菅原道真の怨霊に立ち向かった貴公子に、大ムカデを退治した武人 “剛毅”な藤原氏の面々

菅原道真の怨霊に立ち向かった貴公子に、大ムカデを退治した武人 “剛毅”な藤原氏の面々

  • AERA dot.
  • 更新日:2023/11/25
No image

「新形三十六怪撰 藤原秀郷竜宮城蜈蚣を射るの図」国立国会図書館デジタルコレクションより

中臣(藤原)鎌足らによる大化の改新以降、日本の歴史にその名を刻んできた藤原氏。その中から、菅原道真を大宰府に追いやった藤原時平と大ムカデ退治伝説で知られる藤原秀郷をピックアップ。どのような人物だったのか。『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して解説する。

* * *

■藤原時平 菅原道真の怨霊を恐れぬ剛毅な貴公子

関白藤原基経の嫡男時平は剛毅な人であったらしい。『大鏡』によると、大宰府で無念の死をとげた菅原道真の怨霊が雷神となって内裏清涼殿に落ちようとした。この時、時平は刀を抜いて「生存中のあなたは私の次の位にいた。雷神になったとしても、この世では遠慮してもらいたい」といって怨霊を鎮めた。また、朝廷の政治においても、時に道理にかなわぬ決定をすることがあったという。父基経ゆずりの強引な性格だったのだろう。

基経の死から六年後の寛平九年(八九七)、宇多天皇が醍醐天皇に譲位した。醍醐は在位中に摂関をおかず、後世「延喜の治」と呼ばれる親政を行った。その治世の前半、天皇の両腕として政務を主導したのが藤原時平と菅原道真である。

父の死去時、二十一歳の青年公卿であった時平は、その後も順調に出世を重ね、二十九歳の若さで左大臣に上った。『大鏡』は「大和魂のいみじくおはしたる人」とも評し、政治的な手腕や処世術に優れていたと記している。昌泰四年(九〇一)には、妹穏子を醍醐に入内させた。後年、朱雀・村上両天皇の母となり、北家に栄華をもたらす女性である。

同年、右大臣菅原道真が謀反の罪をきせられて大宰府に左遷された。罪状は醍醐を退けて、娘婿である斉世親王(宇多と橘広相の娘の子)を即位させようとしたというものである。昌泰の変と呼ばれるこの政変は、時平による他氏排斥事件の一つといわれるが、学者でありながら大臣になった道真の異例の出世が、周囲の反発を生んでいたのも事実であった。道真は帰京の願いもかなわず二年後、大宰府で五十九年の生涯を閉じる。

時平は引き続き朝政をリードしたが、道真逝去の六年後、三十九歳の若さで亡くなる。

人々は道真の怨霊の仕業であると噂した。平安末期成立の史書『扶桑略記』は、道真の霊が青龍となって時平の体内に入り、耳から姿を現したと記している。さらに、穏子を母とする皇太子保明親王が二十一歳で亡くなると、醍醐も怨霊におびえるようになり、道真の官位の復帰や左遷の取り消しなど怨霊慰撫の方策を行った。延長八年(九三〇)、内裏が落雷を受けたことで醍醐の恐怖は頂点に達し、その三か月後に四十六歳で崩御する。

時平の死後、北家嫡流の地位は弟忠平に移る。時平の長男保忠は父の死去時、まだ二十歳と若く、父の権力を継ぐことはできなかった。次男顕忠が六十八歳の長命を保ち右大臣に上ったのは、謙虚なふるまいと、毎夜庭で天神を拝んだからであったと伝えられている。

■藤原秀郷 平将門の追討で貴族となった伝説の武人

平安遷都から数十年がすぎると、朝廷では官人の増加により中央での出世をあきらめ地方に拠点を移す人が増えていく。藤原秀郷もそうした地方下りの官人の末裔だった。

先祖は左大臣魚名とされる。その子藤成下野(栃木県)の大介職をえて赴任し、在地豪族の鳥取業俊の娘との間に豊沢をもうけた。藤成は西国に栄転し、豊沢は下野の在庁官人となって広大な土地を支配し実力を蓄えたと考えられている。豊沢の孫が秀郷である。

秀郷の前半生は謎に包まれている。瀬田の唐橋に現れる大ムカデを退治した話は伝説にすぎないが、勇猛な人物であったのだろう。十世紀初頭、在地武士を引きつれて下野国府に敵対し配流に処せられたことがわかっている。当時、関東では群盗が横行し、秀郷の家はその鎮圧も任務としたが、時には群盗と一体化し、国府に敵対することもあったらしい。

一つ間違えば、秀郷も平将門と同様、謀反人として追討される可能性もあったのである。

将門は九世紀末、平姓を賜り関東に下った高望王(桓武天皇の曽孫)の孫にあたる。摂関家の藤原忠平と主従関係を結び、その権勢をバックに一族間で所領争いを繰り返した。

天慶二年(九三九)、常陸(茨城県)の豪族と国守の対立の調停を引き受けたところ、予想外の戦闘が発生し、常陸国府を占領してしまう。勢いを得た将門は、国府を次々と攻略して関東を制圧。自ら新皇と称し、中央からの独立を宣言したのである。

国家存亡の危機に朝廷は震撼し、式家の藤原忠文を征東大将軍として追討に向かわせた。その一方、関東の在地豪族にも将門の討伐を命じ、五位以上の位階を与えるという破格の恩賞を約束した。貴族になるチャンスを逃す手はない。秀郷は将門と敵対していた平貞盛(将門の従兄弟)と手を結び、農民兵が帰村する農繁期をねらって将門の拠点を焼き討ちした。

天慶三年(九四〇)二月、激しい季節風が吹き荒れる中、秀郷・貞盛と将門は最後の決戦に臨んだ。当初、風上の将門軍が秀郷らを圧倒したが、風向きが変わると秀郷は三百余の精兵で敵本陣に突入。貞盛が射た矢で将門が落馬したところ、秀郷が馬で寄せて首をあげたという。乱後、秀郷は六位から一気に従四位下下野守に、貞盛は従五位上に叙され、子孫はどちらも武士の家として繁栄した。秀郷の子千晴は源高明に仕え、安和の変で没落したが、その弟千常の系統から佐藤・小山・結城氏などが輩出。子孫に伝えられた武芸は、後世、秀郷流故実として尊重され、秀郷は武芸の祖として伝説化された。

●京谷一樹(きょうたに・いつき)
歴史ライター。広島県生まれ。出版社・編集プロダクション勤務を経て文筆業へ。古代から近・現代まで幅広い時代を対象に、ムックや雑誌、書籍などに執筆している。執筆協力に『完全解説 南北朝の動乱』(カンゼン)、『テーマ別だから政治も文化もつかめる 江戸時代』、『年代順だからきちんとわかる 中国史』、『「外圧」の日本史』(以上、朝日新聞出版)、『国宝刀剣 一千年を超える贈り物』(天夢人)などがある。

京谷一樹

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加