「負けた気がしない」の思い残した聖地へ 恩師、友人が語る岸孝之の素顔

「負けた気がしない」の思い残した聖地へ 恩師、友人が語る岸孝之の素顔

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  • 更新日:2016/11/30
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岸孝之が「恩返し」誓う故郷、その思いのルーツを探る

西武からFA宣言した岸孝之投手が、野球を始めた原点の地である東北、仙台を本拠地にする楽天に移籍した。東北学院大からプロ入りし、10年。岸は11月18日の入団会見で「野球を始めたのが、この仙台。プロに入るまでたくさんの人にお世話になり、支えられてここまでこられた。そういう方たちに成長した姿を見せたい、地元に恩返しをしたいなという強い思いがありました」と語った。通算103勝を誇る右腕として、大きな期待を背負って故郷に戻る岸は、どんなアマチュア時代を過ごしたのだろうか。

2002年7月16日。名取北高のエースだった岸は仙台二高に敗れ、高校野球を終えた。台風が接近し、試合途中で雨が降り出した。ドロドロになりながら投げ抜いたが、味方のエラーもあり、2-4で敗戦。気づけば雨は上がり、学校に戻ると空には大きな虹がかかっていた。

仙台市で生まれ育った岸は小学3年から少年野球チームに入った。柳生中から名取北高に進学。「小さくて少年野球のエースみたいでした」と回想するのは、岸の名取北高時代の野球部監督・田野誠さん(現利府高野球部監督)だ。

岸が高校1年だった2000年夏の宮城大会登録メンバーを見ると、岸は身長170センチ、体重51キロで登録されている。170センチで登録されている同級生の体重は85キロや64キロ。160センチ台の先輩もいるが、体重は50キロ台後半だ。田野さんは170センチの岸が160センチくらいに見えたそうだが、小さく映ったのもうなずける。細身の少年だったが、「フォームはきれいだった」と、その姿が焼き付いている。

名取北高の同級生でチームメイトだった佐藤克明さんは「フォームは今とほとんど変わっていないと思う」と話し、「全身がバネみたいな選手だった」と振り返る。

「岸くんはプレーの質が感覚的に優れ、冴えている人。スポーツは何をやってもできましたね。サッカーもバスケも上手で運動ができた。体の使い方が違いました」

そう話す佐藤さんは、岸の野球人生のキーマンでもある。

「甲子園を目指そうなんて1ミリも思っていなかった」

高校1年の5月頃。岸や佐藤さんら1年生は外野の草むしりをしていた。宮城の高校野球といえば、仙台育英高や東北高が頂点を争い、普通の公立校にとって甲子園は夢のまた夢。佐藤さんは「甲子園を目指そうなんて1ミリも思っていなかった」と笑う。おしゃべりをしながら草むしりをしていると、岸と佐藤さんの頭には退部がよぎった。2人の話は退部の方向で進み、「克明くんがOKだったら、俺も監督さんに言うわ」と岸は言ったという。

まずは佐藤さんが監督の田野さんに退部を申し出た。ところが、何を言ってもその理由は跳ね返された。最終的に佐藤さんは丸め込まれて退部は許されず、その結果を受けて辞められないと悟った岸も思いとどまった。もし、ここで佐藤さんが退部していたら、岸は野球を辞めていたかもしれない。

むしろ、岸は高校で野球部に入るかどうかも迷っていたようだ。高校球児の髪形といえば多くが丸刈り。それが嫌だった。入部を希望する新入生の集合日。田野さんが「これで全員か」と聞くと、「あと1人いますが、今日は来ていません」と返ってきた。その1人が岸だった。当時の名取北高の野球部は、長髪でなければ丸刈りでなくてもOKだったのだが、それが本当かどうか、岸は確かめていたようだ。佐藤さんが話す。

「岸くん、髪形も今とあまり変わっていないかも。岸くんは高校時代の監督が田野監督だったからよかったんですよ。田野監督は坊主にして野球が上手くなるわけじゃない、というような本質を突いている人。当時、僕らは野球部員が持っているセカバンではなく、普通のリュックとかでした。練習時間も長くはなく、無駄な練習はしなかったですね。“バリバリの高校球児”という感じではなかったと思います」

全身泥だらけになって何時間も白球を追う――。そんなドラマや漫画のような、でも、現実にある“ザ・高校野球”ではなかった。だからといって、練習をしていないわけではない。サボったり、手を抜いたりすることはなく、要領のいい練習を重ねていった。

岸は高校時代、2年生からエースになった。1学年上の選手は力があり、ホームランを量産する先輩もいた。それまでの岸はどちらかといえば、楽な方へ逃げるタイプだったというが、「この辺りから戦う気持ちが芽生えたのではないか」と田野さんはいう。そして、県内で「岸孝之」の名前は徐々に知れ渡るようになる。それでも、当時、東北高には怪物左腕・高井雄平(現ヤクルト)がいた。さらに、岸が高校3年春の宮城県大会の上位を仙台、利府、仙台二、仙台西といった公立勢が占め、話題の中心というわけではなかった。

