韓国は「反日」で燃え盛っているが、世界は親日国で溢れている理由

韓国は「反日」で燃え盛っているが、世界は親日国で溢れている理由

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2019/08/14
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8月2日、日本政府は安全保障上の観点から、韓国を貿易管理上の優遇措置が受けられる「ホワイト国」のリストから除外することを閣議決定した。韓国はこれに猛反発し、かつてなく「反日」が燃えさかっている。だが世界を見渡せば、反日国家は中国と朝鮮半島くらいで、ほとんどの国が「親日」だ。たとえば、ミャンマーはアジア随一の親日国である。このたび、『親日を巡る旅 世界で見つけた「日本よ、ありがとう」』を上梓したジャーナリストの井上和彦氏が、ミャンマーの親日の背景を解説する。

日本兵の墓を守り続ける僧侶たち

「オーイ、水島! いっしょに日本へ帰ろう!」

終戦を迎えて復員を待つ日本兵たちが、山野に散らばる戦友たちを弔うために僧侶となって現地残留を決心した水島上等兵に呼び掛ける、映画『ビルマの竪琴』のクライマックスシーンは感動的だった。

この映画の中で日本兵たちが水島上等兵の奏でる竪琴に合わせて歌う『埴生(はにゅう)の宿』のメロディーはいまも私の胸に響き続け、この曲を聞くたびにミャンマー(ビルマ)のことが頭に浮かぶ。

大東亜戦争で、終戦までに投入された日本軍約30万人のうち、およそ18万人が戦死したビルマ戦線。この戦いの過酷さは筆紙に尽くせぬものがあった。

なるほど、大東亜戦争末期の兵士たちの戦記を読めばその苦労がよくわかる。

まずもって日本軍と連合軍とでは、物量が雲泥の差であった。連合軍は、陸路を大型トラックで、また空からは輸送機を使って十分な武器弾薬・食料を補給できたが、日本軍にはおよそ補給は期待できなかった。

だが日本軍将兵はこの不利な状況にありながらも至純の愛国心をもって勇猛果敢に戦い続けたのである。こうして斃(たお)れた兵士たちの亡骸は各地に放置されたままとなったため、いまも日本政府や民間諸団体による遺骨収容が行われている。

そんなミャンマー各地には日本軍将兵の慰霊碑が建立されているのだ。

「毎晩お経を唱えています」

かつての首都ヤンゴン(旧ラングーン)にも大きな日本人墓地があり、墓苑内には数多くの慰霊碑が建つ。「戦友と共にここに眠る」と刻まれた慰霊碑、そして「父よ ありがとう 安らかに」と刻まれた、息子からこの地で亡くなった父親への慰霊碑の言葉が胸を打つ。

実は、先に紹介した『ビルマの竪琴』の主人公・水島上等兵のモデルとなったといわれる中村一雄曹長の慰霊碑(復員され92歳で逝去)もあり、この日本人墓地は、もっとも知られた慰霊参拝の場所となっている。

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映画『ビルマの竪琴』の主人公・水島上等兵のモデルとなったといわれる中村一雄曹長の慰霊碑

かつての激戦地でメイクテラーと呼ばれたミャンマー中部のメイッティーラにも日本兵の墓があった。この墓は、寺院の尼僧が生活する区画内にあり、いまも彼女たちが守り続けてくれている。墓石の両端に建つ慰霊碑には、「狼兵団 第168連隊通信隊」と、もう一つには「独立自動車第102大隊」の文字が刻まれていた。

ピンク色の僧衣を着た尼僧は「ここには(日本兵の)お墓もあり毎晩お経を唱えています」と話してくれた。これを聞いた私は、彼女らに心からの感謝の意を伝えた。

無情にも祖国で忘れられた日本軍兵士たちが異国のミャンマーで慰霊されていることに複雑な思いがこみ上げると共に、こうして毎日手を合わせてくれている尼僧らの祈りが、ただただありがたかった。

