「ソ連兵が戦車から何人も降りてきて、片っ端から撃ち殺し...」民間人1000人殺害“葛根廟事件”で生き残った日本人が語った“凄惨な現場”

「ソ連兵が戦車から何人も降りてきて、片っ端から撃ち殺し...」民間人1000人殺害“葛根廟事件”で生き残った日本人が語った“凄惨な現場”

  • 文春オンライン
  • 更新日:2021/05/04

「ギャーという悲鳴、ブスブスッと銃弾が体に食い込む音が…」日本人1000人をソ連戦車部隊が殺害“葛根廟事件”に巻き込まれた少年の証言から続く

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終戦前日の1945年8月14日。満洲に侵攻したソ連軍に、徒歩で避難中だった日本人が襲われ、戦車に下敷きにされるなどして1000人あまりの民間人が殺される事件が起きた。なぜ悲劇は起きてしまったのか。昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。(全2回の2回目/#1を読む)

◆◆◆

「我々一行は非戦闘員だ。撃たないでくれ!」

グループを率いていた興安総省参事官の浅野良三は、白旗を用意してソ連軍に向けて掲げた。伝えられるところによると、浅野は、

「我々一行は非戦闘員だ。撃たないでくれ!」

という意味の言葉を叫びながら、戦車に近づこうとしたという。

しかし、そんな浅野の身体を無数の銃弾が襲った。浅野は射殺された。

戦車の数は10台以上に及んだ。土煙を上げながら、轟音と共に縦横無尽に走り回る。人々は逃げようとするが、身を隠せるような建物などもない。

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満洲国境を突破するソ連軍第1極東戦線の歩兵部隊(1945年8月) ©時事通信社

「かあちゃん!」

「助けて」

そんな声があちこちから聞こえてくる。ソ連兵は「マンドリン」と呼ばれる自動小銃を乱射した。わずかな兵器しか持たない日本側には、反撃する力もなかった。当時、国民学校の1年生だった川内光雄は次のように語っている。

〈私は、当時三十二歳だった母に抱かれ、大きな溝に転がり込むように逃げました。左肩に銃弾を受け、「痛い」と振り向いたとき、すでに母は頭に銃弾を浴びていました。「おかあさーん」「おかあさーん」と母の体を夢中で揺すりました。母は、ばったりと倒れました。背中にすがりつき、わんわん泣きました。妹ともはぐれました。(略)一晩中、母の遺体の横で、泣き明かしました〉(「西日本新聞」2005年7月19日付)

子どもも老人も……無抵抗な民間人が狙われた

辺り一帯には、生きているのか死んでいるのかさえわからない人々の身体が無数に転がっていた。戦車はそれらを踏みつけながら走った。

葛根廟の丘で行われたのは、無抵抗な民間人への明らかな虐殺であった。

そんな攻撃は、午後になっても続いた。

ソ連兵たちは倒れている日本人を見つけると、蹴飛ばしたり、銃で突いたりして生死を確認した。息がある者には銃弾を撃ち込むか、短剣を突き刺したりした。この時の様子を当時、国民学校の1年生で、馬車に乗せられていた守田隆一はこう記録している。

〈お父さんとお母さんが撃たれてしばらくすると戦車がとまり、何人ものソ連の兵隊が降りてきて、倒れている人や逃げていく人を片っ端から撃ち殺してゆきました。

一人の兵隊がとうとう馬車まできました。そして、一緒に乗っていた病気のおじいさんを引きずり降ろすと、パァーンと頭を撃ちました〉(『朔北の学友』)

子どもだろうが老人だろうが、ソ連軍の攻撃に見境はなかった。戦車のキャタピラに轢かれて膝から下をつぶされた人も、容赦なく殺されたという。

子どもを亡くした母親であろう、精神に異常を来たしたと思われる女性の金切り声が辺りにこだました。

ソ連軍に包囲され、自決する人々も

その後、戦車群はようやく葛根廟から去った。生存者の一人である小池うめは、その後に見た光景を以下のように述べている。

〈足元を見ないと、たくさんの死体で、何回も躓いてころびそうになった。

転がっている人が手を上げていたので立ち止まってのぞくと、虚空の一点にカアーッと目を据えたままもう硬直した手だった。二十歳前後の若い女だった。その女の足もとに一緒に歩いていたのか十歳ぐらいの女の子の女の人と握っていた手が、はずれて可哀想に首から上は戦車に轢かれたのか完全に押しつぶされ半分土の中にめり込んでいた〉(『殺戮の草原』)

生存者の中からは、ついに自決者が出始めた。ソ連軍に包囲されていると思われる状況下、重傷を負ってこれ以上の退避を諦める人や、ソ連兵からの陵辱を拒む女性、子どもを失って絶望に打ちひしがれた母親などである。

(子どもと同じ場所で一緒に死のう)

と考えた母親たちは、無念の思いと共に次々と自ら命を絶った。自決の方法は、刃物か銃による事例が多かったという。

その他、青酸カリで命を絶つ者もいた。「もしもの時のため」と青酸カリを持参していた者たちもいたのである。

子どもに青酸カリを飲ませて……

自らの愛する子どもたちと心中を図る母親もいた。当時、28歳の広久政子は、2歳の長女・節子と8カ月の長男・克彦を連れていた。政子は戦後に綴った手記の中でこう告白している。

〈……私は決行した。腰のハンカチで坊やの細い首をぎゅっと絞めたのだ。『坊や、許して、我慢してね。母ちゃんもすぐ後から行くの。坊やばかりやるんじゃないから、苦しいけど我慢してね。御免なさい。御免なさい』。ちょっと力が抜けると、吹き返してくる息。長く苦しませたくないばっかりに、一生懸命に引いた。がっくりと首がくびれて、あゝ、遂に私の坊やは死んでしまった。八月十四日。克彦は僅か八か月の命を母の手に奪い去られたのだ。亡骸はどうすることもできないので、草の上におむつを敷いて寝かした。顔をガーゼで掩ってやった〉(『亡き子がわたしを呼ぶ』)

