3度の巨大地震を経て改めて気づいた相馬市の魅力。しかし立ち直りつつあった今、市民を不安にさせる新たな“風評被害”が...

3度の巨大地震を経て改めて気づいた相馬市の魅力。しかし立ち直りつつあった今、市民を不安にさせる新たな“風評被害”が...

  • 文春オンライン
  • 更新日:2023/03/19

「あの日、燃えながら流される家もありました」11年間で3度も襲った巨大地震…相馬市の旅館若旦那はなぜ“絶望”から立ち上がれたのかから続く

東日本大震災以降、2度の震度6強に見舞われた福島県相馬市の松川浦。たび重なる被災に、24軒あった宿泊施設では廃業や休業が相次ぐ事態となった。

【写真】東日本大震災で458人が犠牲になった相馬市の慰霊碑。3月11日、僧侶が読経していた

希望を失い、諦めかけていた松川浦の人々に力を与えたのは、かつての名物だった浜焼きの復活だ。旅館の若旦那4人で作る「松川浦ガイドの会」が、自分も被災しながら取り組んできた。今では長い行列ができ、松川浦の新しい名物として定着しようとしている。(全2回の2回目/前編を読む)

なぜ、そこまで人を引きつけるのか。探っていくといくつかのキーワードがあり、それが重なり合って集客に結びついてきたことが分かる。そして、迫り来る「危機」を乗り換えるための起爆剤になるかもしれないと期待を寄せる。

ガイドの会の発起人になったのは会長の久田浩之さん(41)=亀屋旅館=だ。

管野芳正さん(48)=ホテルみなとや、管野功さん(46)=旅館いさみや、管野雄三さん(29)=丸三旅館=に呼び掛けて、2020年秋に結成した。

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浜焼き開始前に仕込みをする「松川浦ガイドの会」の若旦那4人。左から久田浩之さん、管野芳正さん、管野功さん、管野雄三さん(相馬市、浜の駅松川浦に設営された浜焼きテント)

きっかけとなったのはカニだった。

東日本大震災から少し後、現在のガイドの会とは別の同名の会が結成された。松川浦を案内したり、体験の手伝いをしたりしようという集まりで、久田さんは途中から加わった。

だが、当時は復旧工事や除染の作業員で連日満室だった。「旅館の方が忙しく、ガイドをしている余裕はありませんでした。そのうちに活動も低調になっていきました」と久田さんは話す。

しかし、久田さんには海の楽しさを誘客に結びつけられないかという思いがあった。そこで個人的に子供を対象にした「カニ釣り体験」を始めた。これは久田さんが子供の頃から大好きな遊びだ。

「カニ釣り体験」にはこの地域ならではの需要があった

「原釜尾浜海水浴場の近くの人工磯で、針金に生のイカゲソを付けて隙間から垂らすのです。10秒もしたらイカの匂いを嗅ぎつけたカニが寄って来ます。ハサミで挟んだところを持ち上げます。でも、子供はカニが怖くて、持ち上げてもつかめません。熱中するのは、一緒に参加した親の方なのですが、こちらには邪心があるせいか、なかなか釣り上げられません」

カニ釣り体験には、この地域ならではの需要があった。

松川浦の一帯では震災を機に地元を離れた人が多い。老夫婦だけ地元に残り、若手は都市部などへ出て行ったのである。そうした老夫婦のもとへ孫が帰省しても、海での遊び方を知らない。小さい時に松川浦を離れたか、離れた後に生まれたかなので「都市の子」になってしまっているからだ。このため久田さんのカニ釣り体験は重宝された。

活動を続けているうちに、福島県の観光物産交流協会から声が掛かった。

福島県内でも相馬市などの浜通り北部地域には観光拠点が少ない。「誰か面白いことをしている人はいないか」と探していた時に、相馬市の観光協会が紹介したのだった。

コンサルタントを派遣してくれるというので、仲間に呼び掛けて、グループを作ることにした。

これが旅館の若旦那4人で結成した新生「松川浦ガイドの会」だ。

カニ釣り以外にも、松川浦で体験しながら面白く過ごせないか。コンサルタントを交えてざっくばらんに話をする中で出てきた案の一つが、浜焼きだった。

久田さんが「昔は浜焼きをやっていましたよね。醤油のタレを付けて焼く匂いが懐かしいな」と話したところ、「やってみよう」と盛り上がったのだ。「最初は軽いノリでした」と久田さんは話す。

