夕方から書店はパニック状態となった。三島の本はほとんど売り切れた|昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃

夕方から書店はパニック状態となった。三島の本はほとんど売り切れた|昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃

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  • 更新日:2021/11/25

11月25日が今年も――。
一人の作家がクーデターに失敗し自決した51年前のあの日、何故あれほど日本全体が動揺し、以後、多くの人が事件を饒舌に語り記したか。文壇、演劇・映画界、政界、マスコミの百数十人の事件当日の記録を丹念に追い、時系列で再構築した『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』(中川右介著、幻冬舎新書、2010年刊)から、一部を抜粋しお届けします。

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エピローグ「説明競争」

十一月二十五日の午後から夜まで、各テレビ局は特別番組を編成して、評論家などをスタジオに招いて、この事件は何だったのかを論じた。その公式な発言記録は残っていないので、放送において、誰がどのような説を展開したのかは、はっきりしない。家庭用VTRは発売されていたが、とても高価で一般家庭には普及していない。テレビ局ですら、すべての番組をビデオテープに保存しているわけではなかった。

夕方から、書店はパニック状態となった。勤め帰りに多くの人が三島由紀夫の本を求めたからだ。給料日で懐が暖かったことも影響しているだろう。それまで三島作品を読んだことがない人々までが、彼の小説や評論を買い求めた。ほとんどの書店で三島の本は売り切れた。新潮社をはじめとする出版社は大増刷を決めた。

この日は「日本新聞史上、最も夕刊が売れた日」と言われる。数日後には週刊誌が緊急特集を組み、これも売れに売れた。

人々は自腹を切って、切腹した三島の情報を求めたのである。

人々の興奮がまだ覚めない二十六日の朝刊は、各紙とも前日の夕刊に続いて一面に三島事件の続報が載った。そのなかで毎日新聞は、第一面のほぼ三分の一を占めるスペースに、作家司馬太郎による「異常な三島事件に接して」というエッセイとも評論ともつかぬものを掲載した。この文章は司馬のエッセイ集『歴史の中の日本』に収録され、文庫版では五頁にわたる。

朝日新聞には、作家の武田泰淳、評論家の江藤淳、成蹊大学教授の市井三郎による座談会が掲載され、さらに松本清張による『「檄」と2・26との近似』という短い評論が載る。

この突発的な事件を受けて、作家たちは、マスコミからのコメントや追悼文の依頼が殺到し、突然に忙しくなった。もともと二十五日は十二月に発売される新年号の締め切りもギリギリの時期だったはずだ。実際、三島はその締め切りに合わせて、原稿を渡したのだ。

毎日新聞社は事件勃発後すぐに司馬に事件のことを伝えるとともに、原稿を依頼したのであろう。司馬は元新聞記者なので原稿を書くのは速いのかもしれないが、それにしてもかなりの速さだ。

この時代、原稿は手書きであり、FAXもない。もちろん、電子メールなどない。電話で原稿を依頼し、書き終わる頃には新聞社から使いの者が受け取りに来るシステムだ。それから、新聞社の印刷工が手で活字を組む。

司馬太郎、この年、四十七歳。三島は若くして亡くなり、司馬は若い頃から白髪だったこともあり、二人が同世代とは思えないが、司馬は三島の二歳上でしかない。

司馬はこの時期、朝日新聞に『花神』を、サンケイ新聞に『坂の上の雲』を、「週刊朝日」には『世に棲む日日』を、そして月刊誌「小説新潮」に『覇王の家』を連載中だった。最も脂の乗っていた時期といえる。

連載の仕事の関係からすると、この時期の司馬は朝日新聞社や産経新聞社のほうが関係は深かったはずだ。毎日はこれら二社を出し抜いて司馬の原稿を勝ち取ったことになる。

毎日新聞社に勤めていた徳岡孝夫によると、社内では、司馬の原稿を「取った」記者の功を讃える気分があったという。徳岡自身も「説明競争の先頭を切る形になった」という評価はしている。

