こんまりを世界で成功させた引き算のプロデュースとは プロデューサー・川原卓巳

こんまりを世界で成功させた引き算のプロデュースとは プロデューサー・川原卓巳

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  • 更新日:2022/01/15
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日本には魅力的な人や場所があまりにも埋もれていると、海を越えて暮らして気づいた(撮影/山本倫子)

プロデューサー、川原卓巳。ノーベル賞受賞者が海外に籍を移し、J-POPの世界進出も後れをとる。日本は才能が開花しづらいのかと、ため息が聞こえてくる。しかし、諦めるのはまだ早い。世界が何を喜ぶかを知るプロデューサーの川原卓巳が「本気を出す」と決めたからだ。「こんまり」の世界進出を成功させた川原。才能ある人が自分らしく生きていけるプロデュースを、仕掛け続ける。

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「日本を面白くする。これから先の10年を使って、僕の人生を賭けて日本に尽くすと決めたんです」

ロサンゼルスから一時帰国中の川原卓巳(かわはらたくみ)(37)に会うと、彼は壮大なビジョンを語り始めた。

職業は「プロデューサー」。彼の名前を知る人はそれほど多くないかもしれない。しかし、彼が手がけた“代表作”の名は世界中に知れわたっている。日本でミリオンセラーとなり、翻訳版も含めて1300万部を突破した『人生がときめく片づけの魔法』の著者、片づけコンサルタントの近藤麻理恵(37)、通称「こんまり」だ。

2016年にはアメリカに拠点を移し、現地メディア露出や講演活動も積極的に展開。19年には動画配信サービス「Netflix(ネットフリックス)」で公開した番組「KonMari~人生がときめく片づけの魔法~」が年間最多視聴ドキュメンタリーに輝いた。さらにはエミー賞2部門ノミネートという快挙も。“今最もハリウッドスターが憧れる日本人”と言われる近藤の世界進出は、公私のパートナーである川原によって導かれた。

といっても、元ネタとなった本の企画には関わっていない。では何をしたのかというと、“こんまりのリブランディング”だ。

遡(さかのぼ)ること4年前。川原はロサンゼルスで初めて映像化の交渉の席に着いていた。

「KonMari」を映像化したいというオファーは、テレビ局やGAFAを含む大企業から複数きていた。川原は近藤の絶対に譲れないこだわりを真に理解できるパートナーを探していた。錚々(そうそう)たる演出家や制作関係者を前に、覚えたての英語で訴えた。「麻理恵は片づけを通じて世界をよくしたいと本気で考えている。番組ではそれだけを伝えたい。彼女の信念を曲げる演出はしないでほしい」

それを聞き、「あなたが制作に関わって」と指名したのは、元パラマウント・ピクチャーズ社長で業界の重鎮、ゲイル・バーマンだった。川原はエグゼクティブプロデューサーとして抜擢された。ネットフリックスのオリジナル作品で日本人が制作の中枢に迎えられる例は稀(まれ)である。世界有数の投資会社セコイア・キャピタルが川原の会社に出資を決めたのもこの頃だ。

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190の国と地域で配信された近藤の番組は、単なる片づけノウハウではなく、「禅」や「マインドフルネス」に通じる精神性を伝えるコンテンツとして評価された。「片づけを始める前に家に手を合わせる」「不用品を処分する前に感謝を口にする」といった行為を印象的に演出したことで、“無二の価値”として世界に届いたのだ。「下着を小さく畳めば、ほら、自立するんです」とバラエティー番組でお茶の間を楽しませた“日本のこんまり”とは違う届け方。どちらが正解でもない。しかし、より本質的なメッセージは、国境を越えて広がった。大量に作っては使い捨てる消費のあり方に異を唱えるSDGsや、内面の充実を重視する「ウェルビーイング」の潮流にもマッチした。

これまでも「プロデューサー」と呼ばれる有名人はいたが、川原の目指すものは何が違うのか。

「多分、僕から何かを足すことはしないのが一番の違いだと思います。余計なものを引いて引いて、その人が本当に得意で独創的な力を発揮することに集中できる環境をつくる。『○○プロデューサーらしい』と見られる色はつけない。『あなたはそのままで素晴らしい』と言い続けたい」

世界中からトップクリエーターが集まる制作現場で、川原が得た気づきが三つある。まず、どんなに活躍しているスゴい人も、自分と同じ人間だということ。次に、自分がその業界の素人であっても、ニッチでユニークなスキルがあれば信頼されるということ。そして、日本には世界に誇れるソフトパワーがあるということだ。

日本人が大切にしてきた生活文化や個人が磨いた独自のスキルは、思った以上に世界に通用するし、歓迎される。自分ができることを素直に表明し、それが求められる場に身を移すだけで、マーケットは一気に広がる。幾度となくレッドカーペットの上を歩きながら、川原は「世界のKonMari」が生まれたのは奇跡ではないと考えていた。第2、第3のKonMariがもっと生まれていいのではないか。なぜ生まれないのか──。

川原がどうやってプロデューサーという天職に辿り着いたのか。その原点は「広い海に面した小さな世界」で過ごした幼少期にある。

生まれは瀬戸内海に浮かぶ広島県尾道市生口(いくち)島。30平方キロメートルほどの小さな島で川原は育った。自衛官で躾(しつけ)に厳しかった父と、社交的で明るく「ママさんバレー」の練習場へ川原をよく連れていった母。対照的な両親の間で育ち、「怖い相手の機嫌を損ねず、お菓子をくれそうな相手に可愛がられるにはどう振る舞うべきか。繊細に空気を読む力が自然と身についた」。

小学生の頃、一家は海を越えて呉市に引っ越した。ポツポツとシャッターが閉まる商店街の、その先の世界に飛び出す将来があると想像すらしていなかった。小学生の頃は器用な優等生キャラだったがいじめの対象になり、その反動で中高時代はヤンチャに過ごした。だが次第に、自分の命の使い道について真剣に考えるようになったという。

転機は高校3年生の頃。「呉を飛び出して、東京に行く」と決意し、がむしゃらに受験勉強をしていた無理がたたった。急性の内臓疾患に襲われ、生死を彷徨(さまよ)った。第1志望だった大学の受験日当日は病院のベッドで、白い天井を見つめていた。センター試験の結果を転用できる私立大学へなんとか進んだが、自分の可能性をどこまで広げられるかに自信はなかった。「周囲に言っていた目標は、『広島に帰ってきて市長になる』。あの頃の僕にとって、上京は意を決しての“越境体験”。怖かったけれど、やってみるとなんとかなった。以後、未経験の世界に飛び出すことを恐れなくなった」

(文・宮本恵理子)

※記事の続きはAERA 2022年1月17日号でご覧いただけます。

宮本恵理子

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