小山田圭吾「いじめ自慢」を生んだ「90年代サブカル“逸脱競争”の空気」

小山田圭吾「いじめ自慢」を生んだ「90年代サブカル“逸脱競争”の空気」

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2021/07/22
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「俺も昔は悪かった」話と小山田圭吾の「事件」

前回までの本シリーズ拙稿(かなり間が空いておりますが……)をお読みいただいたみなさまには、どうもありがとうございます。偶然目にしてしまったみなさま、よろしくおつきあい願います。

さて、第1回目に私は本稿で「男性がしがちな話」で、ものすごく苦手なものが2つあり、その1つが、「俺も昔は悪かった」自慢だと書いた。その背景には男性同士のストレス構造――社会的地位の上下に敏感なあり方から派生――があり、主として社会の主流文化の領域で上位を占めるのが難しい層の男性が「逸脱による自己顕示欲」を満たそうとするとき、その種の話がなされるのではないか、と分析した。

実は、自分が「俺も昔は悪かった自慢」が苦手だなあ……としっかり自覚した事例のひとつが、このところ話題のミュージシャン・小山田圭吾の「過去のいじめ自慢」だったので、責任上(?)この件について書いておきたい。東京オリンピック・パラリンピック開会式の作曲家として発表されたものの、過去に障害のある同級生らに壮絶ないじめを行っていたことが発覚し、「多様性と調和」を掲げる大会理念とはふさわしくないとの批判を浴びて辞職に至った例の事件である。

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小山田圭吾〔PHOTO〕Gettyimages

ちなみに私は小山田とは同世代で、昔はごく普通のフリッパーズ・ギターのファンで、ごく普通に『Olive』に連載されていた小沢健二のエッセイ「DOOWUTCHYALIKE(ドゥワッチャライク)」も楽しく読みつつ件の『ロッキング・オン・ジャパン』も読むという、ごく普通の若干サブカル寄り女子だった。

そして1994年当時、ごく普通に同誌を「あ、小山田圭吾のインタビューがある〜」くらいな感じで読み、そして……尋常ならざる衝撃を受けた。端的に言って、どん引きした。実はこれがトラウマになって、「恐い……。俺も昔は悪かった系話、恐い……」へとつながった側面があるのは否めない。

たしかに本件については、某コメンテーターが述べたように「当時のサブカルにおける露悪的な雰囲気」が関与していた側面はあるかもしれないが、正直露悪的というよりはどっぷり「悪」だという感想しかなかった。

いったいあの誌面は、なぜ生まれてしまったのか。以下に検証してみたいと思う。

90年代、サブカルチャーは反権力から離れていった

そもそもサブカルチャーは、昔から露悪的だったのか?

むろんサブカルチャーは、それと対置される主流文化の欺瞞をさまざまな角度から暴き出したり、意味を脱臼させたりする文脈を内包しているものである。おそらく小山田にとっていじめ自慢は、主流文化と緊密な関係をもつ学校文化の「みんな仲良く」や「いじめは良くない」や、極めつけは「障害者に優しく」といった不文律を「破って見せる自分カッコいい」という自己陶酔感から発せられたものだと推測される。

もっともかつての若者文化は対抗文化としての側面を大いにもち、たとえばフラワーチルドレンやヒッピーはベトナム反戦で銃を手にするよりも花を植えよう、ラブ&ピース!と言ったし、ロンドン・パンクは政府や王室、宗教に警察など権威や権力にまとめて噛みついた。

このようなパンク・シーンだったが、その内実は女性蔑視的要素を孕んだものだとして批判したのがライオットガール・ムーヴメントだったし、日本では夜の校舎窓ガラス叩いて壊して回ったら学校制度への反抗が示されたし、盗んだバイクで走り出せばそれは警察に象徴される法権力への抵抗を意味していた。

ついでに言えば、私が中学生の頃読んでいた70〜80年代サブカルの金字塔『ビックリハウス』誌で1984年にカートゥーン大賞を受賞した鮫肌文殊の投稿漫画は「サベツはいけない」だった。なのでたぶん、だいたいこれくらいまでは、サブカルも差別はいけないと思っていたと判断する。あえて言えば、露悪性は本来サブカルチャーの反権力志向を示す表現技法のひとつであった。そして80年代くらいまでそれは方法論の一環であって、表現の目的ではなかったように思う。

では、90年代が悪かったのか?

