令嬢、女優、伯爵夫人...有閑階級がダンスホールで入り乱れた「乱倫」事件とは?

令嬢、女優、伯爵夫人...有閑階級がダンスホールで入り乱れた「乱倫」事件とは?

  • 文春オンライン
  • 更新日:2020/11/23

いまの時代、「ダンスホール」とはどんなイメージで捉えられるのだろうか。「新明解国語辞典」には「社交ダンス用の(有料の)ダンス場」とある。

【画像】むき出しの脚もなまめかしいダンスホールのダンサーたち

しかし、昭和の初め、その言葉は華麗に花開いた都市文化のイメージの上に、さまざまな用語と関連づけて語られた。「モボ・モガ」「有閑マダム」「ジゴロ」「乱倫」……。そのことを強烈に印象づけたのが1933年のこの事件だった。

男性客と女性ダンサーの恋愛沙汰やトラブルはそれまでもあったが、今回は「ダンス教師」を名乗るいかがわしい男たちと、伯爵夫人、日本を代表する歌人の妻らが検挙され、そこから作家ら文化人の違法賭博にまで警察の手が回った。

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東京のダンスホールのチケット(「考現学採集」より)

事件当時は既に日中の戦争が始まっており、戦争の影が市民生活を圧迫。国民の娯楽に取り締まりの手が延びていた。やがて盧溝橋事件に端を発した日中全面戦争に突入。ダンスホールは徐々に息の根を止められる。事件は「享楽の時代」の最後のあだ花だったようにも思える(今回もさまざまな差別語が登場する)。

ダンスホールは「華やかな人生の縮図」

かつてのダンスホールはどんな所だったのか。事件の年に出版された高橋桂一「新社交ダンスと全国舞踏場教授所ダンサー案内」の記述から雰囲気を想像してみよう。

〈 ジャズが鳴る。ざ、ざあと靴音が響く。まるでうららかな春日を浴びた北海の磯打つ波がざあーと押し寄せては返す波の音に髣髴(ほうふつ)としている。むせるような人のいきれ、ふうわりと鼻にまつわる脂粉の香り。七色の光線に躍る白い顔、細い眉、くまどった紅いまぶた――。ダンス場の光景はまさに生きた絵であり、華やかな人生の縮図である。ダンス場になじまない人々は、ダンス場に燃え立つ熾烈(しれつ)な刺激と甘い蜜のような感触に、誰しもはじめは軽いめまいをすら感じるであろう。抑えきれない動悸(どうき)の高鳴りに胸ぬち(のうち)がほてるのを覚えるだろう。事実、いまのダンス場の雰囲気は、現実とはあまりに懸け離れたなごやかな美しさで彩られているのである。〉

日本のダンスホールのルーツは明治の文明開化時代の鹿鳴館にさかのぼるといわれる。当時は一部の上流階級で行われていただけで、一般社会で流行するようになったのは第一次世界大戦終結後だとされる。

当初は大阪の方が盛んだったが、1927年に風紀上の理由から府当局が厳しい制限を加えたうえ、最終的に営業を禁止。隆盛は東京に移った。永井良和「社交ダンスと日本人」は「1927年はわが国ダンス界の『黄金時代』の幕開けとなった。翌1928年もこの勢いは止まらず、ダンスホールの開設ラッシュが起こる」と書く。京橋、渋谷、青山、溜池……。

罰則、許可取り消し…それでも生き残った「八大ホール」

ところが「ホールの増加を警視庁は放置しなかった」(同書)。早くも1928年11月には「舞踏場取締規則」を制定。ダンスホールを許可営業とし、特定の条件を満たさなければ、罰則や許可取り消しを下すとされた。その結果、「八大ホール」と呼ばれる大型のホールだけが生き残ることに。それでも、ダンスブームは根強く続いた。

1929年、当時150万部超の驚異的発行部数を誇った雑誌「キング」に連載された菊池寛の小説「東京行進曲」が話題となり、日活が映画化。同名主題歌が西条八十作詞、中山晋平作曲で発売され大ヒットした。その中で「ジャズでをどつて(踊って) リキュルで更(ふ)けて あけれや(明けりゃ) ダンサァの なみだあめ(涙雨)」とうたわれた。

