
21-22シーズンは実質3部のシェフィールド・ウェンズデイでプレー。 (C)Getty Images

WBAで大きく飛躍を遂げたベラヒノ。相思相愛だったトッテナムへの移籍が叶わず、そこから歯車が狂っていった。 (C)Getty Images
生い立ちが壮絶だ。
アフリカの小国ブルンジで生まれた。1993年のちょうどその頃に内戦が始まり、10歳で父親を亡くした。本人の記憶が曖昧で、それは11歳の時だったかもしれない。
母親は兄弟姉妹を連れてすでに英国に亡命していた。難民となった少年はひとり、英国へと向かった。母はバーミンガムにいるはずだった。しかし、簡単には見つからない。少年は保護施設に収容された。やがて母親の所在が判明したが、すぐに親子とは認められなかった。認定にはDNA鑑定が必要だった。
ようやく始まった新生活も苦労の連続だった。英語が話せず、なにもかもが故郷と異なる英国の暮らしに戸惑うばかり。救いを求めるように、サッカーに打ち込んだ。ブルンジのストリートで磨いた足技には自信があった。サッカーがあったから周囲に溶け込んでいけたと、後に語っている。
すぐにウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン(WBA)から声がかかり、アカデミーで英才教育を受けながら、伸びやかに才能を育んでいった。正確なコントロールで密集地帯を切り抜け、狡猾にスペースを突いてラストパスを引き出し、左右両足から強烈なシュートを放つ。嗅覚鋭い点取り屋として将来を嘱望された。
レンタル先のノーサンプトン(当時4部)でのプロデビューは18歳、WBAに復帰してプレミアリーグにデビューしたのは20歳、2013-14シーズンだった。
良くも悪くも決定的な転機となるのが、翌14-15シーズンだ。
レギュラーに定着して序盤からゴールを連発すると、11月、ロイ・ホジソン監督率いるイングランド代表から初招集を受ける。出場機会はなく初キャップは刻めなかったが、U -16を皮切りに漏れなく名を連ねてきた年代別代表からA代表へとステップアップを果たした。最終的にこのシーズンはプレミアリーグで14ゴール、公式戦通算で20ゴールを挙げ、次代を担う若手ストライカーの筆頭へと躍り出たのである。
こうなると熱を帯びるのがビッグクラブによる争奪戦だ。なかでも熱心だったのはトッテナムだった。二度、三度とオファーを送り、15年夏、移籍マーケットの最終日に2500万ポンド(当時のレートで約48億円)を提示する。チャンピオンズ・リーグの出場権を持つトッテナムへの移籍を、本人はもちろん望んだ。しかし、WBAは首を縦に振らなかった。大切な宝を簡単に手放すつもりはなかったのだ。
運命の歯車が狂っていく。相思相愛だったトッテナム行きを潰された本人は、ツイッターで怒りを爆発させる。当時のジェレミー・ピース会長に矛先を向け、「このクラブでは二度とプレーしない」と宣言し、実際にチームへの合流を拒否したのだった。
トニー・ピュリス監督(当時)の説得に応じ、詫びを入れてチームに戻ったものの、後に自身で明かしたように謝罪は形ばかりで本心ではなく、不満を溜め込んだままプレーに身が入らない。たった4ゴールでシーズンを終えると、結局、ここから再浮上を果たすことはできなかった。
少年時代の過酷な体験がそうさせたのか、そもそも素行が悪かった。飲酒運転を繰り返し、笑気ガスの濫用で世間を騒がせたこともある。女性関係のトラブルも絶えなかった。タブロイド紙に格好のネタを提供したのは18年の2月。婚約した直後にSNSでナンパしたモデルの女性を自宅に連れ込み、浮気を察したフィアンセにその現場を抑えられた〝バレンタインデーの修羅場〞は、笑えない醜聞だ。
信用できない男だったと辛辣に評したのが、ストークでチームメイトだったグレン・ジョンソンだ。『トーク・スポーツ』に語った。
「何が気に入らないのか、最初からずっと反抗的な態度だった。集合時間には必ず10分遅れでやってくる。才能は間違いなかった。練習では驚くようなプレーを見せる。でも、真面目に取り組もうとはしなかった。ダメなやつは何人も見てきたが、彼がワーストだ」
このストーク時代にイングランド代表を諦め、祖国の代表にデビューした。
ズルテ・ヴァレヘムとシャルルロワでプレーしたベルギーでの2年間を経て、21-22シーズンはイングランドに戻ってシェフィールド・ウェンズデイで実質3部のリーグ1を戦った。シーズン終盤になって出番を増やし、最終的に29試合の出場で8ゴールを挙げ、昇格プレーオフ進出にそれなりの貢献を果たした。それでも、ウェンズデイでの2年目はなかった。1年契約の更新を望まれなかったのだ。
サイード・ベラヒノは8月4日で29歳になる。紆余曲折のサッカー人生は、ここからどう展開するのだろう。
文●松野敏史
※『ワールドサッカーダイジェスト』2022年7月21日号より転載