男をやめた私だって「親になりたかった。自分の子供が欲しい」

男をやめた私だって「親になりたかった。自分の子供が欲しい」

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2017/11/12
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男性として生まれたものの自らの「性別」に違和感を覚え、同性愛、性同一性障害など、既存のセクシャルマイノリティへ居場所を求めるも適応には至らず、「男性器摘出」という道を選んだ鈴木信平さん。そんな鈴木さんが、「男であれず、女になれない」性別の隙間から見えた世界について描いていきます。今回は鈴木さんの「憧れの生活」について大いに語ります。

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溢れたもの

目が覚めたとき、目の周りが必要以上にグジュグジュになっていた。

一瞬、毎年訪れる秋花粉に酷く冒されたのかと思ったけれど、この状況は花粉ひとつで説明がつくものではなかった。

ならどうして?

私は泣いていた。

夢の中で心の限りに泣いて、夢の中に納まりきらなかった涙が現実にこぼれ出していた。まだ目も覚ましていないのに、自分の意志では我慢することが出来なかった涙と一緒になって一日は始まっていた。

夢に向かうのは、闘いか逃避か

何せ夢だから、現実的につじつまが合わないことは多い。更には夢の記憶をすべて現実に持ち帰ることはできないから、残念なことに確かに残っているのは、日常的に抱えないようにしている感情だけ。

そばにいたのは、4~5才の男の子だった。

いきさつはわからないけれど、私の隣には小さな男の子がいた。

その関係は家族のようで、歩くときには私の手の平を求め、座るときにはじゃれつく猫のように肌を寄せた。笑った顔を誰よりも先に私に向け、私たちはお互いが離れる時間を何よりも嫌っていた。

私はこの夢のような時間を失いたくないと思っていた。だから幾度となく、男の子に問い掛けていた。

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「本当にしんちゃん(私)と一緒に暮らしたい?」

目が覚めて冷静になれば、我が子でもないの幼い子どもに何を聞いているのかとも思うけれど、夢の中での私は、ただ男の子の本心だけを大事にしたいと思っていた。いや、自分の気持ちが片想いではないことを確認したかったのかもしれない。

私の問い掛けに、子どもは何度も力強く頷いた。

そして私をまるで本当の親のように求め、慕い、甘え、頼ってくれていた。

断片的に「私も親になることになった」と両親に報告した記憶が残っている。その報告に対して両親もとても喜んでいた。

自分の家族を持たず、実家も我が家とは言えなくなっていた私が、やっと一人前になれた気がした。
私の家族となる男の子がいてくれることで、私自身も両親や兄弟との距離が縮まったような気がした。

それまでは一人だった自分が、両親と兄弟とその家族、そして私と私の子どもの大家族になったような気がした。

家族を持つことはこんなに満ち足りた気持ちになるのだと、夢をかなえた幸せを実感していた。

次の記憶は、男の子がもう私の隣にはいない場面。
何をしても私には、男の子を手元に抱きしめておくことが許されなかった。

私は現実通りの私に戻っていた。

目を腫らして濡れた顔で、これほど最低な目覚めもないであろう気分のまま、私は夢のエンディングに続く一日を始めていた。

「家族」は無敵の存在

年々、友達には似たような環境にある人が増えてくる。

原因は簡単。単純に異なる状況にある人とは付き合いが難しくなってくる。

結婚をすれば、日常はパートナーと共に築くものになるから、安易に自分の意志だけで何かを決めることには制限がかかる。

「今日は旦那の帰りが早いから」

「嫁さんがご飯を作って待っているんだ」

「最近、すれ違いが多いから今日くらいは」

これほどに、誘いの断りに正当性のある回答はない。

ここに子どもが加われば、更に難易度は高くなる。

「子どもが急に熱を出して」

「旦那の仕事が長引いたから子どもを見なくちゃいけなくて」

「子どもがいるから、急には無理だよ」

ますます反論の余地はない。

何もかもが正しいから、ここに不満を述べようものなら間違いなく非を被ることになる。

それに私自身、これらの回答が真っ当で誠実なものであることも理解している。ただ、私がその状況にないというだけで、私だって同じ境遇に身を置けば必ず同じ回答をすることもわかる。

けれども、理解しているからすべての都合を相手に合わせられるかと言えば、正直なところそんなに強靭な心を持っていないのが真実でもある。

会いたいと思って声を掛けて、断りの理由が「家族」であること。

会いたいから予定を組んで、その日をワクワクして迎え、当日になって致し方ない「家族」の理由でキャンセルになること。

そこには何も悪いことはなく、断る方だってつらいのも確か。すべては間違いなく仕方ないことだけれど、断られた側には予定が叶わなかった残念さと共に、ぽっかりと空いたのは予定だけではない事実が残る。

