「危険と分かっちゃいるが」抗えぬカメラマンの性と普賢岳の教訓

「危険と分かっちゃいるが」抗えぬカメラマンの性と普賢岳の教訓

  • JBpress
  • 更新日:2021/06/11
No image

大量の溶岩を噴きあげる伊豆大島の三原山(写真:橋本 昇)

拡大画像表示

(フォトグラファー:橋本 昇)

これまで多くの火山噴火災害を取材してきたが、今も脳裏に鮮明に残る光景がある。それは1986年11月の伊豆大島・三原山噴火の光景だ。美しいと思った。本当に美しかったのだ。

あの時、私は取材位置に指定された場所を無視して、地元の人から火口に近づく別ルートを教えてもらい、夜の闇にまぎれて火口を目指してこっそりと進んでいた。しばらく行くと火口に続く平原に出た。雲の消えた夜空には満月が輝き、草原と、そこにぽっかりと口を開けた火口を照らしていた。火口からは地鳴りと共に、溶岩が天に向かって噴き上げている。

噴き上がる火柱に吸い寄せられるように火口へと進んだ。危険だという意識はもはや消えていた。音を立てて噴き上がるマグマ。神々しいまでの地球の営み。地球の怒り。火口のふちを登って行くにつれ、噴き上がる溶岩が今にも自分に降りかかるような恐怖も感じたが、この先二度とは見られないであろう光景に出会えたことへの感動が全身を駆け巡っていた。それはまさに息を呑む光景だった。

[JBpressの今日の記事(トップページ)へ]

危機一髪、望遠レンズを放り出して避難

1週間後、事態は急変した。三原山は怒り狂う山に変貌した。噴火の割れ目が本来の火口から山腹へと広がったのだ。取材拠点だった御神火茶屋でも、目の前に迫ってくる割れ目噴火にパニックが起こったという。

知り合いのカメラマンは、パトカーのボンネットにしがみついて避難した。また別のカメラマンは「噴火口に近づこうと茶屋を下って行ったら、突然目の前でマグマが噴き上がったんだ。重い望遠レンズを棄てて、もう八艘飛びで逃げたよ。レンズはきっと溶けてしまっただろうけど、自分が溶けずによかったよ」

と、興奮冷めやらずで、その時の様子を話した。

その溶岩流は町へと迫ってきた。11月21日、一万人の島民は約38隻の船に分乗し、全島避難した。全島民が避難する災害は全国で初めてだったが、一人の死者はおろか、ケガ人も出なかったことは奇跡といってもいいだろう。

雲仙普賢岳、数多の人命を奪った火砕流

長崎県雲仙普賢岳の噴火は、それから4年後の1990年11月に起こった。いったん小康状態になったものの、年が明けると再び噴火。それでも当初は人的被害はなかった。5月24日、最初の火砕流が発生し、付近の民家に迫ったことで避難勧告が出た。緊迫感が一気に高まった。

No image

もくもくと上がる噴煙(写真:橋本 昇)

拡大画像表示

「火砕流」という言葉を聞くのはあの時が初めてだった。調べてみると、地中からゆっくりと押し上げられた粘質の固いマグマが火口から流れ下らずにそのまま巨大な塊(溶岩ドーム)となって山裾へ崩落することらしい。

この大いなる自然の脅威を前に、報道カメラマンや研究者が普賢岳に蝟集していた。そして彼らは、その後も避難勧告地域に入り込み、それぞれの仕事に向き合っていた。

そして1991年6月3日、大火砕流が発生した。避難勧告地域にいた消防団員や警察官、報道関係者等が飲み込まれ、43人が亡くなった。

高温の流れが、地元の民家や畑、そして「定点」と呼ばれる撮影ポイントでカメラを構えていた報道関係者を襲ったのだ。報道関係者がチャーターしたタクシーの運転手、地元の消防団員は、報道の巻き添えになる形で命を落とした。マスコミの報道姿勢に、世間から大きな非難が巻き起こった。

No image

火砕流はすべてを焼き尽くす(写真:橋本 昇)

拡大画像表示

火砕流に飲み込まれたフランス人学者夫妻

私が現地に入ったのはその翌日だった。元々、契約先のフランスのフォトエイジェンシ―からあるフォトストーリーを撮って欲しいというリクエストがあり、現地へ行く予定になっていた。依頼されたのは、フランスの高名な火山学者で、普賢岳に調査に入っていたクラフト夫妻のストーリーだった。

しかし、クラフト夫妻となかなかアポがとれなかった。そうした中で、あの大災害が起き、クラフト夫妻も火砕流に巻き込まれた事を知った。彼らはそれまで世界中の火山を訪れ、耐熱服を着込んで噴き上がる溶岩のすれすれまで近づいてきた。

夫妻は生前、「溶岩流の流れにボートを浮かべて漕いでみたい」と語っていた。やはり危険より好奇心が勝る学者だった。

もしスムーズに連絡が取れ、調査に同行してフォトストーリーを撮り始めていたら、きっと私も彼らと運命を共にしていたのだろう。

No image

噴煙が上がった後には大量の火山灰が降る(写真:橋本 昇)

