「親ガチャ」依存が示す1億総中二病時代。人生は抽選ではなく先着順、いつ自分のダメさに気づくかの勝負=午堂登紀雄

「親ガチャ」依存が示す1億総中二病時代。人生は抽選ではなく先着順、いつ自分のダメさに気づくかの勝負=午堂登紀雄

  • マネーボイス
  • 更新日:2021/10/14
No image

近頃「親ガチャ」という言葉が飛び交っています。これは以前に書いた「反出生主義」と同じく、中二病のひとつだと私は考えています。人生経験が少なく、自分の力で自分の環境を変えられない(変えた経験がない)のでしょう。(『午堂登紀雄のフリー・キャピタリスト入門』午堂登紀雄)

ぜんぶ「親ガチャのせい」は中二病

最近ネット上で「親ガチャ」というワードがよく飛び交っています。

これは「子は親を選べない博打であり、ポンコツ親のもとに産まれてきたら人生終わり」という意味を指すようです。

これも、以前紹介した「反出生主義」と同じく中二病のひとつだと私は考えていて、人生経験が少なく、自分の力で自分の環境を変えられない(変えた経験がない)10代に多い印象です。

自分で決断・選択できない無力な若者は、自分以外の誰かのせいにしなければやりきれないからです。

また、彼らは、本人の生きづらさの原因を特定できておらず、だから解決策も見つからない、だから親のせいだ、だからどうしようもないんだ、というネガティブなループに陥っているのではないかと推測します。

つまり「親ガチャ」という人は、「自分は能無しではないのに、たまたま親がハズレだったせいで自分が不遇なだけ。親に恵まれていれば、自分はもっと活躍でき、幸せな人生だったはず」という、自分を守ろうという保身願望が強いのでしょう。

たしかに「ハズレの親」も存在する

ただし、「親ガチャ」を否定できない場面はあります。それは「虐待親」「毒親」です。

「三つ子の魂百まで」ではありませんが、幼少期に養育者から適切な愛情を注がれず、適切な関係を築けなかった(築いてもらえなかった)子は、生涯その呪縛に囚われやすいことがわかっています。

この呪縛は強固で、虐待されて育った子が再び自分の子に虐待をするように、負の連鎖がもたらされるというのはよく知られています。

虐待やネグレクトはもとより、高圧的な親・過保護な親のもとで自分の意志が抑圧される、自分の考えが尊重されないとかで、思考力を奪われて育った子、親の顔色を伺って自分を押し殺して育った子も、やはり自己肯定感が低くなり、適切な自尊感情を持つことができません。

それで人との距離感が掴めず人間関係がうまくいかないとか、他人と比較しては劣等感を抱いたりマウントしたりするようになります。

むろん虐待親も毒親も、グラデーションのように程度が違いますから、どこかで線引きするのは難しい。

だから一律に論じることはできないのですが、そうした生育歴の問題から起こる生きづらさやあきらめの感情から抜け出すには、本人の自覚と意志が必要です。

「見た目は大人、頭脳は子ども」が増えている

ものの考え方も性格も、成長過程で身に付けた習慣に過ぎませんから、「生きづらい」「不遇だ」と受け止める自分の思考のクセを捨て、より希望が持て人生の発展につながる思考のクセへと修正する必要があります。

確かにこれまでの考え方は親の影響を受けており、親に責任の一端はあるでしょう。しかし、いまからは自分で新しい認知の仕方(思考パターン)を獲得することはできます。本人に自覚と意志さえあれば。

むろんこれは簡単なことではありませんが、それが「成熟した大人の知性」です。

そして「成長」とは、そうした親の価値観から脱却し、自分自身の新たな価値観で自分のネガティブな思考のクセを上書きしていくことです。

そのひとつが思春期にやってくる「反抗期」です。これも、親の価値観ではなく自分の価値観で生きようとする内面の変化の発露なのです。

なので十代半ばぐらいまでは「親ガチャ」などと、自分の努力不足を棚に上げ、親のせいにして自分の不遇を呪うという幼稚な発想はやむを得ないかもしれません。

しかし高校を卒業したら、生き方は自分で選べます。進学にしろ就職にしろ、家を出て親から離れ、自由に自分の人生を追求することができるのです。

「そんなの無理」「学費がないから無理」「高卒で就職なんて人生詰む」などという人は思考停止しているだけです。

調べて考えればいろんな方法が見つかります。奨学金もある、通信制大学という方法もある。海外留学なら返済不要の給付型奨学金も多い。公務員という道もあるし、起業という道もある。

私は新聞奨学生として働きながら(新聞配達をしながら)進学しましたが、入学金と学費を肩代わりしてくれて、格安の寮も用意してくれました。

先ほど「思考のクセを自力で修正できるのが成熟した大人の知性」と述べましたが、「お金がないから何もできない」という人は、お金があっても何もできません。

「時間がないからできない」という人は、時間があってもできない。同様に、「親のせいで何もできない」という人は、親が神であっても何もできない。

結局、親のせいにして「自分には無理」と思考を放棄する人は、「見た目は大人、頭脳は子ども、迷探偵、逆コナン!」なのでしょう。

自分がポンコツな「子ガチャ」の可能性を疑ってみる

もうひとつ、親ガチャなどと自分の不遇を親のせいにする人は、視野が狭く自分のことしか見えてないという狭量な人間ゆえに、人生が好転しないということに気が付いていません。

というのは、確かに親は選べないのですが、親も子を選べません。つまり実は本人自身が「子ガチャ」かもしれないということに想像が及んでいない。

私自身、反抗期で中学から高校までの6年間、父親とはほとんど口を聞くことなく高校卒業と同時に実家を飛び出しましたが、当時の父親目線から見れば、「息子にはがっかりした」「とんだ愚息が生まれてきたものだ」と感じていただろうと思うこともあります。

