最速137キロを計測するスーパー中学生だった近田怜王さん(報徳学園出身)の野球人生の始まり vol.1

最速137キロを計測するスーパー中学生だった近田怜王さん(報徳学園出身)の野球人生の始まり vol.1

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  • 更新日:2020/09/15

甲子園のお膝元・兵庫が誇る全国区の超名門校と言えば、報徳学園が思い浮かぶはずだ。逆転の報徳とも呼ばれ、広島の若手注目株・小園 海斗をはじめ、岸田 行倫といった現役選手。引退された選手まで見ていくと、金村義明氏や清水直行氏など多くのスター選手を輩出した。その中の1人が福岡ソフトバンク、JR西日本でプレーをされた近田 怜王さんだ。

高校時代は最速145キロを投げ込む本格派左腕として世代を代表する投手として、2008年の夏の甲子園でベスト8進出に大きく貢献。プロからも高い注目を浴びてきた近田さんはどういった道のりを歩んできたのか。その足跡をたどっていきたい。

兄の影響で野球、そして報徳学園の道へ

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近田怜王さん

近田家の三男として育ち、幼稚園までサッカーをやっていた。だが、4つ上の長男の影響で小学3年生から三田市を活動拠点にしていた藍少年野球クラブへ入団。早くから1つ上の学年のチームに外野手として混ざり、小学4年生からは本格的に投手として活躍し始めた。

「後から親に聞いたのですが、『野球の実力的に上の子たちと一緒にやった方がいい』というチーム方針で同級生の子と僕の2人だけ混ざっていました。周りの大人に見出されていい環境で野球をすることができていたと思います」

早くから指導者に能力の高さを評価されていた近田さん。小学5年生の時には神明あかふじ米兵庫県ジュニア野球選手権大会という大会で優勝を経験するなど、実績を残していく。

そして中学では報徳学園中学へ進学。地元・兵庫の強豪校にして、全国区の名門だが、入学の理由は4つ上の長男の影響が大きかった。
「長男が報徳学園中に進学したことがきっかけで、両親から勧められました。ですので、小学生の時は土日に野球をやって、平日は勉強が嫌いで泣きながら受験勉強をやっていました。よくやっていたと思います」

野球を始めたことも、中学への進学の兄弟の影響が大きかった近田さん。そんな近田さんは中学からは硬式のクラブチームで三田市を活動拠点とした三田シニアへ入団することを決意。この進路は兄弟関係なく、松坂 大輔が関わっていた。

「小学生の時からプロに入ることを考えていましたが、当時は西武で松坂さんが活躍されていましたので僕の中では、『甲子園に出場してプロに行くなら横浜だ』と思ったんです。
それで練習体験に行ってどこなら横浜へ進学できるか探していたところ、『ウチだったら横浜いけるよ』と声をかけてもらって三田シニアに決めました」

軟式から硬式にボールが変わったが、体が大きかった分、肩や肘の故障に悩むことなく、スムーズに環境の変化に順応していった近田さん。ただ、体力が不足していたために走り込みといった基礎練習は苦戦を強いられ、「当時の監督やコーチ、同級生にはいつ聞いても話になりますね」と当時のことを懐かしく思いながら苦笑いを浮かべた。

スーパー中学生・近田怜王は周りに支えられて誕生した

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中学時代の近田怜王 ※写真提供=本人提供

それでも技術に関しては確かなものがあり、三田シニアでも下級生から先輩たちの試合に出場するなど、その実力はさらに磨かれていった。そして中学3年生の時には最速137キロを計測するなど今の時代で言えば、スーパー中学生と騒がれてもおかしくないところまで成長した。

しかし、スーパー中学生とささやかれるような実力を身につけたのは、同級生や指導者などの支えがあって。なかでもお母さんの支えがあったことを近田さんは語る。
「三田シニアは土日だけ練習なので、月曜日を休み。火曜日は病院でメンテナンスをして、水~金は母とグラウンドで一緒に練習をしてくれました。特にピッチングの時は、車の足元に敷くシートをストライクゾーンだけ穴を開けて、僕は四隅を狙って投げました。硬式だったのですぐ破れるので、その度に新しく作ってくれました」

お母さんとの二人三脚で鍛錬を続けて来た近田さんが3年生で迎えた、自身初となる全国の舞台・リトルシニア全国選抜野球大会。この大会で千葉市シニアと対戦するが、結果は0対7のコールド負け。この時、近田さんは全国における自身の立ち位置を初めて知ることとなった。

「関西で良い選手と周りから言われても、関東のチームと初めて対戦して打ち込まれ『全然レベルが違う』と感じました。それと同時に『このままではいけない』と初めて感じさせられた一戦でもありました」

今振り返っても「何か勘違いがあったのかなと思います」と語る近田さん。それまでは真っすぐ主体にとにかく投げることばかりだったが、この敗戦をきっかけに近田さんは練習への考え方が変わった。

投手陣の練習は日ごろから選手主体で任されていた環境を活かし、近田さんは苦手だったランニング系の中でも、以前までであればポール間を中心に取り組んでいた。だが、坂道を使った練習を重点的に取り組むことで体に切れを生み出し、ピッチングに活かそうと考えた。

こうした工夫を経て夏に向かえたリトルシニア日本選手権大会ではベスト4進出。3位まであと一歩届かなかったが、春の苦い経験を活かして集大成の夏に確かな結果を残すことが出来た近田さん。この結果について、「春に『全然レベルが違う』と感じることが出来たからベスト4に行けたんです」と改めて春の経験が大きかったことを語った。

vol.1はここまで!vol.2ではいよいよ報徳学園での野球人生について迫っていきます。次回もお楽しみに!

(取材=田中裕毅)

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