当時のダンスホールはチケットシステムが基本だった。

客は入り口で10枚つづりのチケットを買い、クロークに荷物を預ける。ミラーボールがきらめくホールでは、バンドが最新流行のジャズを演奏している。客席とダンサー席はフロアを挟んで向き合っている。ダンサー席は中央から左右に席次が決められている。前の月にチケットを最も多く回収したダンサーがいわゆる「ナンバーワン」で、正面の中央に座る。この席に着くことは誇り高い職業意識を持つダンサーの中でも最高の栄誉とされた。客はダンサーと踊るごとに1枚のチケットをダンサーに渡した。

客は次の曲の前奏が鳴り出すと同時に、お目当てのダンサーの席に向かって行き、踊りを申し込む。複数の客から申し込みがあった場合は、ダンサーが客を選んだ。回収されたチケットは月に1度の締め切り日に集計され、所定の比率で経営者と分けられた(一般的にはダンサー4に対し経営者6)。これがダンサー、経営者の主な収入源である(「社交ダンスと日本人」)。

そのうち、「有閑マダム」や令嬢らの姿がダンスホールに見られるようになった。彼女たちが踊る相手は男性ダンス教師らだったが、それも同様にチケットシステムだった。

「不倫と恋のステップ」

そんなダンスホールをめぐるスキャンダルが紙面を騒がせたのは1933年11月。初報は8日付各紙朝刊に一斉に載った。東京朝日(東朝)社会面4段の記事の見出しは「醫(医)博、課長夫人等々 不倫・戀(恋)のステップ 銀座ホールの不良教師檢擧(検挙)で 有閑女群の醜行暴露」。

〈 京橋区(現中央区)京橋2ノ8、銀座ダンスホールの教師エデー・カンターこと田村一男(24)は同ホール常連の有閑マダム、令嬢、女給、清元師匠、芸者らを顧客に情痴の限りを尽くし、目に余るその不行跡に警視庁不良少年係も捨て置けず7日、ついに同人を検挙。取り調べると、この不良ダンス教師をめぐる有閑女群の中には青山某病院長医学博士夫人などの名も挙げられ、醜い数々の場面を係官の前にぶちまけている。

田村検挙の端緒は去月(10月)7日、警視庁が与太モン一斉狩りを行った時、同ホールの不良ダンス教師、朝鮮生まれ木村政雄こと車均敞(36)がパリ大学文科出身と称して、虚栄に走る有閑女群をもてあそんでいたのを突き止めて検挙し、調べているうち、その後だんだん、彼と同僚の田村一男の不良ぶりが分かってきた。〉

美貌、ウインク、巧みなダンス…美女たちを次々魅了したダンス教師

記事は田村の「手口」に及ぶ。

〈 田村もニューヨークレビュー界の人気者エデー・カンターの名をもじり、その美貌と女性を魅するウインク、それに際立って巧みなダンスの相手ぶりに女を惑溺さしていたもので、警視庁当局の言うところでは、同人は元カフエー・クロネコの女給某(25)と同棲しているうちに銀座裏のカフエー・ベルスの女給某(21)、新橋の芸者某(23)、赤坂溜池の清元師匠某(28)、大阪・阪神電鉄会社の某課長夫人、千葉県八日市場の資産家某の令嬢、某会社専務夫人、青山某病院医学博士夫人らの名前が彼の取り巻き常連として並べられ、阪神電鉄某課長夫人は彼と1回踊ってチケット50枚、某令嬢は100枚、某会社専務夫人は50枚を惜しげもなく彼の手に握らせて歓心を買い、その中でも某病院長夫人のごときは、あまりに頻繁なホール通いに、お抱え運転手にも遠慮して、円タクまたは三越からわざわざ地下鉄で通い、甚だしい時は午前10時前に来て田村の出勤を待ち正午まで、さらに共に昼食後3時まで踊り抜いても飽き足らず、夜も現れて派手な好みの洋装で全ホールの人目を引きつつ踊り続けるという有閑マダムぶりを発揮。田村らと食事を共にするほかに昨年来、横浜市磯子の待合、田端の料理屋、多摩川の待合などを遊び回り、ダンスホールでも相当評判を高めていたといわれ、博士夫人も7日午後、警視庁に呼び出され、その行状を聴取された。田村は右のようなやり方で月収300円(2017年換算約62万7000円)を下らず、豪勢な生活をしていたものである。〉