とはいえ、もちろん司馬は朝日にも義理は欠かない。二十六日朝刊の社会面に司馬のコメントが載っており、毎日に載るエッセイと根本の部分は同じだ。

先頭争いに意味があるのかどうかはともかくとして、司馬のこのエッセイは、第一面に載ったこともあり、かなり注目された。表題の「異常な三島事件に接して」に加え、見出しには「文学論的なその死」「密室の政治論 大衆には無力だった」とある。

司馬はまず、《思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである》と書く。思想は現実とは何の関わりもないところに栄光があるのだとも書く。ところが、《思想は現実と結合すべきだというふしぎな考え方がつねにあり、とくに政治思想においてそれが濃厚であり》と書いて、その例として吉田松陰を挙げる。

そして、吉田松陰は朱子学・陽明学の「知行一致」という考えを日本風に受け取ったと解説していく。司馬が吉田松陰と高杉晋作を主人公にした『世に棲む日日』を連載していたのが、一九六九年二月から七〇年十二月までだ。したがって、司馬はすぐに吉田松陰を思い浮かべたのであろう。

司馬は続ける。

《虚構を現実化する方法はたったひとつしかない。狂気を発することであり、狂気を触媒とする以外にない。》

そして、《当然、この狂気のあげくのはてには死があり、松陰の場合には刑死があった》とし、その松陰ですら、自殺は考えていなかったと分析する。《かれほど思想家としての結晶度の高い人でさえ、自殺によって自分の思想を完結しようとはおもっていなかった。》

こう書いたうえで、司馬は三島の死をこう解釈する。

《三島氏の死は、氏はおそらく不満かもしれないが、文学論のカテゴリーにのみとどめられるべきもので、その点、有島武郎、芥川竜之介、太宰治とおなじ系列の、本質はおなじながらただ異常性がもっとも高いというだけの、そういう位置に確固として位置づけられるべきもので、松陰の死とは別系列にある。》

さらに、念を押すかのように、

《氏の死は政治論的死ではなく、文学論的死であり、であるから高貴であるとか、であるからどうであるという計量の問題はさておき、それ以外の余念をここで考えるべきではないように思える》とも書く。

そして、自衛隊員が三島の演説にヤジをとばしたことを「健康である」と評価し、三島の《密室の政治論は大衆の政治感覚の前にはみごとに無力であった。このことはさまざまの不満がわれわれにあるとはいえ、日本社会の健康さと堅牢さをみごとにあらわすものであろう》とする。はっきりと書いてはいないが、司馬は、三島の死によって現実世界の現実政治に影響があってはいけないと言いたいのだろう。

これが「良識」というものなのかもしれない。

だが、当然、この司馬の解釈には反論が出た。三島の死には政治的・思想的な要素もあったはずだという説である。

石原慎太郎はこの時期、「週刊現代」に「慎太郎の政治調書」という連載を持っていた。十二月十日号はその第百十八回にあたり、「三島由紀夫への弔辞」と題され、事件直後の石原の心境が綴られている。

《三島事件は、三島氏がその行動の相手に自衛隊を選び、あの檄文を飛ばし、あれらの言動によって訴えようとしたことがらによって、同業の文学者がそれを彼の美学の中の問題だけに閉じこめてしまおうとしても、その政治的社会的意味を拭い去ることは出来まい。》

そして、三島自身が「サンデー毎日」の徳岡孝夫やNHKの伊達宗克に宛てた手紙で、「傍目にはいかに狂気の沙汰に見えようとも」と断っていることを挙げて、

《氏自身が、社会的政治的に見て、あの行動が他から眺めれば、狂気とも愚行ともとれ得ることを承知した上で行なった、他が何といおうと氏にとっては、絶対に社会的政治的な行為であったに違いない。そして、あの行為の中に、三島氏の文学と政治的現実の痛ましい接点、氏の観念と肉体の破滅的な合致があったに違いない。》