さらにこの近くには、歩兵第16連隊長の揮毫(きごう)による大きな鎮魂碑と、先の独立自動車第102大隊戦没者のための仏塔が建立されており、こちらは男性の僧侶たちが鎮魂してくれていた。

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仏塔の前に立つ僧侶と筆者

大人から年端もゆかぬ小さな少年僧侶を目の当りにしたとき、熱い感動で胸がいっぱいになった。

まったくもってミャンマーの人々に頭が下がる思いである。

日本軍が作った「ビルマ独立義勇軍」

日本軍のビルマ攻略戦の最大の目的は、米英軍による蔣介石率いる中国国民党軍への支援ルート「援蔣ルート」の遮断にあった。連合軍は、蔣介石を支援すべく武器弾薬などをビルマから送り届けていたのだ。

開戦翌月の1942年(昭和17年)1月20日、日本軍は2個師団をもって南部ビルマへ侵攻を開始。タイ-ビルマ国境を突破して首都ラングーン(現ヤンゴン)を目指した。そしてついにイギリス軍はラングーンを放棄。日本軍は3月8日にラングーンを無血占領することに成功したのである。

タイとビルマを結ぶかの「泰緬(たいめん)鉄道」が建設されたのも、ビルマへの物資輸送の必要からだった。

こうして日本軍は、最終的に5個師団約8万5000人の大兵力をもってビルマ南部から押し上げる形でイギリス軍を圧迫してゆき、5月8日に要衝ミートキーナを占領してビルマと中国雲南省を結ぶルートの遮断に成功した。そして日本軍は破竹の勢いで進撃を続け6月までにビルマ全土を制圧したのである。

そこで忘れてはならないのが、「南機関」と「ビルマ独立義勇軍」の存在だ。

援蔣ルートの遮断とビルマ独立を工作する日本軍「南機関」の機関長・鈴木敬司大佐とビルマ人独立運動家アウン・サン(かつては“オンサン”と呼ばれていた)の出会いがすべてのはじまりだった。

ちなみにアウン・サンは、現在のミャンマーの国家顧問で民主化運動指導者として知られるアウン・サン・スー・チー女史の実父である。

大東亜戦争が勃発する前、アウン・サンは、日本軍の支援を受けて30人の同志と共に海南島へ逃れ、そこで彼らは鈴木大佐の南機関による厳しい軍事訓練を受けていた。

そして開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日、アウン・サンらは、タイのバンコクで「ビルマ独立義勇軍」を設立。司令官に鈴木大佐が就き、彼はビルマ伝説の救世主“ボ・モージョ”を名乗った。そして参謀にアウン・サンが就いた。

1943年(昭和18年)8月1日、日本軍の支援を受けてバー・モウを首相とする「ビルマ国」がイギリスから独立。ビルマ独立義勇軍は、ビルマ防衛軍を経て「ビルマ国民軍」へと改編され、同時にアウン・サンは国防相兼ビルマ国民軍司令官となった。

幸せな日々

戦後、バー・モウは、自著『ビルマの夜明け』で、長きにわたったイギリスの植民地支配から独立できた当時のビルマの様子をこう回顧している。

《それは言葉では言い現せないほど幸せな日々だった。人々は喜びに胸をふくらませて、いたる所で歌った。国民こぞってこれを祝うために、各地域社会を代表する委員会が設けられた。くる日もくる日も群集がパゴダを訪れて灯明をあげ、花を捧げた。僧たちは町中で振舞を受け、催物は果てしなく続いた。人々は集い、日本語で万歳を叫んで、日本に対する深い感謝を現す決議をした。同時に、喜びと感謝の気持ちを綴ったメッセージが東条首相と日本政府に送られた》(ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』展転社)