政子は次に長女の節子に青酸カリを飲ませた。そして、自分もすぐ後に続いた。

しかし、致死量に足りなかったのか、2人は死ぬことができなかった。

地元の農民は屍体から衣服や所持品を剥ぎ取っていった

そのうちに、地元の農民などがこの混乱に乗じて略奪している様子が目に入った。暴徒と化した彼らは、鎌や包丁、棒などを持ち、屍体から衣服や所持品などを剥ぎ取っていた。

(見つかったら暴行される)

そう思った政子は、瀕死の節子を背負い、他の数名と共にその場を逃げ出した。

這うようにして山の裏手へと逃げ込んだ彼女たちの目の前には、断崖が広がっていた。政子は節子をおぶったまま、崖の縁から飛び降りた。

(どうぞ死ねますように)

と祈りながら。

しかし、今度も死ぬことはできなかった。落下の衝撃で身体に激痛が走ったが、命にかかわるような重傷ではないようだった。節子にも息があった。

だがやがて、追い剥ぎの暴民たちが近づいてきた。政子は死んだふりをするしかなかった。

暴民たちは節子を引き離し、政子の衣服をすべて剥いだ。それでも政子は我慢して死んだふりを続けた。

暴民たちはやがて去っていった。以降に起きたことについては、政子の手記から引こう。

〈泥土の上に無惨に放り出されて、俯伏せに手足を伸ばしている裸の節子をそっと抱き起こしたら、ごろごろと咽喉が鳴って、大きな呼吸を一つ残して、こと切れた。どんなに苦しかったことだろう。『辛かっただろうね節子、御免なさいね、母ちゃんも行くから御免なさいね』。裸の腕にしっかり抱きしめた節子が、だんだん冷たくなってゆく。手も足も固くなってゆく。『あゝ、許して、許して』。抱いたまま草の上に身を投げて、私は身を悶えて泣いた〉(同前)

殺戮の翌日に、戦争は終わっていた

葛根廟の丘は、屍体で埋め尽くされた。流れ出た血が、赤というよりもどす黒く、不気味に丘を染めていた。冷たくなった母親の乳房を吸い続ける赤ん坊の姿もあったという。

前日の雨水が溜まっている窪地があった。その水溜りの周囲には、とりわけ多くの屍体が折り重なっていた。最期に水を求めて集まってきたのであろう。

その水は血に染まっていたが、それを見つけた生存者たちは貪るようにしてその液体を飲んだ。

翌15日に戦争は終わった。しかし、生存者たちはそんな事実を知ることもなく、さらなる逃避行を続けた。

深刻な飢えと渇き……ソ連兵を避け、草原や畑を歩いた

葛根廟駅の付近にはソ連兵や暴民が多く、近づくことすらできなかった。避難民たちはいくつかの集団となって、満洲国の首都である新京まで歩くことにした。

彼らは深刻な飢えと渇きに襲われた。ソ連軍兵士や暴民に見つからないよう、草原や畑の中を歩いた。

そんな中、人のいない農家を見つけて、そこに隠されていた粟で命を繋いだ者たちもいた。彼らは粟を炊いておにぎりをつくり、皆で分け合って貪り食った。しかし、その中の一人であった大櫛戊辰によれば、次のような哀しき光景も見られたという。

〈「お母ちゃん、僕のごはんを取るなよ!」

早く喰べ終った母親が、まだ我が子の手にある飯を取ろうとしていた。

「嫌だ! 嫌だ! 僕のだ!」

背をかがめ握り飯を胸に抱き、頭を埋めて必死になって防いでいる。その光景は、浅ましいとか物の哀れとかいうよりも、鬼気迫る餓鬼道の世界だった。愛とか美とか、糞くらえだ。何が母性愛か何が仁道だ!〉(『殺戮の草原』)

疲労困憊の末にたどり着いた地は……

8月といえども、夜になると身体が震えるほど気温が下がった。おぶっていた赤ん坊がいつの間にか死んでいたり、歩くことを諦めてその場に伏せる者もいた。

子どもたちに対し、

「頑張って歩こうね」

「もうすぐだから元気だして」

などと励ましの声をかける大人もいれば、何も言わない人もいたし、

「泣くな。うるさい! 誰かに見つかったらどうするんだ!」

と怒りをぶつける者もいたという。

地図も方位磁石もない逃避行、目印の少ない大地では迷うことも多かった。疲労困憊の果てにたどり着いた場所が、数日前に自分たちがいた所だとわかった時の絶望は計り知れなかった。

ソ連兵や暴民に見つかった若い女性が、強姦される事件も複数起きた。

日本人に同情し、手を差し伸べた現地住民たち

その一方、日本人に同情し、食事を分け与えてくれる現地の人々もいた。避難民たちはそんな時に「日本が戦争に負けた」という事実を知った。自分たちが虐殺にあった日の翌日に戦争が終わったことを知り、避難民たちは愕然とし、脱力した。

結局、千数百人いた避難民の内、生きて日本に帰国できたのはわずか百余名であった。現地に取り残された子どもたちは残留孤児となり、それぞれ激動の戦後を過ごすこととなった。(文中敬称略)

〈参考文献〉
『葛根廟(新聞記者が語りつぐ戦争(5))』読売新聞大阪本社社会部
『葛根廟事件の証言』興安街命日会
『殺戮の草原―満州・葛根廟事件の証言』東葛商工新聞社

(早坂 隆/Webオリジナル(特集班))

早坂 隆

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