約260年間で江戸城本丸御殿は5回焼失し、大火は約90件も発生、犠牲者は10万人以上...なぜ江戸の町は防災意識が低かったのか?

約260年間で江戸城本丸御殿は5回焼失し、大火は約90件も発生、犠牲者は10万人以上...なぜ江戸の町は防災意識が低かったのか?

  • 文春オンライン
  • 更新日:2023/03/19

織田信長はフィレンツェ大聖堂を知っていた?500年以上前の安土城が示す西洋建築との“奇妙な類似点”から続く

戦国時代に生まれた築城技術は、西洋の影響も受け、江戸時代初期までめざましく進歩し続けた。しかし一国一城令や鎖国により、状況は一変することになり――。

【画像】 壮大なスケールで作られた江戸城を見る

ここでは『教養としての日本の城』(平凡社新書)より一部抜粋し、徳川家康が築いた江戸城の知られざる魅力をお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)

完成までに30年以上要した壮大なスケールの江戸城

260余年にわたる太平の世をつくり上げた徳川将軍家の居城、江戸城のスケールは、ほかの城とは比較にならないほど大きい。内郭は周囲約7.85キロメートルで面積が約425ヘクタール。外郭は周囲約15.7キロメートルで、その内側の面積は約2082ヘクタール。姫路城の内郭が約23ヘクタールで、外郭の内側が約233ヘクタールだったと記すことで、その途方もない規模が伝わるだろう。浅草橋、御茶ノ水、水道橋、飯田橋、市ヶ谷、四谷、赤坂見附、虎ノ門……と、外堀沿いの地名をならべただけで、かなりの遠隔地どうしが江戸城の外堀で結ばれていることに気づくに違いない。

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この巨大な城は主に天下普請によって築かれた。徳川家康は天正18年(1590)に江戸に入府すると江戸城の整備に着手したが、当時の家康はまだ豊臣政権下の一大名にすぎなかったので、それは遠慮がちに行われた。しかし、慶長5年(1600)に関ヶ原合戦に勝利し、同8年(1603)に征夷大将軍に任ぜられると一転、江戸城を拡張して整備する工事を全国の大名に命じた。そして、大きく分けて5期にわたる工事をへて、3代将軍家光の時代である寛永14年(1637)までに、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、北の丸などで構成される内郭、および外郭までがいちおうの完成を見ている。

ところが、明暦3年(1657)正月、壮麗な江戸城はほぼ灰燼に帰してしまう。1月18日朝、本郷丸山の本妙寺から出たとされる火は、折からの強風にあおられて江戸市中を北から南へ焼き払っていった。いったん収まったかに見えたが、翌日、小石川からも出火。それが江戸城中にも燃え広がり、本丸、二の丸、三の丸が焼失。天守も本丸御殿も焼け落ちてしまった。また、その日の午後には6番町からも出火している。結局、江戸の6割以上が焼失し、江戸城のほか大名屋敷が500余り、旗本屋敷770あまり、神社仏閣350余り、町屋400町が失われた。

その後も火事は頻発。約260年間で起きた件数はなんと…

しかし、復興は速かった。そして、それまでは内郭の吹上にならんでいた徳川御三家の上屋敷を郭外に移したのをはじめ、大名屋敷や武家屋敷、寺社を移転させ、海浜のあらたな埋め立てによって武家地や町人地を確保しながら、各地に延焼を防ぐための火除地や広小路をもうけるなど、防災を意識した都市建設が進められた。

それでも、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が残るように、その後も江戸は、世界史上ほかに類例がないほど火事を繰り返した。関ヶ原合戦後から慶応3年(1867)までの260余年のあいだに、大火だけでも90件は発生したといわれる。とくに火事が多かったのは狭隘な建物が密集していた町人地で、江戸芝居三座のひとつに数えられた葺屋町の市村座にいたっては、明暦の大火以降、幕末までに33回も全焼したという。どう考えても異常な数字である。