たしかにバブルは崩壊したし、その後、日本社会は延々と景気低迷の低空飛行を続けている感が否めないし、阪神淡路大震災は起こったし、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたし、売春がカジュアルにエンコーに言い換えられてブーム(?)になったし、でも1999年にノストラダムスの大予言にあった「恐怖の大王」は降ってこなかったが、代わりに王監督率いる福岡ダイエーホークスは優勝してそれはまあファンには喜ばしいことだったが、池袋通り魔殺人事件や下関通り魔殺人事件などの不条理な凶悪事件が連続して起こった。その後に来る新自由主義的な空気感も、時代に充満していった。

1993年発刊の鶴見済『完全自殺マニュアル』が大ヒットして賛否両論沸き上がったのもこの時代精神の現れであろうか。「いざとなれば自殺してしまってもいい」と考えればこの苦しい現実を生きていけるとあえて語る論調と客観的な死に至る方法についての詳解は、今にして思えば「マニュアル化されたメメント・モリ」であったように思う。「鬼畜」や「露悪」だけでは片づけられない奇書であった。

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それでは、小山田が特異だったのか?

小山田が語ったのは、「知的障害のある児童生徒」に「集団で行った危険度の高い暴行」や、「陰惨な性的虐待」であった。個人的には、今回の事件に関しネットで改めて見た「いじめ被害者が懸命に書いた年賀葉書を雑誌に掲載し、しかもそれを嘲笑っていた談話」に……思わず嗚咽の声が上がった。ダメだよ、小山田……、それだけは人としてダメだ。

いや、具体的な暴力も言語道断にひどいけれど、親御さんがおそらく息子が書きやすいようにと丁寧に線を引いてくれたであろう葉書に、そしてそこに被害者が一生懸命書いたであろう字を嘲笑してはダメだし、第一有名人である彼が一般市民の個人的な手紙を勝手に雑誌に曝すのもダメだ。

個人的なことで誠に恐縮だが、本拙稿で以前書いたように、私の息子は小さい頃から集団生活が苦手で学校の先生に発達障害を疑われ、何度も発達相談に行っては「異常なし・個性の範疇」とされてきた。整理整頓が苦手で、字もとても汚い。小学生のころはあまりの数字の書き方の汚さに、本来100点の算数のテストが全問△となり、50点になって返ってきたこともある。それでも他の子より下手なりに練習をがんばり、中学生になった現在、何とか読める字が書けるようにはなってきた*1。

ああ、このいじめ被害者の親御さん、がんばって字を書く練習につきあって葉書に線を引いてあげたんだな……と、その大変さを思い泣けてきた。育てにくく、学校でトラブルを起こしやすい子どもをケアする大変さは私にも身に覚えがある。そしてこんなにも一生懸命が詰まった葉書を、小山田は当時揶揄する感性しかなかったんだな、とも。

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〔PHOTO〕iStock

もちろん、今回公表された小山田の謝罪文には、掲載記事の誤りや誇張もあったとされていたので、すべてを額面通り受け取るのは酷であるとは思う。ただこれは、判断能力の未成熟な子ども時代のいじめ加害経験を反省したものではなく、26歳の社会人の時点から、当時の蛮行を自慢し面白おかしく語っている点は否めない。

そして、思う。小山田が例のインタビューに答えていたこの時期のサブカルチャーには、もはやかつての対抗文化のような反権力の側面は脱落し、ただ社会の主流文化からの逸脱とそれによる自己顕示志向だけが剥き出しになっていったのではないのか、と。その極点に、小山田圭吾の件のインタビューは位置していた。

もちろん、当時からして小山田の例のインタビューは「異様」であり、批判の声もあった。ただネット社会の到来以前の90年代半ばは、それらは今ほど目に見える形でマスメディアの送り手には届いていなかったように思う。そのような時代の「空気」の中、より逸脱した者・より主流文化の建前をたたき割った者がすごい、偉いとベジットブルー並のパワーインフレを起こしてしまったのが、90年代「サブカル」露悪趣味の行き着く先であったようにも見える。

