JO1・川西拓実、安定を捨ててつかんだ夢 『my HERO vol.04』インタビュー

JO1・川西拓実、安定を捨ててつかんだ夢 『my HERO vol.04』インタビュー

  • Real Sound
  • 更新日:2023/05/26
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SNS総フォロワー数100万人以上に支持されるアーティスト、タレント、クリエイターに特化した本格インタビュー誌『my HERO vol.04』が、本日2023年5月26日に発売された。

参考:JO1・川西拓実が登場! インタビュー雑誌「my HERO vol.04」表紙 & ティザー動画公開

『my HERO vol.04』の特集テーマは「音楽の可能性」。特集に登場するのは、多数あるボーイズグループの中でも最前線を走るJO1の川西拓実、『本当はね、』をはじめ数々の楽曲で若者の共感を呼んでいるバンド・ヤングスキニー、『チグハグ』が話題となり昨年のTikTok流行語大賞を受賞したTHE SUPER FRUIT、そして『NIGHT DANCER』が韓国の主要チャートでJ-POP初のランクインを果たし上半期の話題をかっさらったimase。さらに、コラムコンテンツでは、今年5月にデビューしたばかりのグローバルボーイズグループ・DXTEENに、いち早く本格インタビューを敢行するなど、充実の内容となっている。

リアルサウンド ブックでは、本誌の刊行を記念して、表紙を飾ったJO1・川西拓実のインタビューを抜粋して掲載する。2023年6月18日には、リアルイベント【my HERO Festival 2023 】の開催も決定している同誌ならではの、フレッシュなインタビューを堪能してほしい。

■『my HERO vol.04』インタビュー抜粋

2019年にサバイバルオーディション番組「PRODUCE 101 JAPAN」にて結成されたJO1。約6,000人もの応募者の中から選ばれた練習生101名が、“国民プロデューサー”と呼ばれる視聴者の投票によってデビューをつかむという仕組みで熱狂を呼び、SNSでは“推し”の投票報告をするなど、オーディションの経過を見守るファンが続出し、社会現象を巻き起こした。11人のメンバーの中で、歌・ダンスともに未経験ながら最終順位3位でデビューを勝ち取ったのが、兵庫県出身の川西拓実だ。学生時代は野球に没頭し、安定した職も得ていた彼はなぜオーディションに挑み、どのようにしてデビューを勝ち取ったのか。華やかな活躍の裏側にある努力や葛藤、今思い描いている未来のビジョンなどを聞いた。

──今回は、単独での表紙ですが、撮影を終えられて、いかがですか?

川西 めちゃくちゃ楽しかったですし、今までにない自分を見せられた気がしてうれしいです。特に鏡や洋服のラックを使った撮影は初めてだったので新鮮でした。普段の僕は直感でパッと服を選んでしまうので、あんなふうに鏡の前でコーディネートを考える、なんてことはあまりないんですけどね(笑)。

──「ビジュアルセンター」「国宝級イケメン」と呼ばれ、グループの中でも華やかな存在感を放っている川西さんにしては意外な回答です。しかも少年時代から野球に打ち込んでいて、ずっと丸刈りだったとか。

川西 そうなんです。小学校2年生から高校3年生まで野球をやっていたので、その間はずっと丸刈りで。別に小学生の頃は丸刈りにしなくてもよかったんですけど、小さい頃から高校野球を見て、丸刈りの姿に憧れていたので、自分から進んで丸刈りに(笑)。甲子園を目指してガチでやっていましたし、小学校から高校まで、本当に野球しかしてこなかったんですよ。

──筋金入りの野球少年が、歌やダンスに興味を持ったきっかけは?

川西 中学生の頃に、あるアーティストのライブDVDを観て、「こんな世界があるんだ!」と衝撃を受けたのがきっかけです。そこから、歌やダンスに興味を持って、どうやったらこういうステージにたどり着けるんだろうと思って調べて、「オーディションっていうものがあるんだ!」と知って。

──ちなみに、初めて観たライブ映像に出ていたのはどんな方ですか?

川西 どなただったのかは秘密です(笑)。DVDは友達に借りたとかではなく、母親が持っていたものをたまたま観ました。うちの母親は、元々ライブを観たりするのが好きな人で。JO1のライブも、兵庫から東京までいつも観に来てくれています。母親の影響を受けた、とまではいかないですけど、この世界に入る最初のきっかけを与えてくれた存在ですね。

──過去にオーディションを受けたことは?

川西 中学2年生の時に一度だけ。僕は兵庫に住んでいたので、大阪での2次審査は行けたんですけど、3次審査の会場が東京で、野球の大会とかぶってしまって……。オーディションと野球、どっちを取るかという時に、やっぱり現実を考えてオーディションを諦めちゃったんです。めちゃくちゃ悩みましたけど、僕が唯一夢を打ち明けていた母親にも「絶対にやめなさい」って反対されました。きっと親心だったと思います。自分にとっても家族にとっても、芸能界なんて画面の向こう側にある「未知の世界」でしたから。

──中学生の時に一度、夢を諦めたわけですね。

川西 野球もやっていたし、現実的にアーティストになるのは無理だろうなと思っていました。周りにも一切そういう話はしなかったですし。ただ、母親にだけは「本当はやりたいんだよね」ってずっと話をしていたんです。そうしたら母親が「PRODUCE 101 JAPAN」のことを教えてくれて、「これが最後のチャンスだと思って、受けてみたら?」って。

──当時は19歳。既に高校を卒業して、社会人として働いていたんですよね?

川西 重工業メーカーでスポーツ用四輪バギーの開発をやってました。小さい頃からものづくりが好きだったので、工場で黙々と車を組み立てたり、分解したりする仕事は楽しかったし、充実感もありました。でも、どこか夢を諦めきれていない自分もいて……。オーディションの話を聞いて「本当にこれが最後のチャンスだ」と思って、仕事を辞めて応募したんです。

──諦めかけていた夢をつかむために、社会人としての“安定”を捨てたんですね。

川西 その時強く思ったのは「何かを得るには何かを捨てる決断が絶対必要なんだ」ってことでした。もちろん、何も捨てずに全部できたらいいんですけど、どうしても無理なこともある。その“捨てる”決断ができたからこそ、今、ここにいられるんだと思います。

──社会人になってからの決断は一段と重みがありますね。

川西 そうですね、本当に普通に働いていたので。「オーディション受けるから会社辞めます」と上司に伝えにいく時も、「ヤバイやつだと思われたらどうしよう」ってすごく不安で。僕もそうでしたけど、普通に生活してると、芸能界に入るとか、オーディションを受けるなんて、なかなか想像がつかないと思うんですよね。だから、何て言ったらいいんだろうって、めっちゃ悩みました。でも、会社の上司に意を決して伝えたら、「お前、そんな夢あったんやな! がんばれよ!」って、驚きながらも気持ちよく送り出してくれて。本当にいい上司に恵まれていたなと思います。今でもその上司とか、会社の方たちは一生懸命チケットを取ってライブに来てくれるんです。僕のうちわとか持って応援してくれて、めちゃくちゃうれしいですね。

(文=鎌田幸世)

鎌田幸世

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