それにくらべれば少ないとはいえ、幕府の中枢であった本丸御殿は5回も焼失を重ねている。その記録をたどりながら、江戸城の特殊性について考えたい。

将軍の居所で政庁でもあった本丸御殿は、南から北に向かって表、中奥、大奥の3つに分かれていた。表は将軍が公的な儀式や行事をとり行う場所で、役人たちの執務の場でもあった。なかでも東西約50メートルの規模を誇った大広間は、将軍の謁見などが行われるもっとも格式の高い殿舎で、白書院、黒書院がそれに次いだ。続く中奥は将軍が日常生活を送る場所で、ここで執務もなされた。そして大奥は、将軍の夫人や女中らが暮らす場で、面積は本丸御殿内でいちばん広く、中奥とは御鈴廊下だけで結ばれていた。

最初の本丸御殿は慶長11年(1606)9月に竣工し、次に本丸の拡張に合わせて元和8年(1622)11月、2代目の御殿が竣工している。南北約400メートル、東西約120~220メートルの本丸の敷地内に、130あまりもの建物が表、中奥、大奥に分かれてすきなく建つ基本プランは、この2代目ででき上がったと考えられる。続く3代目は寛永14年(1637)9月に竣工し、あまりの豪華絢爛ぶりに3代将軍家光が文句をいい、改築された。しかし、2年後の同16年8月に焼失してしまう。本丸御殿が焼失したはじめての記録である。

すぐにもとどおりの規模、形状で再建され、同17年4月に竣工した4代目は「御本丸惣絵図」(大熊喜英氏所蔵)などの平面図が残っている。ところが、この御殿を襲ったのが明暦3年の大火だった。天守をはじめ多くの建物とともに焼失後、万治2年(1659)8月に竣工した5代目は、絵図や建地割図などが「甲良家史料」として残っている。それによると、4代目にはなかった舞台が中奥に見られるなど若干の差違はあるが、プランも形状も基本的に踏襲されている。

この5代目御殿は、その後に発生した元禄16年(1703)の大地震なども乗り越えて長く命脈を保ったが、結局は、天保15年(1844)5月に本丸御殿内から出火して焼失。ただちに再建され、翌弘化2年(1854)2月に6代目が竣工するも、安政6年(1859)10月に焼けてしまい、ほぼもとどおりに再建して万延元年(1860)11月に7代目が竣工した。しかし、この御殿も建てられてわずか3年後の文久3年(1863)11月に全焼すると、すでに幕府の財政が窮乏していたため、その後、本丸御殿がふたたび建つことはなかった。

なぜこれほどまでに火事が多かったのか?

ちなみに、焼失を繰り返したのは本丸御殿だけではない。幕末までに二の丸御殿も西の丸御殿も、それぞれ4回ずつ焼け落ちている。

江戸の火事の原因は、失火はもちろんのこと、放火も少なくなかったと考えられている。いわゆる火事場泥棒をねらったものもあったようだし、大火のたびに建設ラッシュで職人の求人が増え、賃金も高騰したことが記録されており、それも放火の動機になった可能性がある。また、幕末になるほど城内の火災が増えたのは、確たる証拠はないにせよ、幕府の弱体化や討幕運動とかかわりがあるということが取り沙汰されてきた。

火事が多かった背景には、火災を起こしてはいけないという意識の低さも挙げられるだろう。日本の木造建築が火災に弱いのは周知のとおりだが、焼けやすい環境に囲まれていたからか、日本では歴史的に、火災に対して心理的なハードルが高かったとはいえない。火災が戦略的に引き起こされた例も多い。東大寺や興福寺など南都(奈良)の寺院を焼きつくした平重衡の焼き討ちや、織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちなどが思い起こされる。また、城攻めなどの際にも敵を攻めやすくするために、当たり前のように周囲の村落や城下町が焼かれた。羽柴秀吉に追い詰められた柴田勝家が、越前北ノ庄城の天守に火をかけて自害したように、敗れた側がみずからの城や住居に火をかけることも珍しくなかった。

福田千鶴氏は『城割の作法』で、戦国の城をめぐる習俗として、次のようなことを挙げている。城を乗っとった勝者が敵対者の怨念を封じるために城を「わる(壊す)」必要があったこと。敗者にとっては、自分が捨て置いた城を他者が壊すことになるのは残念だから放火すること。そして、末代までも恥辱にならないために城に火をかけて自害すること。江戸城の火災と直接結びつく話ではないが、燃えやすい建物に囲まれていた日本人にとって、火災や放火は作法や習俗に取り入れられるほど身近であり、時にはポジティブに起こすべき事柄であったことがわかる。