*1 ちなみに、本コラムも含め息子の話は本人に許可をもらって書いています。現在発達障害は「一大ブーム」のため、少しでも集団生活で支障のある子どもは学校から発達相談を勧められるケースも多く、私の周囲でも珍しくありません。同じような悩みを持つ当事者や親御さんの参考になれば幸いと思っています。

ケアといじめをめぐる善悪の彼岸

善悪の問題というと、わたしは漫画家の故・やなせたかしさんの言葉を思い出す。戦争体験で世界の善悪の概念が混沌とした状況の中「善とは何か」と考え、それは「お腹の空いた子どもに食べ物を配るようなこと」ではないかと思い至ったという有名な逸話だ。

そこから生まれたキャラクター「アンパンマン」は、顔が汚れると力が出ないような弱いヒーローだが、それでも弱い人や困っている人を見つけると助けずにはいられない。悪いヤツをやっつけることよりも、「溺れている子供を見て、思わず川に飛び込んでしまうような行為」こそが正義だというのである。だとすれば、弱い相手を攻撃し嘲笑することは、その正反対、つまり圧倒的な「悪」ではないのか。

小山田の件については、昔のことを蒸し返すのはいかがなものかという擁護の声もある。謝罪文で小山田は反省の弁を述べている以上、いつまでも過去のことを追及し続けるのは行き過ぎだし、誰もが過去を振り返ればすねに傷持つ身ではないのか、というものである。一方で、過去のいじめについて反省に基づいた具体的行動がない点で、「口先だけ」という批判の声もある。

私見では、文面を読む限り小山田はたしかに彼なりの「反省」はしていると思う。ただそれが、彼を批判する人たちの思うような種類の反省であるかといえば、それは検証の余地があるとも思う。

通常人は、暴力を行使しようとしても、弱い相手のかわいそうな姿や表情を見るとブレーキがかかる。それは、社会的動物である人間が他者とともにコミュニティを営むことを可能とする原理でもある。だがまれに、弱い相手のかわいそうな姿を見ると余計に暴力に歯止めがかからなくなり、むしろアクセルを踏む類の者もいる。

私見では、小山田が障害者に対して振るったのはその種の暴力であり、それゆえ多くの人から反感を買ったのだとも思う。なぜなら、彼のような「弱者に対して嗜虐性が煽られる」人間ばかりになったら、人間社会のコミュニティの原理が、根底から崩れてしまうからだ。

人間は、誰もが常に強者でいられる訳ではない。生まれ落ちたときは、無力で他人のケアを受けなければ生命を維持することすら困難な乳児であるし、その後も自立までは長い時間を要する。年老いれば自ずと身体の問題をあちこちに抱えるし、そうでなくても病気や怪我などのリスクはつきまとう。だが野生の動物ならば死んでしまうような状況を、人間はコミュニティを維持することによって生き延びてきた。

そもそも野生動物と異なり、頭の大きな人間は1人で出産もできない。必ず助産の手を必要とするため、そこから言語を駆使してコミュニティを維持する必要が生まれたとも言われる。いや、脳と頭の容量が大きくなるためにコミュニティが必要だったともいえるが、ともあれ、コミュニティ維持の原理の中軸には弱者のケアがある。

だが他方、残念ながら弱者のケアがコミュニティ存続のための阻害要因になることもある。飢饉や災害、戦争状態などの非常事態に陥ったとき、弱者にケア資源を割くことは短期的には集団の生存を脅かすことにつながるからだ。間引き、子捨て、身売り、姥捨て等々、人間社会は余裕が失われたときに、コミュニティの多数派を生かすため、弱者を捨て去る選択も行って来た。

さらに、そのような緊急事態でなくとも、いじめは人間社会で頻繁に起こっている。そもそも、自己と他者を区別し、自己が他者より優れていると確認することで優越感と精神的安定を得るという、人間の悟性と社会性ゆえの闇は深い。いじめはこの他者からの優越志向や、集団の安定を得るためのスケープゴートの必要性から生まれてくる。