拡大画像表示

上空から見た溶岩ドーム崩壊の瞬間

火砕流に飲み込まれて亡くなったカメラマンの中には旧知の人も何人かいる。

毎日新聞九州本社写真部長を退職して、新潮社フォーカス誌の契約カメラマンをしていた大先輩の土谷忠臣さんもその一人だ。土谷さんは生涯現場主義の硬派カメラマンで、「新聞・雑誌ならどこだっていい、カメラで飯が喰えればそれでいい」と常に言っていた。好奇心旺盛な人だったが、それだけリスクと隣り合わせという生き方だった。後日発見された遺体の腕に巻かれていたロレックスの腕時計が身元判明の手がかりになったという。

現地に入って二日目、大村空港からセスナ機で溶岩ドームの周辺を飛んだ。周回飛行の何度目かに突然眼下の溶岩ドームが崩れ、大きな火砕流となって山裾めがけて駆け下っていった。火砕流はみるみる周辺の自然林を消し走り、海岸部に向かって一本の荒涼とした道筋を描いていった。

No image

普賢岳にて発生直後の火砕流(写真:橋本 昇)

拡大画像表示

大火砕流に襲われた無人の村は、上空から見ると一面灰色に変わり果てていた。改めてこの大惨事の恐ろしさを感じた。

No image

山裾へ向かって駆け下る火砕流(写真:橋本 昇)

拡大画像表示

「大火砕流が直撃した村の家のほとんどは焼け、残った家も高熱の灰を被り、ひと目でもう住めないと思いました。道路に乗り捨てられた車も、フレームだけを残して焼けている。一台一台、兵員輸送車を降りて見張りを立てて、車の中を捜索しています」

と、捜索隊員が語った。

No image

行方不明者を捜索する自衛隊員も命がけ(写真:橋本 昇)

拡大画像表示

「これ以上は危険、でもギリギリまで前進したい」のせめぎ合い

火砕流が発生する前のことだ。取材地点を決める市の対策本部とプレス側の調整は難航したという。プレス側は少しでも現場に近づきたい、市は当然の事として安全確保を主張する。結局、プレス側の多くは「避難勧告」に従わず、「定点」でカメラを構えた。ギリギリまで近づきたい、少しでも絵になる取材をしたい、という剥き出しの好奇心、取材競争は報道カメラマンの性(さが)だが、その性があの大惨劇を生むことになった。

No image

遺体を収容する自衛隊員(写真:橋本 昇)

拡大画像表示

巻き添えになった人達がいることで、報道のあり方に強い非難が集まった。これを契機に、報道機関の側も取材のあり方を考え直しはじめた。

しかし、取材現場での実際の判断は難しい。「危険だ」と言われてもついつい「もう少しだけ先に」と考えるものなのだ。取材の最前線にいる瞬間は、周りの誰よりも早く、そして迫力あるシーンを撮りたいと思う。これはカメラマンの本能だ。性と言ってもいい。

その性と、法律や社会規範、報道各社が定めたルールなどとが心の中でせめぎ合う。あの火砕流以降、その規範やルールは確実に厳格になった。

ただ雲仙普賢岳のときには、おそらく誰も火砕流の恐ろしさを理解していなかったと思う。高名な火山学者も一緒にいることで安心した面もあるのかもしれない。

時代は変わり、報道のあり方も変わってきたが、あの頃はどこの現場でも、さほど厳しい規範やルールはなく、混沌としていた。逆に言えば、それだけ活気が溢れていた、ように思う。

カメラマンにはトラブルさえも「ネタ」

その後も現場に留まり、普賢岳の取材を続けた。そのうちに自衛隊が大型ヘリにカメラマンを乗せて、被災現場周辺を飛行してくれる機会を設けてくれた。現場に集まっているカメラマン全員は一度に乗り切れないので、3回に分けて行われた。

私がヘリに乗った時、旋回の途中でローターが火山灰を吸い込んで突然停止し、ゆっくりと畑に墜落した。幸いケガ人はいなかったが、心底肝を冷やした。

No image

物珍しそうに自衛隊車両を見つめる地元の女子中学生(写真:橋本 昇)

拡大画像表示

その後、自衛隊の装甲車に収容されて麓に戻ったが、知人のカメラマンに事の顛末を話すとこう言われた。

「それはラッキーだったね。俺もそのヘリに乗りたかったなぁー」

実に残念そうに呟くのだ。その言葉を聞いて、なぜか「ラッキーだったな」という気持ちになった。トラブルさえもわれわれにとっては格好の「ネタ」なのだ。

やはり「骨の髄まで好奇心」、これがカメラマンの性なのだ。

No image

すっぽり火山灰に覆われてしまった売り物の車(写真:橋本 昇)

拡大画像表示

橋本 昇

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加