正直なところ、湧き上がる感情から目をそらし、誰も憎まず、誰も恨まず、自分を肯定して生きることは、そんなに簡単なことじゃない。

最近になって母親が学生時代の同窓一泊旅行に嬉々として出掛けるけれど、自分が同じ状況になった時には、母親と同じ気持ちになれる自信が今のところはない。

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今の私があるのは、間違いなく家族を優先して生きた母親があってこそのはずなのに、自分が立場を変えた時には諸手を上げて共感できない。

自分は何も変わっていないのに、友人が家族を持ったことによって変わらざるを得なかった日々が、友人が家族関係に一区切りついたことによって元に戻る。それがすべて叶うには、あまりに私の「片想い」が求められ過ぎてしまう。

その事実を誰にも気づかれることなく許したら、何だか自分の人生が寂しくなってしまう気がするのは、私が過剰に反応しているだけだろうか?

残り40年!?

先日、40才を少し過ぎた女性と二人で食事をした。言わずもがなの独身である。

お互いの近況を報告し合った後、最近考えて止まない「残りの時間」について話をした。

「現時点で半分。残りの40年をどう過ごす? しかも最初の10年は記憶がないし、次の10年は育てられながら夢ばかり見ていた。実質、自活できるようになって今の生活になってからの人生は、現時点で経過20年の残り40年。残数が実績の約2倍……」

「惰性で生きるには、長すぎる」

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拙著『男であれず、女になれない』の序章タイトルとなったこの言葉は、当然のこと今も生き続けている。

決して何もかもに絶望的で悲観的なわけではないけれど、シビアに考えたときに40年という数字は正直なところ重い。自分の人生の最優先事項が自分であり、自らの人生を投資する身近な対象がいないことは、紛れもなく残る人生を過ごすための困難を意味している。

人には家族ができ、私には今のところ兆候がない。私は自分の性に対して「宙ぶらりん」であることを回答として決着をつけ、友人は年齢と共に母親になるという願いを手放す準備をしている。

「失われてゆく性」に相応するだけの「役割」を、私たちは何も手にしてはいなかった。

若い頃には溢れるほどいた友人は、気づけばそれぞれに家族を持ち、人生のウェイトを家族に移していった。周囲に起こるこのトレンドは、これから10年、20年と続いて行く。

「孤独死など怖くない。怖いのは、孤独生だよ!」

余りある40年を前に、意見は見事に一致していた。

私は日本酒を、彼女は焼酎を、どれだけ重ねても残る40年の重みは、少しも軽くはならなかった。

幸せの形

私が涙ながらの一日を始めた理由を考えてみて、同僚の出産祝いへのカンパや友人の第3子出産報告が一週間の内に重なったことがあるのかもしれないと思った。週末に帰省した実家で甥っ子と姪っ子を預かり、とても楽しい時間を一緒に過ごしたことが影響しているのかもしれないとも考える。

自分の人間性に誓って本心から人の幸せを祝福してはいるけれど、その分だけ私にはないものへの羨ましさが募り、想いの叶わない自分を少しだけ嫌いになるのも事実。

その凹みから動き出すまでには、また少し時間を要す。前向きにことを考えて、今までよりも少し皮を厚くした理屈で自分を守っていく。

「幸せの形は一つじゃない」

ありふれた言葉を自分に言い聞かし、この手の中にあるものを一生懸命に数えている。今までに何度となく繰り返された、今の私だからこそ得られたものも少なくないと再確認する作業。

それでも、夢は何かと問われたら、きっと私は

「親になりたかった。自分の家族が欲しい」

と言い続けると思う。

私は、子どもを求めない人ではない。だから家族のあることを、子どものいることを、心の底から羨ましく思う。そうではない生き方を否定しているわけではなく、ただ明確に、家族があり、子どものいる人生を、私という個人は今も羨ましく思いながら生きている。

今までも、きっとこれからも、その都度、気持ちのぶり返しがあると思う。

けれども自分から遠ざけたくはないのだ。私の本心が願う「愛しい人生」を、自分にはなかっただけと理解して、やはり愛しいものとして、私は生き続けていたい。

そうすれば、いつの日か訪れるかもしれない母親が楽しみに待つような同窓会を、私もワクワクしていられるような人になれるかもしれない。本心さえ否定しなければ、「私として60年を生きた私」が、自分に自信を持てるかもしれない。

だから夢から続く涙は、私が私である証拠として、流れる限り流そうと思っている。

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これは、人生に同性も異性も見つけることができなかった一人の人間が、自らの“性”を探し続ける、ある種の冒険記です。

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