迎えた高校最後の夏。名取北高は1回戦の多賀城高戦で5回コールド勝ちした。岸は5回を無安打無得点に抑えた。この時の岸の投球に一目惚れしたのが、当時、東北学院大野球部で監督をしていた菅井徳雄さんだった。菅井さんの息子が多賀城高の選手だったため、試合を観に来ていたのだ。息子は死球とライトゴロだった。

岸のボールは打たれても詰まることが多かったため、名取北高の外野手が前に守っており、ライトにはじき返した打球は一塁に送球されてアウト。息子はノーヒットノーラン(参考記録)で高校野球引退となったが、菅井さんは名取北高のグラウンドに向かった。次の対戦相手の試合を偵察し、学校に戻ってくるまでの数時間を待ち、菅井さんは田野さんに熱意を伝えた。

「守備機会は1回あるかないか。そんな緊迫した1球に耐えられなかった」

3日後、名取北高は第3シードの仙台二高と2回戦を戦った。宮城県内上空には台風の雲がかかり、4回くらいから雨中のゲームになった。名取北高は5回に1点を先制したが6回、外野手が3失策するなどして4点を失った。佐藤さんが振り返る。

「当時、宮城の中で岸くんは有名になっていました。僕らは『岸がいるから負けられない』と思うようになった。岸くんに力があるのに、僕らがミスすることで岸くんに悪いなとか、みんな、そんな思いを抱えながらやっていたと思います。1試合に10何個も三振を奪う。そうすると守備機会は1回あるかないか。そんな緊迫した1球に耐えられなかったですね。1年間、そんな思いとの戦いでした」

仙台二の小川弘朗投手も評判が高く、好投手同士の一戦だった。1球への緊張感はいつもより増していた。

雨脚は強まり、試合は一時、中断した。当時の野球部長から田野さんは「諦めな。雨は止まないよ」と言われた。でも……、と諦めはつかなかった。中断して20分ほど経った時、大会運営の先生が一輪車で砂を運び始めた。田野さんは「このゲーム、途中で終わらせられねぇべ」という言葉をかけられ、「泣きそうになったね」。砂を入れ、ゲームは再開されたが、名取北高は2-4で敗れた。岸が打たれた安打はわずかに3本。それも田んぼ状態のグラウンドで勢いを失ったボテボテのゴロや、転がらなかった内野安打だった。

宮城では甲子園をかけた戦いが続いていた。岸が高校野球を引退して4日後。今でも語り草になっている一戦があった。4回戦の仙台育英-東北。3連覇中の仙台育英と全国屈指の左腕・高井雄平の対決とあって、会場となった名取市の愛島球場には観客が大挙して押し寄せた。球場へのアクセスは公共交通機関を使うことが難しく、道路は1本道。宮城県高野連も最善の手は尽くしていたものの、周辺では大渋滞が起き、第2試合を戦うチームも球場に遅れて到着するほどだった。この渋滞に巻き込まれていたのが、東北学院大の監督だった菅井さん。「これはダメだ」と愛島球場に行くのは諦め、予定を変更。名取北高に向かった。菅井さんが話す。

「息子との対戦がなければ、多分、岸を見ていないんですよ。当時、岸の噂はありました。大学のスカウトもプロのスカウトも球場にいましたが、『線が細いな』というような評価。でも、投げる姿がよかった。色白で、普通はもやしみたいと表現するんでしょうけど、エノキの小さいの、という感じ(笑)。ただ、フォームはよかったし、フィールディングも抜群によかったですね。あの試合を見ていなければ、岸を誘うことはなかったと思うので、やっぱり、出会いですね」

進学決意も土壇場で「やっぱり、野球、やらないとダメですか」

名取北高の監督だった田野さんによれば、岸には最終的に10数校の大学から誘いがあったという。父・孝一さんは将来を見据え、野球に没頭するタイプの大学より、学業もしっかりできる大学を希望。田野さんは勧誘のあった全ての大学の条件などを説明し、最後は家族で進学先を話しあった。数日後、父・孝一さんから田野さんのもとに「学院大にします」と電話が入った。学費免除など条件のある大学もあったが、就職のことなども考え、特待のなかった東北学院大で学業と野球を両立する道を選んだ。

ところが、いよいよ卒業という時だった。旅立ちの日を翌日に控えた卒業式の予行練習の日、田野さんは岸から「先生、話があります。やっぱり、野球、やらないとダメですか」と言われた。岸は東北学院大の一次キャンプに参加し、大学の練習を体験。菅井さんは「股割りがきつかったんだと思う」と振り返る。