ビルマ国民軍は、日本軍と共に進撃し、各地でイギリス軍と戦闘を繰り広げたのだった。

ところがインパール作戦で日本軍が敗退し、日本の敗色が濃厚となるや、突如アウン・サンは連合軍側に寝返って日本軍に銃口を向けたのである。

戦後、このことをもってアウン・サンが反日闘士のようにいわれることがある。だがそれは違う。誤解を恐れずにいえば、アウン・サンは国家の生存のために、日本を裏切る苦渋の選択をせざるを得なかったとみるべきであろう。

アウン・サンは、日本と共に敗戦国となって再びイギリスの植民地となるより、ここは、戦勝するであろうイギリスの側に立って戦い、戦後のイギリスとの交渉を有利にしようと考えたのだ。つまり彼は日本軍を恨んで敵対したのではなかったのである。

そのことは戦後、BC級戦犯に問われてビルマに連行された鈴木敬司少将(最終階級)をアウン・サンが助け、後の1981年(昭和56年)には、鈴木少将ら7人の元日本軍人に国家最高勲章が授与されていることがなによりの証左であろう。

1948年(昭和23年)1月4日、ビルマは、アウン・サンの思惑通り、連合軍に協力したことが評価されて再び独立を勝ち取った。だがその半年前にアウン・サンは暗殺されており、その喜びを分かち合うことはできなかったのである。

アウン・サン将軍の胸に輝く旭日旗

いずれにせよ日本軍が、イギリス植民地からの独立を希求するビルマ人を助け、ビルマ人の軍隊をつくって彼らと共にイギリス軍と戦ったことはいまも高く評価されている。

首都ネピドーにあるミャンマー国軍の軍事博物館には、当時の貴重な写真や兵器などが展示されており、こうした封印された近現代史の真実を知ることができる。

面白いことに当時のビルマ国民軍の軍服は日本陸軍のそれとそっくりであり、このことからも日緬両国の関係性が読み取れる。

とりわけ私は展示されている写真に注目した。訓練に励む生き生きとしたビルマ国民軍の兵士たち、イギリスからの独立を喜ぶ彼らの笑顔、これまで目にしたことがなかった写真がずらりと展示されていたのである。

これらの貴重な写真が史実をなにより雄弁に物語っていた。そう思いながら展示に見入っていると、だんだんと戦後日本の噓にまみれた偏向報道と自虐史観に怒りがこみ上げてきたのである。

そして展示の中には驚くべきものがあった。それは日本軍人と見まごうばかりのビルマ国民軍の軍服を着たアウン・サン将軍の肖像画だった。この肖像画のアウン・サン将軍の胸元には、1943年(昭和18年)に天皇陛下から授与された旭日章が描かれおり、加えてそのコーナーには勲三等の勲章と日本刀が恭(うやうや)しく展示されていた。

感動が湧き上がってきた。これまで私は、このようないでたちのアウン・サン将軍の写真や肖像画を見たことがなかったからである。

さらにミャンマーにはアウン・サン将軍の日本軍将官そっくりの銅像もあった。

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アウン・サン将軍の銅像

場所はメイクテラー近郊だったと記憶しているが、日本陸軍ばりの軍服を着用し日本刀を地面について立つ丸刈り頭のアウン・サン将軍像を目の当りにした私は思わず頭を垂れて敬礼した次第である。

いまも続く感謝のつながり

さて先の軍事博物館には、日本に亡命したときの着物姿のアウン・サン将軍の写真もあった。

実はアウン・サン将軍は1940年(昭和15年)に日本に亡命し、鈴木敬司少将とビルマの独立について鈴木少将の郷里である静岡県浜松で策を練っていたのだ。

こうしたことから、浜松の大草山の山頂に「ビルマゆかりの碑」という顕彰碑が建立され、2014年(平成26年)にミャンマーの国軍司令官が来日した際、日本の自衛隊と共にここで慰霊式典が行われた。以来、自衛隊とミャンマー軍の将官交流プログラムで来日するミャンマー軍の将官はこの地を訪れ献花しているという。

かつて鈴木敬司少将をはじめ日本軍がミャンマーの独立に貢献したことが、いまでもミャンマーの人々に感謝されているのだ。

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