎこちない。

また、〈U〉のユーザーたちも同様である。たとえばスワン。彼女は理想の主婦としてInstagramでセルフプロデュースを行うが、しかしその一方で脇の甘さが目立つ。実は投稿した写真はすべてストックフォトで購入したもので、それはヒロちゃんの調査で、あっさりと見破られてしまうのだ。

『時かけ』との違い

そして、こうした不器用さは、人物の次元を超えて、本作の構成そのものにも当てはまるものではないだろうか。奥寺佐渡子が脚本を担当した『時をかける少女』と比較すると(『時かけ』の場合、原作が存在することもあるものの)、本作の構成はあまりにも散漫に感じられる。

『時かけ』のストーリーがタイムリープを通した少女の成長に焦点化されていたことに対して、本作は『時かけ』を思わせる同級生との友情に加え、SNSの功罪、『美女と野獣』へのオマージュ、母の死によるトラウマ、父子の愛、仮想空間の広がり、虐待される少年との交流、といささか話を盛り込みすぎている(実際、こうした感想はSNSなどで多くの観客から見受けられた)。

加えて、たとえばすずは母の死と最終的にはどのように向き合ったのか、〈U〉の空間はベルと竜の一件があってからセキュリティ面での変化はあったのか、虐待の問題は結局解決したのか……など、伏線が未回収のままに終わっているようなところも多く指摘できる。

もっとも、細田守作品は、振り返ってみても理路整然とした世界観があるというよりは、多様な要素がまじりあい、どこか違和感がある相貌を提示してきたことも確かである。

細田作品に見る「不器用」の系譜

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細田守監督 photo by gettyimages

それは大きくは、ふたつの世界のあいだでの揺れ動きであろう。人間の手の及ぶ範囲で世界が分けられる場合もあれば、人間界VS異界のようなかたちで分けられることもある。『サマーウォーズ』であれば、仮想世界OZと豊かな自然に生きる大家族、『おおかみこどもの雨と雪』であれば、雨が向かうおおかみの世界と、雪が留まる人間の世界、『バケモノの子』であれば、精緻に再現された渋谷の風景と「バケモノ」たちが暮らす渋天街……。

その世界は描き方もまた異なっており、今回の『竜とそばかすの姫』においては、現実世界は手描きの表現で、〈U〉の世界はキャラクターも含め3DCGで表現されている。そして、その多くの作品で、主人公たちは複数の世界を行き来し、葛藤を深めていく。それぞれの世界がまったく違う相貌で、かつその細部が綿密まで描写されているため(たとえば『バケモノの子』における渋谷の完成度の高さには、この街を多少なりとも知っている人にとっては驚きであろう)観客はその落差にどこか戸惑いを覚えることとなる。

また、価値観のブレについても当てはまるだろう。細田作品はしばしばポリティカル・コレクトネスに関連した議論にさらされてきた。たとえば『未来のミライ』における建築家の父は、かつて育児を含めた家事にあまり参加せず、共働きである妻から責められる存在であったものの、物語の終盤ではより思いやりのある存在へと変わる――すなわち構図的には「リベラル化」が進む。

彼らが住む家もスマートで現代的だが、その一方で、作中で強調されるのは家族の「血」を継承し、次世代につなげていくことのかけがえのない意義であり、それはタイムトラベルによるくんちゃんの、先祖との邂逅によって示される。つまりここにある家族観は紛れもない「保守」のものだ。そうした奇妙な分裂は、たとえば『サマーウォーズ』の先進的なネット空間に参画する意義と、伝統のある大家族の血縁から生まれるパワーが並行して描かれるようなことにも、敷衍させて考えることができるだろう。

細田守の「選択」

批評家の石岡良治は、細田作品の特色を「齟齬する諸要素の並置がもたらす違和感を無理に統合しない」(『ユリイカ』2015年9月臨時増刊号)という言葉で語っているが、そう考えると、『竜とそばかすの姫』の奇妙ないびつさは、むしろ細田イズムの正統な継承と言うことはできないだろうか。

そして、これは細田自身の作家としての好みというより、むしろ世界の多様性を落とし込むうえでの、細田の選択であるようにも思えてくる。たとえばネット空間ひとつをとったとしても、私たちの生きる世界は、もはやSNSを抜きに考えることはできず、そこにバグが生じたとしても、存在そのものを否定するのではなく、その欠点と対峙しながら先に進んでいく必要がある。世界は広く、さまざまな要素が複雑に絡み合っている中で、未熟な若者たちは何かをつかみとっていく。

私見では、『竜とそばかすの姫』は細田作品の中でも特に「まわり道」の要素が多い。もちろん、そこに物語の構成力の弱さを見ることもできるだろうが、そうした要素を逐一確認しながら前に進むことも、意義のある鑑賞と言えるのではないだろうか。

すずが最終的に到達する「結論」は、一般的に見ればそれほどスマートなものではない。彼女は竜の心を解き放つために、自らアンベイル(自らの実像を〈U〉のうえで明らかにすること、本来なら処罰として行われる)される道を選び、すずとしての姿を〈U〉でさらす。

それには幼なじみのしのぶくんからの助言もあったとはいえ、ベルの人気の少ならかぬ部分がその秘匿性=正体がわからないことに支えられていたことを鑑みると、もっといい方法があったのではないか、と思えてしまうし、「竜」の正体である恵の所在地がわかったのちの、彼女の行動もまた然りである。

細田が語る「現代の美女」

すずは虐待から彼らを救うため、高知から東京へ単身バスに乗り込み、恵と弟・知の家へと向かう。結果的にそれは功を奏するものの、本来であれば無謀極まりない行為で、公共機関は頼れないにしても、クラスメートの同行を願うことや、〈U〉のユーザーたちの協力を頼むような手段もあったはずである(すずの母が、川に取り残された子どもを救おうと一人川に飛び込んで命を落としたことを考えると、なおさらだろう)。

だが、この選択は細田作品の過去をふりかえると、むしろ必然的でもあった。主人公たちは傷を負いながら、最終的には自分にとっての解を見つけていく。かつて細田守は『時をかける少女』の真琴を「アホの子」と呼んだが、「アホ」だからこそ、ときには常識を超えた、大胆な行為に出ることができる。『おおかみこども』で花がおおかみおとことのミックスの子どもを、女手ひとつで育てることを選択したように、『バケモノの子』で蓮=九太が強さを求めてバケモノを探し、バケモノの世界で熊徹に師事することを選択したように。

細田は本作のインタビューの中で、『美女と野獣』を参照しながら「雨に打たれて泥だらけになりながら、頬っぺたに傷がついて血を流しているそばかすの子が「現代の美女」なんじゃないか」と語っている(https://www.s-ss-s.com/c/ryu-soba_interview)。実際、終盤で見せるすずの傷つきながらも、守るもののために凛と前を向くその表情は、私たち観客を思わず惹きつける。そして後先を考えないそのまっすぐな強さこそが、細田作品の登場人物たちの強さであり、ひいては人間にとって、一番大切な強さではないだろうか。思わず、そんなことを感じさせられる。

技術が発展しようと、自然の姿が変わろうと、人間は変わらず不器用にもがき、その中で成長する。『竜とそばかすの姫』の楽しみは、一つにはそんなことを実感できることにあるはずだ。

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