ただそう思えるようになったのは、わだかまりが薄まり父親との関係が温和になってきた20代半ば以降からのことで、10代の頃は「父ちゃんはなんであんなわからずやなんだ」と、自分にも問題があったかもしれないということにはまったく無頓着でした。

いや、幼いがゆえに世界は自分中心で、そういう感受性もなかったのだと思います。

子どもというのは本当に視野が狭い。逆に言うと、視野が狭いからこそリスクを気にせず、無謀とも思える挑戦ができるのかもしれませんが。

しかし納得できる生き方をするには、やはり「他人のせいにしない」という姿勢が必要です。

親がハズレだから自分の人生もハズレというのは、他人に依存するしかない脆弱な生き方を認めることになります。

それでもいいというなら、自分のポンコツさを自覚し、ポンコツ改善には何をすべきか考えるしかない。

また、自分で選べない博打的条件で言えば、さらに国ガチャ、時代ガチャ、環境ガチャというのもあるでしょう。

生まれる国もガチャである

たとえばシリアやアフガニスタンなどで生まれていれば、生きるか死ぬかという状況に直面します。内戦や人権弾圧から逃れるために難民にならざるを得ないかもしれません。

私もかつてカンボジアのゴミ集積場で働く孤児や(貧困で育児放棄する親が少なくないらしい)、フィリピンの路上で生活するストリートチルドレンなどを見てきましたが(フィリピンはクリスチャン国家で中絶が法律で禁止されている一方、性教育も行き届いていないため、シングルマザーや孤児が多い)、壮絶な貧困、未来も希望も見えない絶望がどのようなものかも肌で感じました。

むろん育児放棄する親は日本でもいますが、完全に子を路上に追い出すのはやはりレアケースですし、新興国よりは保護制度が整っているでしょう。

そうしたことが日常的ではない日本という国に生まれたというだけでも、実は人生ゲームで最初からサイコロの6の目を出して始めたに等しいぐらい恵まれたことなのです。

生まれた時代もガチャである

また、時代ガチャで言うと、たとえば私の父親は小さいころに父親(私から見れば祖父)を戦争で亡くし、生活を支えるため小学生の頃から新聞配達をしていたそうです。

当時は有無を言わさず戦地に駆り出され、理不尽な空襲から逃げ、戦争孤児もたくさん生まれました。

あるいは命からがら戦地から引き上げてきたものの仕事がなく、政府による職住斡旋の移民政策(という名の本当は口減らしのためのほぼ詐欺的プランだったようです)でブラジルなどへ移住し、荒れた大地を開墾するという過酷な労働をして現地に根付いた人たちもいます。「日系3世」などと聞きますよね。

しかし現代は、そういうリスクの少ない時代です。日常的に命を脅かされたり、飢えたりすることもない。これだけでも恵まれていると思いませんか。

環境もガチャである

ほかにも、私が子どもの頃はもっと不便でした。家にはダイヤル式の黒電話が1台だけ。

女の子の家に電話するときは緊張しました。友達との待ち合わせはどうやっていたのか思い出せないぐらいです。

スマホで株やFXのトレードをして稼ぐとか、動画を撮影して加工してYouTubeにアップするとか、いつでもどこで映画や漫画を見るとか、ネットで銀行にお金を振り込むとか、想像すらできなかった。

しかし、いまはインターネットがあり、スマホがあり、家にいながら世界の情報を収集し、逆に世界に情報発信できる。誰でもネット上に自分の店を持ち、自分の放送局を持つことができる。

予備校の講義や大学の講義の動画もネット上でほぼタダで見れますから、勉強したい人には夢のようでしょう。

やろうと思えばコストをかけず何でもできる。こんな素晴らしい時代・環境はないと思いませんか。

ムシが良すぎる幼稚な欲求からの脱却

それ以外にも、私たちのほとんどの人は、目が見えるし耳も聞こえる、両手両足があって、自由に活動ができます。

しかし世の中には、本人にはまったく非がないのに、そうでなくして生まれた人もいます。事故や病気で、後天的にそうなってしまった人もいます。

今年の東京パラリンピックでも、選手たちの絶望とも思える場面や境遇、それを乗り越える過程などを知る機会があったと思います。彼らが「親ガチャ」などと不平不満を言っているでしょうか。

私たちには彼らの絶望はわからない。しかし想像することはできる。自分に置き換えて考えることはできる。

そういう「自分がいかに恵まれているか」に想像が及ばず、ただ自分の不遇を嘆くという視野の狭さは、単に「ないものねだり」をしている駄々っ子のようにも感じます。

治安も良く人権も保障されている日本で、そして知性と知能を持つ「人間」として生まれてきた以上、親や会社や政府に関係なく、「自らの知恵と工夫と行動力で人生を切り開く」ことが大切だ、と感じるのは私だけでしょうか?

もちろん、それらを放棄する権利もあり、それも本人の自由ですが、ならば不平不満を言わないことです。

会社でもいますよね。「〇〇はおかしい!△△すべきです!」と威勢よく正論を吐く若手。しかし「じゃあ、お前やってみろ」と言われたら途端に腰が引けるという感じの、自分は変わりたくないけど他人には変わってほしいと主張する人。「言うだけ番長」「口だけ委員長」ほど生産性のない滑稽な行為はないでしょう。

まあ、SNSや匿名コメントなどを見るにつけ、そういう人が圧倒的多数なのでしょうけれども、それに自覚できるかどうかというのもまた、才能であり知性のひとつなのかもしれません。

MONEY VOICE

午堂登紀雄のフリー・キャピタリスト入門

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。
  • このエントリーをはてなブックマークに追加