「泣いたんだもん、みんな。ピッチャー陣がやる股割りがきつかったの。岸と同じく高校生でキャンプに参加していた選手は『辞めます』ってなったしね。(その選手は)結局は来て、野手になったんだけど。股割りをした高校生はみんなボロボロ泣いていて、大丈夫か、こいつらって心配になったね」

高校とはレベルの違う野球漬けの毎日。その中にあった股関節の柔軟性を高めるためのトレーニング。いろんな要素が相まって辛かったのだろう。同級生の佐藤さんはキャンプを終えた岸を東北学院大まで迎えに行った時を思い出し、「そういえば、『しんどい』って散々、聞かされましたね」と想起した。

田野さんは「学院大は君を何で求めているんだ」と聞いたという。すると岸は「野球です」と答えた。「そうだよね。野球をやらない君は学院大でどうなのかな」とさらに聞くと、「いらないですよね」と岸。そんなやり取りは1時間30分、続いた。田野さんは数日後、岸の同級生から岸が東北学院大の二次キャンプに行ったことを聞かされ、「続けるんだな」と胸をなでおろした。

岸は大学1年の秋季リーグ戦でデビューすると、2年の春季リーグ戦では、リーグの盟主・東北福祉大を4安打完封した。3戦目で10安打を浴びて敗れ、勝ち点は挙げられなかったのだが、この約1か月後に大学選手権で優勝するチームに土をつけた。2学年上で、今季限りで現役を引退した星孝典とバッテリーを組んでの金星だった。菅井さんは「岸本人も言っていたが、そこから目覚めた」と話す。

だからといって、すぐに結果が付いてくるわけではない。3年時はパッとせず、「細いし、体力がない。ダメだな」という声もあった。ただ、岸本人にやる気はあった。菅井さんは「細くても強い選手になろう」と話した。そして、菅井さん自身、岸を化けさせると心に誓った。

岸は冬場のランニングに手を抜くことがなかった。投手陣との切磋琢磨もあり、力を蓄えていった。迎えた4年春。仙台の地で岸は伝説を作る。

「今日、どうだ」、「ダメです」の返答に…

春季リーグ戦第3節の東北大戦では1試合19奪三振のリーグタイ記録をマーク。第4節の仙台大戦では先発、抑え、先発と3連投した。そして、勝ち点を挙げれば優勝に大きく前進する東北福祉大との対決は第4戦までもつれる熱戦となり、岸は再び3連投する。

まず、1戦目に先発。ところが、10安打を浴びて7回で降板し、1-6で敗れた。ネット裏にはプロ野球12球団に加え、メジャーのスカウトの姿もあった。2戦目は6回途中から2番手で登板し、8-7で辛くも逃げ切った。そして3戦目。岸は先発マウンドに立った。7回には自己最速を更新する150キロをマーク。東北大戦に続き、毎回の19三振を奪った。試合は規定の3時間を超えて決着がつかず、延長11回、1-1で引き分けた。仙台六大学のリーグ史上20年ぶりとなる第4戦に突入した。

4戦目の朝。試合前の練習で菅井さんは岸を呼んだ。「今日、どうだ」と聞くと、「ダメです」と返答された。岸は3連投で322球を投じていた。菅井さんは東北福祉大にプレッシャーをかけるためにも、岸には試合中、ブルペンでピッチングをするなど、マウンドに行く雰囲気を出してもらいたいと考えていた。が、疲労困憊のエースには難しそうだった。将来だってある。せめてキャッチボールだけでも――。練習の間、菅井さんはどうすれば岸にボールを投げさせられるかを考えた。そして、岸以外の4年生部員を集めた。

「今日、岸は投げらない。しかし、相手にプレッシャーをかけるためにも岸には9回になったらブルペンに入ってもらいたい。お前たちが頼んでくれ。4年生全員がお願いしてくれ」

練習後、4年生部員は「9回になったらキャッチボールをしてほしい」と頭を下げた。岸はうなずいた。その様子を見た菅井さんは「これで勝ったかもしれないと思った」という。

試合は東北学院大が流れをつかみ、4回まで3-0とリードしていた。しかし、相手はリーグ34連覇中の王者である。5回に1点差に迫られると、8回に2点を加えられ、逆転された。東北学院大は3-4で最終回を迎えたが、土壇場で同点に追いついた。なおも2死二塁で二塁後方にフラフラっと上がった白球が、セカンドとライトの前にポトリ。二塁走者がホームに滑り込み、サヨナラ勝ち。仲間との約束を守り、9回にキャッチボールをしていた岸も歓喜の涙を流した。