震災後は途絶えていたが、最後までやっていたいさみやの管野功さんがメンバーに加わっており、串の刺し方や、まんべんなく火を通す焼き方などを教えてくれた。

原発事故の後は「相馬の魚なんか食えるか」と言われたけれど

デビューは2020年11月3日。カレイ、イカ、エビ、ホタテ、トウモロコシなどを海の近くの「浜の駅松川浦」で焼くと、行列ができた。

久田さんが意外に思ったのは、外からの誘客を目指したのに、地元の人が多かったことだ。

「高温の炭火で焼くからうまいのを知っているし、懐かしかったのです。浜焼きは、それ以降も浜の駅松川浦などで行っていきますが、地元の人が『うまいから、食ってみろ』と他の人に勧めてくれました。これほど強力な宣伝はありませんでした」

目の前の港で上がる魚を焼くので、これを目当てに来る人も多い。

季節によっては、イシモチ、タチウオなどに加えて、数は限られるが珍しい魚も入る。取材に訪れた日には、カガミダイが10匹入荷していた。近所から来たという女性は「ツボダイはないの。あれは美味しいからね」と久田さんに尋ねていた。残念ながら、この日の入荷はなかった。

いさみやの功さんは「原発事故の後は『相馬の魚なんか食えるか』と言われたこともあるのに、こうやって行列ができ、外で焼いて食べられるようになったのだから大変なもの」と感慨深げだ。

少しずつではあるが、復興が進んできた証拠なのだろう。

「地元」という意味では、イカやホタテに付ける「秘伝のタレ」も地元の醤油を使っている。

もともとは功さんの母が考案したタレで、相馬市内の醤油味噌醸造店「山形屋商店」の濃口醤油に水飴などを加えて、3時間煮込む。香ばしいかおりが食欲を誘い、風下から客が寄って来る。これは不思議なほど効果がある。

それもそのはずだろう。山形屋商店は全国醤油品評会で最高賞の農林水産大臣賞をこの10年間で5回も受賞していて、これほどの受賞歴を持つ醤油蔵は全国にない。日本一の醤油を使ったタレなのである。

その証拠に「浜焼き体験に来た芸能人に『最も美味しい』と言われるのは、このタレを塗った焼きおにぎりです」と久田さんは言う。ただ、通常の浜焼きでは出しておらず、旅館に泊まった時に串刺しから行う体験メニューの限定品だ。

こうして「地元」の人が大好きな物を、「地元」の産品にこだわって作る。これが人気につながっていくことを、若旦那達は学んだ。

浜焼きだけではないもう一つの人気アクティビティ

最近は浜焼きを行うと、開店前から長蛇の列ができるのが当たり前になっている。若旦那4人ではさばき切れず、アルバイトを雇うことも多い。

遠方のイベントに招かれることもあり、福島市や山形県米沢市、愛知県名古屋市に出掛けた。広告代理店や電力会社から「東京でやってほしい」という依頼も舞い込んでいる。だが、重さが300kgもある浜焼き台を自力で運ぶのは難しく、現時点では断わらざるを得ない。ちなみに名古屋で行ったのは小さな焼き台での「プチ浜焼き」だった。

もう一つのキーワードは「楽しさ」だ。

久田さんは「私達が楽しそうに焼いていると、それがお客さんにも伝わるようなのです。最初はお客さんとして来たけど、『ボランティアでいいから焼かせてほしい』という人や、手伝いに来てくれる県職員もいます」と話す。

実は、ガイドの会が行っているのは浜焼きだけではない。

松川浦に人を呼ぶために、いくつもの体験メニューを持っている。これはメンバーそれぞれが小さい頃から海で遊んできた経験をもとに設けた。カニ釣りはその典型だろう。

「ナイトフィッシュキャッチという体験ができます。港では大きい魚から逃げた小魚が岸壁に寄り添って寝ています。相馬の港は命の揺りかごになっているんですよと解説しながら、夏の満潮の夜、懐中電灯で照らして網ですくうのです。簡単にとれるので楽しくて、私も子供の頃に熱中しました。夜遅くまで帰って来ず、親に『いつまで遊んでいるんだ』と怒られた経験があります」と久田さんは笑う。

竹竿を作ってハゼ釣りをするメニューもある。竿を作った後、笹の葉が付いた端材をまとめて海に入れると、伝統の「笹浸(ささびた)し」漁になる。「カニや小エビ、ヨウジウオのほか、タツノオトシゴまで獲れます。タツノオトシゴにお目に掛かれるなんてワクワクしませんか」。久田さんは目を輝かせる。

「ムーンロード・スターライト・カフェというメニューは、学生さんと考えました。『東京にいると、波の音を聞きながら、星を見たくなるんです』と話していた子がいて、『そんなの松川浦では毎日見てるし、毎日聞いている』と思ったのですが、『それがいいんですよ』と言われました。松川浦を太平洋と隔てる大洲海岸という砂州があります。そこには何もないのですけれど、寒い時期に地元の銘菓を食べたり、コーヒーやココアを飲んだりしながら、満月が水平線から顔を出すのを待ちます。赤い月が上がると、海面に月の光の道ができるのでムーンロードと名付けました。すっごくきれいですよ」