一方、ヨーロッパでは、あたらしい領主が旧領主の居城や宮殿をそのまま使い、必要に応じて改築を重ねるのがふつうで、習俗としての放火など存在しなかった。ヨーロッパでは宗教建築にせよ、世俗建築にせよ、できるだけ長く使いつづけるべきものだったが、こと世俗建築に関し、日本にはその発想が希薄だった。建物が火につつまれることへの抵抗感もまた、ヨーロッパにくらべれば希薄だったように感じられる。

もう一つあった火災への抵抗感が少ない理由

火災への抵抗感が弱かったのは、再建のしやすさとも関係するのではないだろうか。彦根城の章で触れたが、日本の伝統工法による木造住宅は、木材に凹凸を加工し、釘を使わず組み合わせて建てられてきた。このためルイス・フロイスも、木材さえ加工し終えていればあっという間に建物が建ってしまうと驚愕している。レンガや石を積み重ねるヨーロッパの建築にくらべ工期がはるかに短く、比較的簡単に再建できる以上、防災意識がおのずと低くなっても不思議ではない。

事実、130を超える建物からなり、床面積が1万坪を超える巨大な建築だった江戸城の本丸御殿が、焼失後にわずかの期間で再建された事実には驚かされる。3代目の御殿が火災に遭うと、8カ月後には4代目が竣工し、5代目が焼けると、6代目はその9カ月後に完成している。

さらに驚かされるのが、焼失するたびにほぼ同じプランによる同じ規模、同じ形状で再建されてきたことである。そのことからは別の問題も見てとれる。幕末の万延期(1860年代)に建てられた最後の本丸御殿が、200年以上もさかのぼる寛永期(1630年代)のものと、プランも形状もほとんど一緒なのである。これだけの時をへていながら様式も、規模も、耐火性能も、ほとんど変えずに建てられたという類例は、世界にもあまりないのではないだろうか。

世界三大大火の「明暦の大火」と「ロンドン大火」を比較すると……

ここで明暦の大火を、その9年後の1666年に起き、ともに「世界三大大火」のひとつに挙げられることがあるロンドン大火と比較してみたい。パン屋のかまどから出火したという火は、風にあおられ4日にわたって延焼し、市壁内の8割以上が焦土と化し、1万3000戸が焼失したというロンドンの大火。当時のロンドンの家屋はほとんどが木造二階建てで、道路も狭かったため、燃え広がる条件がそろっていたのである。

しかし、明暦の大火が一説によれば10万人以上の犠牲者を出したのに対し、ロンドン大火による死者は数名にすぎなかったという。また、火災の翌年には再建法が制定され、木造建築は禁止され、家屋はレンガ造か石造でなければ認められないことになった。

このとき建築総監に任命された建築家クリストファー・レンは、バロック様式による大がかりな都市再建計画を提案。現実には大規模な都市改変は実現しなかったが、拡幅された道路に沿ってレンガ建築がならぶ近代都市へと、ロンドンは生まれ変わった。また、焼失したセント・ポール大聖堂が以前のゴシック様式をあらため、35年をかけて壮麗なバロックのスタイルで再生したように、新築された建てものにはあたらしい様式が採用された。

何度焼けても愚直に同じものを建てつづけるという姿勢は、世界史的な視点から眺めるとあきらかに異常である。諸大名が居城を修復する際も、武家諸法度によって原則、旧状の回復しか認められなかったとはいえ、江戸城は天下人の城である。それでも御殿にかぎらず櫓も、城門も、再建に際して様式が変更されることはなかった。

寛永から万延までの220年ほどは、鎖国という特殊な体制が続いた期間と重なる。世界と接触することを、政権を維持するうえでのリスクととらえて国を閉じた結果、幕藩体制下での平和は続いたが、ある点で人間の営み、とりわけ為政者の営みが、きわめてルーティーンに堕したとはいえないだろうか。時代の様相が更新されなくなり、ある時点において先端的だったスタイルが塩漬けになって継承されていった様子が、江戸城本丸御殿に見てとれる。

(香原 斗志/Webオリジナル(外部転載))

香原 斗志

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