エディ・カンターはアメリカ・ハリウッドのコメディアンでミュージカルスター。当時全盛期で彼の名前を冠した映画が日本でも公開されていた。各紙とも記事の記述は微に入り細をうがっているが、それによれば、田村は福島県の旧制中学を中退後、上京。深川の材木屋で働いていたが、店がつぶれてしまったので、あちこちのダンスホールに出入りしてダンスを覚え、1931年6月、銀座ホールの前身シプレーダンスホールに勤務し、引き続いて銀座ホールの教師になったという。ちなみに、作家石川達三は雑誌の取材で行ったブラジルから帰国後、ブラジル移民を描いて第1回芥川賞を受賞する「蒼氓」を書き上げるまで、シプレーダンスホールで教師をしていた。

「ただれた恋愛」「群がる有閑夫人」

東京日日(東日=現毎日新聞)は「博士夫人や女師匠 不倫のステップ」、読売は「不良ダンス教師に 群がる有閑夫人」、都(現東京新聞)は「爛(ただ)れた戀(恋)愛遊戯 白日下に暴露された 有閑夫人の醜状」が見出し。

田村の客だった女性たちについて、読売だけが全員実名で報じている。その中の「病院長・医学博士夫人」は、当時、歌集「赤光」などで日本を代表する歌人として知られる一方、精神科医で青山脳病院長だった斎藤茂吉の妻輝子だった。他紙にも談話が載っていて微妙にニュアンスが異なるが、「迷惑なデマ……」が見出しの読売の談話を見よう。

「ダンスは不眠症直すため」

〈 そんなうわさを立てられて本当に困っています。いま警視庁で主任の方によく真相を説明してきたところですけれど、そんな嫌な関係なんか絶対にありません。ダンスは、不眠症を直すためダンスでもしたらというので、主人の許しを得て始めたのです。田村先生はほかの先生と違って非常に熱心で、時間もきちんきちんとよく教えてくれるので、ずっと先生に教わっていましたが、そのうちに田村さんは金のことをちょいちょい暗示するようなことを言うので嫌気がさしていたところへ、ホールなどで変なうわさをしている者があると忠告してくれる方があったので、今年の春以来はふっつりと行くのをやめています。きっと誰か私に反感を持つ方がデマを飛ばしたのでしょう。田村さんなんて、田舎のモダンボーイみたいな、顔といえば猫の子かお猿みたいな。本当に嫌なことです。ただ誘われるままに4、5度、横浜や多摩川辺へご飯を食べに行ったことが誤解を招く原因だったかもしれないと思って、いまさら軽はずみな行いを後悔しています。〉

記事には「無造作な態度で気軽に語った」という前置きが付いている。斎藤輝子は青山脳病院の先代院長だった斎藤紀一の次女。紀一が後継者と見込んで養子にした山形県出身の茂吉と18歳で結婚。夫は31歳。家のため、父の命令による否応のない結婚だった。2人の長男で精神科医・エッセイストの斎藤茂太「回想の父茂吉 母輝子」には「茂吉と輝子は『油と水』の関係である」とある。孫の斎藤由香「猛女とよばれた淑女」はさらに詳しく書いている。

〈 茂吉と輝子は4人の子どもに恵まれたが、夫婦仲は最悪だった。輝子は紀一の長女いく子が3歳で亡くなったために跡取りとして育てられた。乳母や女中、下働きの書生らにかしずかれ、何不自由なくワガママいっぱいの生活を送った。モダンでおしゃれな紀一のもとで育った輝子は、ふんどし姿でいるような茂吉を理解できない。いわば典型的なファザコンで、夫としても男性としても茂吉では満足できなかった。一方の茂吉は病院の院長としての重責の中、歌人としても苦渋の日々で、歌人たちと猛烈な論争を展開することもある。家では穏やかな時間を望んでいた茂吉は、郷里山形にいるような素朴で心優しい女性を望んでいたと思う。

しかし、輝子は多くの明治の女性のように従順ではないし、しとやかでもない。好き勝手に外出し、夫を立てようとする心も皆無である。居丈高な輝子の態度の一つ一つが茂吉の神経を逆なでする。外交的な輝子に比べ、茂吉は感情を内面に沈殿させる。養子の身であるから最大限の抑制をするが、あるレベルに達すると猛然と爆発する。子育てをしない輝子をなじり、イライラし、殴打する。輝子にとって、茂吉の家庭内暴力は耐え難いものだった。まさに今でいうドメスティック・バイオレンスだろう。〉