3度の地震で追い詰められて再発見した松川浦の魅力

「大洲海岸に流れ着いた流木を集めて燃料にし、シラスや松川浦で採れた青ノリを載せてピザを焼いたら絶品です。松川浦では干潮時に干潟探検もできます。小さなコメツキガニが何百匹も上下運動をしながらダンスをするのが見られます」

久田さんは話しているうちに熱を帯びる。

そうした観光コンテンツを考えていくうちに、若旦那らが気づいたのは新しい観光の在り方だ。

松川浦の観光はバブル経済が崩壊した頃に、曲がり角を迎えた。

「歴史をたどれば、高度経済成長期には家族やグループが泊まりがけで海水浴に来ました。バブルの最盛期には新鮮な魚介類を食べながらコンパニオンを呼ぶという形になりました。それがバブル崩壊で廃れてしまい、そのうちに大型バスでの団体旅行も流行らなくなりました。相馬には観光施設が乏しく、誘客が難しい面があります。海の楽しさを知らなければ、景色を少し見ただけで『こんなものか』と去っていく人が多いのです。宮城の松島の方が面白いじゃないかということになりかねません。でも、観光開発されていない分、松川浦にはありのままの自然があります。本当の松川浦の面白さを知ってもらいたい」

だからこそ「体験メニュー」なのだ。

「今後の観光は『体験と人』です。体験を通して松川浦の面白い人に会って、リピーターになってもらいたいのです。旅館も従来はお客さんと話すのは女将だけでした。若旦那だって話したい。ただ、オヤジと話をするのは気が引けるでしょう。楽しい体験を通してだったらどうですか。私達もお客さんと仲良くなりたいと思っているのです」

こうして、3度もの地震で追い詰められたことで、逆に松川浦の魅力を再発見していくことになった。

松川浦では今、多くの人が心配していることがある。

頭から片時も離れない“あの問題”

東京電力福島第一原子力発電所が「春から夏頃」に海洋放出するとしている「処理水」だ。

同原発には、事故で溶け、固まった核燃料の燃料デブリがある。これには冷却水を掛け続けなければ暴走する。冷却水は高濃度の放射性物質で汚染されてしまうので、東電はALPS(多核種除去設備)で規制基準内になるよう処理している。だが、トリチウムだけは除去できない。このため海水で薄めて沖に放出するというのである。

風評被害が起きると不安視されており、久田さんは「必ず起きる」と考えている。

そうなれば、たび重なる地震で痛めつけられ、まだ営業を再開できていない旅館が多い松川浦は、取り返しの付かないダメージを受けるだろう。再起できない人が出かねない。

その時のためにも、体験を通して松川浦や旅館のファンが増えれば、風評をものともせずに来てくれる人がいるのではないかと若旦那達は期待しているのだ。

その点、風評被害対策として即効性があるのは、やはりブレイク中の浜焼きだろう。

「海の物ですし、美味しいですからね。若者にも大人気なんですよ」。丸三旅館の管野雄三さんが言う。ガイドの会で最も若い20代のメンバーだ。丸三旅館は昨年の福島県沖地震での損壊が著しく、修繕工事に時間がかかった。今年1月9日にようやく営業を再開できたばかりだ。

3月10~12日、相馬市の「浜の駅」で行われた浜焼きを取材した。

会津磐梯山の麓の猪苗代町から車を2時間運転し、わざわざ浜焼きを食べに来たという60代の夫妻は、「風評被害は必ずあるでしょう。でも、浜焼きの美味しさの方が勝るのではないでしょうか。カガミダイを食べたのですが、本当に美味しかった。私達は処理水の放出には反対です。傷ついた被災地がさらに傷つくのは見ていられません。食べて応援することしか出来ませんが、これからも松川浦に来ます」と話していた。

浜焼きに込めた思いは着実に伝わりつつある

1時間ほど離れた阿武隈高地の山中から友達同士で訪れた60代の女性も、「美味しいですよね。海の物は、やっぱり海の近くで食べるのが一番。『浜の駅』では今日、料理研究家の栗原はるみさんのふるまいもあったのですが、私達は浜焼きを選びました。だって若旦那達が何度も地震に遭いながら頑張っているんですから」と微笑む。

若旦那4人が浜焼きに込めた思いは着実に伝わりつつあるのだろう。

「浜焼きは自然の美しさを感じさせる食べ物なので、松川浦の魅力を知ってもらうきっかけになります。復興を引っ張り、風評被害をはねのける起爆剤になるに違いありません」と雄三さんは話す。

ぜひ、そうあってほしい。

(葉上 太郎)

葉上 太郎

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