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〔PHOTO〕iStock

だいたい、旧約聖書にもアダムとエヴァが知恵の実を食べて、分別知(悟性)を得て、自己と他者の区別が起こってATフィールドを展開してしまったことが原罪であると書いてあるくらいだし、90年代はこのモチーフで庵野秀明監督『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビシリーズが始まったくらい、人間は罪深く90年代の闇は深いのだ。

このように、人間が人間であり悟性と社会性をもつ限りいじめをなくすのはきわめて難しいことだが、他方で暴力性が一定限度を超えてなおブレーキがかからない者は「悪」としてコミュニティからは排除される。弱者へのケアと暴力の間を揺れ動きながら、人間はコミュニティを維持し生き延びてきた。ケアと暴力の問題を考えるとき、一方が真で他方が偽と決めつけることはできない。強いて言えば、この2つの矛盾を生きることそのものが、人間の本性であると考える。

「悪人正機」という人類史レベルのニーズ

現在小山田バッシングが吹き荒れており、「こんなひどいヤツは口先だけで謝罪しても改心は無理」だという意見も多く見られる。もっとも、圧倒的な「悪」に墜ちた者は二度と改心の機会は与えられないのかといえば、そんなことはないと思う。

それどころかイエス・キリストは、「昔は悪かった」放蕩者も父なる神は慈愛を持って迎えると説いたし、浄土真宗なら「善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」と悪人正機で救われるという*2。こんなに「昔は悪かった」人を救済する宗教的叡智が多々あるところを見ると、悪人を救うことは古来より人類史を貫くレベルでニーズが大きいテーマだったのだとも思う。

そしてあえて言えば、私は件の大悪人として君臨した小山田圭吾にこそ誠心誠意謝罪してもらい、障害者をはじめとする多様性に目を開き、改心した「ホワイト小山田」になってもらいたかった。これほどまでに非道なことを行い人権意識に乏しかった人物ですらも、心から改心し得るということを表明できれば、それはまさにオリンピック・パラリンピック大会理念「多様性と調和」を具現化するものではないのか。

それゆえ、オリンピック・パラリンピック組織委員会会長らもともに謝罪会見を開き、何が間違っていたのか、今後どうすべきかも含めきちんと釈明することは、大会理念の「未来への継承」にもつながるのではないか……?

*2 解釈により違いはありますが、概ね仏視点に立てば人間基準の善悪など大した差はないので、みんな悪人でだからこそみんな救われるべしとなるようです。なのでこういう引用は正確ではないのだと思いますが、宗教の「救済の知」を俯瞰すると「人間は罪を犯すのがむしろデフォだから、どうやったら罪人が救われるべきか」というのは巨大なテーマだと思います。

と思ったのだが、実はちょうどこの文章を書いているときに、小山田圭吾の五輪開会式作曲辞退のニュース速報が入ってきた。ここ数日で、次々と海外のメディアでも彼のいじめの内容までが具体的に報じられてはさすがに無理……となったということか。とどのつまり、国際的な悪人正機の大きな機会は失われてしまったということでもあり、残念でならない。

さらに、もう一点懸念がある。小山田圭吾の今回の顛末は、本稿第1回で書いた私が苦手な話題その2「ヤツはもうおしまいだな」的な話題のネタにされないかという点である。これはこれで、聞きたくない……。

今回は、サブカル業界では(これまでの経緯に鑑みると)それほど問題視されなかった過去の「障害者いじめ」が、オリンピック・パラリンピックという国際的な主流文化の舞台に乗るには、あまりにも瑕疵が大きかったがゆえの騒動だが、私見ではそれにより彼のこれまでの楽曲が否定されるものではないと思うし、音楽の才能とは別問題と考える。

ただ、本件で彼の楽曲はもはや聴きたくないという意見も多々見られるようになった。音楽とは感覚に直接的に訴えてくるものである以上、彼の名前が不快な印象を帯びるようになってしまったことは、楽曲にとって極めて不幸なことと言わざるを得ない。だからこそ、再び表舞台に立つためには、小山田自身が壮大な改心と悪人正機のお手本を見せてくれることが大前提にとなると思うのだが。

〈続く〉

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