今の語り草、「12ミリの丸刈り」

その次の節で岸は東北工大を1安打完封。35季ぶりの優勝を決め、大学選手権に24年ぶりの出場を果たした。全国舞台では2本塁打を浴び、勝利目前で逆転負けを喫したが、自己最速を更新する151キロを投じた。日本代表のユニホームにも袖を通し、日米大学野球選手権大会と世界大学野球選手権大会を戦った。

高校時代、全国的に無名だった岸は大学で実績を積み、ドラフトの目玉にまで成長した。05年に誕生した地元・楽天からも誘いはあったが、希望枠で西武に入団。高校野球最後の試合となった仙台二高戦で相手投手を見に来ていた西武のスカウトが「化けたら面白い」と高く評価し、球団に報告していた。西武のスカウトは岸が大学4年時に出場した国際大会も視察。アメリカやキューバでも黙々と練習する姿を確認した。メンバーはのちにプロに進む選手がズラリ。そんな中だからこそ、他とは違う岸の練習姿勢が目立った。プロでもしっかりやれる、まだまだ伸びる選手だと確信した。

名取北高時代の監督・田野さんは「岸は運がいいのか、運を引き寄せているのか」と話す。プロ1年目のオープン戦では打ち込まれ、2軍降格の危機があったが、そこで抑えた。高校の同級生・佐藤さんも話す。

「力があってもプロに行けない人は山ほどいるし、プロに入れたとしても結果を出せない人もいます。岸くんはプロに入った時、オープン戦でかなり打たれたんですよ。電話で『みんなバケモノ。ストライクを投げれば打たれるし、ボール球は振らないし。どうすればいいのかわからない』って言っていましたね。それがここで結果を残さないと2軍降格というタイミングで踏ん張った。その後は、この人、すごいところまで行っちゃったなという活躍です(笑)」

これも運を引き寄せたということなのか。丸刈りを強制されるチームではなかったことで名取北高野球部に入部した経緯がある岸。大学野球部時代、連帯責任で同級生全員が丸刈りになることになったのだが、岸は逃げ回ったという。それでも、最後は仲間の説得に応じて髪を刈った。田野さんは「仲間にも恵まれた」と話す。

「仲間が家まで行って渋々応じたと聞いています。12ミリの丸刈りにしたって。12ミリって丸刈りじゃないと思うんですけどね(笑)。でも、12ミリを許容してくれた仲間、先輩。そして、そんなわがままなやつを追いかけてくれた仲間。岸、恵まれているなと思いますね。この話を聞いた時、私はこれで辞めるんだろうなと思ったんです。でも、仲間と丸刈りにした。その後、大学2年で福祉大に勝って、評価も高くなった。頑張ってほしいなと思いましたね」

高校野球の最後に岸が綴った言葉、「何か1つでも要素が抜けていたら…」

ちなみに、岸が高校3年の夏、宮城を制したのは同学年の高校ナンバーワン左腕・高井擁する東北高ではなかった。

4強には春に続いて公立勢が進出し、「僕らが高校3年の夏、宮城では仙台西高が甲子園に行ったんです。僕はその時に初めて、甲子園って行けるんだって思いました」と佐藤さん。この年の4月3日、名取北高は仙台西高と練習試合をし、1-3で惜敗している。終盤のエラーで失点したが、競ったゲームだった。夏に初の甲子園出場を果たすことになるチームから岸は16三振を奪っていた。また、夏の宮城大会で準優勝することになる柴田高とは春の地区大会で対戦。延長12回の末、2-3で敗れたのだが、岸はやはり18奪三振と好投した。そうした結果から佐藤さんは「きっと、岸くんは僕らよりも悔しかったのではないかと思いますね」とおもんぱかった。

アマチュア時代、岸は何度も野球を辞めそうになりながらも思いとどまってきた。そして、気の合う仲間と日々を過ごし、試合で勝ったり負けたりする中で、希望枠でプロ入りするまでの選手に成長していった。「何か1つでも要素が抜けていたら、今の岸はないわけですから」と田野さん。高校1年の春に退部を考えていたことは何年も後になってから知った。

すべてはこんにちに続く道。プロでは10年で7度の2桁勝利をマーク。通算勝利を103勝に積み上げた。そして、FA権を行使し、球界を代表する右腕として故郷に帰ってくる。

岸は田んぼ状態のグラウンドで高校野球を終えた。そのグラウンドこそが、当時の宮城球場。今、楽天が本拠地としている球場だ。後にも先にもこの時だけだそうだが、田野さんはこのチームに作文を書かせている。岸は「負けた気がしない」と書いた。そんな高校野球の終わり方をした岸が時を経て、再び、宮城の野球の聖地に戻ってくる。高校野球を終えた日、名取北高のグラウンドにかかっていたあの虹は、15年後につながっていたのかもしれない。

高橋昌江●文 text by Masae Takahashi

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