したがって、社会的政治的にどんなに低く評価したとしても、あの事件を「文学的な死」に過ぎないと言ってしまうのは三島の意を汲んでいないと、石原は主張する。

「美学」と「政治的社会的」の二つのカテゴリーの接点として捉えることが必要なのだと、石原は書くが、それにしても、《この事件の意味も価値も、理解出来にくいものが多すぎる》というのが、事件直後の石原の思いだ。

毎日新聞社の徳岡孝夫も、自分の勤めている社の新聞に載った司馬のエッセイには違和感を抱いていた。

(中略)

三島由紀夫の死に最も誠実に立ち向かっているのは、大江健三郎だ。彼は、三島の政治思想も政治行動も全面的に否定する。文学、芸術、美学として捉えるのではなく、戦後民主主義への明らかな挑戦であると捉える。それゆえに、自分に対する攻撃と受け止め、機会あるごとに、三島を否定する。

(中略)

まったく別の観点から、事件を解釈する人もいる。

《パブリシティはいかに行われるべきか。……三島さんこそ、まさしく天才的な完璧さで、その答えを示して逝った人だと思います。》

新潮社の幹部で当時の「週刊新潮」編集長である野平健一は、事件から数カ月後に広告会社の主催で行なわれた企業の広報担当者を対象とした講演で、こう語った。

(中略)

野平は、さらにこう語る。

《まず、何よりも、ひとりの人間が、アクシデントその他、偶発的な要素のまじったような他の力をひとつも借りないで、何もかも自分の力だけで、瞬間的に、世界中の人間の注目を一身に集め、その上で、それぞれの人間に、いろんなことを考えさせた人は、これは歴史的にも極めて稀だと思います。そういう意味で、まず天才の名で呼んで少しもおかしいとは思いません。》

しかし、三島の天才性は、それだけでは終わらないと、野平は指摘する。三島は情報時代にあって、どのような情報の提示をすればマスメディアが飛びつくかを、まさに身をもって示したわけだが、それだけではなかった。

《情報化時代なんてものを、これも完膚なきまでに否定して逝ったと思うのです。》

三島ほど、自分を晒した作家はいない。作家というものは作品を通して自分を晒すわけだが、三島はそれ以外に、自分に関する情報を洗いざらいあけっぴろげに公開した。小説を書き、戯曲を書き、演出し、映画に出演し、ヌード写真のモデルとなり、公然とボディビルのトレーニングをし、ボクシングもした。私設軍隊である楯の会も作った。全共闘との討論会もした。佐藤栄作や中曽根康弘などの政治家とも交流があった。ゲイ喫茶やゲイバーに通うことも隠さなかった。好きな女優、好きな映画──世の中には三島に関する情報が満ち溢れていた。

その結果、どうなったか。三島由紀夫がなぜあのような行動に出たのかについて、多くの説が氾濫するようになった。政治的行動だと主張する人、あるいは文学的・美学的な行為だと論じる人、さらには同性愛心中だともっともらしく言う人──多くの人がさまざまな解釈をしている。いくつもの要因が絡み合っての結果ではあろうが、結局、何が真相なのかは分からないままだ。もちろん、それぞれの人にとっては「これこそが真相だ」という説があるのだが、それを認証できる三島由紀夫がこの世にいない以上、永遠の謎となったのだ。

情報が多過ぎて、何が真実なのか分からない。

四十年前に、三島由紀夫は情報化時代を体現していたのである。

手掛かりが多過ぎて、謎が解けない──ミステリであれば、そのような状態に陥っても、名探偵が鮮やかに、たったひとつの真実を宣言するのだが、現実社会には「たったひとつの真実」など、存在しない。

*   *   *

あの日のことを思い出しますと、今でも情けない口惜しい思いに囚われます。歌舞伎にとっても惜しい方で、大変な才能の方でした。三島さんは不世出の名優でした。──中村歌右衛門

※続きは『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介著(幻冬舎新書)でお楽しみください。

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中川右介

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