「今後は一切の社交界やハイカラを断ちて…」

夫の茂吉にとって、事件は大きなショックだった。藤岡武雄「斎藤茂吉探検あれこれ41」(「歌壇」2016年11月号所収)は「早速、青山脳病院をやめ、斎藤家を出て行く意思を表明したが、周囲の人々に説得され、思いとどまった」と書いている。

弟子の柴生田稔「続斎藤茂吉伝」には、事件のあった年、茂吉が日記に輝子と度々けんかしたことを書いていると記述。事件直後、歌誌「アララギ」の同人で親友だった中村憲吉が茂吉に送った手紙の内容を紹介している。「ご令閨(妻の敬称)のご性格が人の誤解を受けやすき損な立場に候ゆえ、今後は一切の社交界やハイカラを断ちて専心ご家庭にお立てこもりのよう切望候」。これに対し茂吉は「小生も不運中の不運男なれど、いまさらいかんともなしがたし」などと返信している。

「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」には「夫人の言動が新聞沙汰になって精神的痛手を負い、そこから立ち直ろうとして大著『柿本人麿』を完成させた」と書く。輝子の醜聞は茂吉の文学的転機にもなったことになる。「二十年つれそひ(い)たりしわが妻を忘れむ(ん)として衢(ちまた)を行くも」という歌はこのころ詠んだとされる。

「乱倫」をめぐる真偽の行方

川西政明「新・日本文壇史第二巻」は踏み込んで事件と茂吉・輝子のことを書いている。「妻の事件を知った茂吉は激怒した」「彼は反乱する妻に徹底的な拒絶の態度に出た」。

同書によれば、世田谷区の青山脳病院本院敷地内にある輝子の弟の家に同居させたうえ、謹慎させて事実上軟禁状態に置かせた。その後も居住地を動かしたが、結局、太平洋戦争末期の空襲が激しくなった1945年3月まで約12年間、別居生活を続けた。

ただ、「猛女とよばれた淑女」は「父によると、『ダンスホール事件』の前にも、輝子は二度ほど情事を行っていたそうで、青山脳病院の一部の間では公然の秘密だったという」と書きながら、著者が「パパは輝子おばあちゃまが病院の医師と不倫したり、ダンスホールの教師と肉体関係があったと思う?」と聞き、「父は小さな声できっぱり言った。『……ないと思うね』。『なぜそう思うの?』『輝子はそういう女性だから』」という会話を記している。

父とは斎藤家をモデルに「楡家の人びと」を書いた作家・北杜夫だ。「決して自分の過ちを認めず、『ごめんなさい』も一言も言わない輝子」という孫の記述は、70歳を過ぎて南極をはじめ、世界中を飛び回り、テレビにも登場。「猛女」と呼ばれた女性にふさわしいように思える。「乱倫」の真偽は不明だ。

「大部分ジゴロと言われても文句のない存在なのです」

関連の記事の中で注目すべきは東朝の「教師が悪いか―マダムが悪いか」という見出しの記事だろう。「東京社交舞踏教師会の有力なメムバーであるNホール教師Aの語った話」だ。

〈 私どもの商売はダンス教師と呼ばれていますが、事実は大部分ジゴロと言われても文句のない存在なのです。私どもは所属するホールから一文の定給ももらっておりません。ダンサーが男の客を大切にするように、私たちも……。でなければ生活が成り立ちません。

世間からダンサーの収入を尋ねられる時ほど嫌なことはない。半月も教えてやった娘がつっかけ70円、80円になるのです。それに反して、先生と呼ばれるわれわれの収入のみじめさ。

教師が悪いか、有閑マダム、令嬢に罪があるか。ご婦人方も男の客と同じく種々雑多です。真にダンスの好きな方、映画を見るような軽い気持ちで来る人、そしてまた、歌舞伎の役者に近づきになりたい欲望を、ダンスという近代様式に求めようとする人などなど。お茶に招かれて断れば、その時からサヨナラであることは言うまでもないことです。一度に30枚、50枚とチケットをくれるご婦人のあることは事実です。

教師界の発達、警視庁の監督も必要ですが、最も緊要な対策は、純然たるダンスホールでもなければキャバレーともつかない、現在の中間状態をやめてしまうことではないでしょうか。〉

「不良教師と不良マダムのエロ行状記」ダンス教師と美女たちの「愛欲」の先には何が待っていたのかへ続く

(小池 新)

小池 新

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