実は“大学”を卒業していなかった日本の首相たち?

実は“大学”を卒業していなかった日本の首相たち?

  • JBpress
  • 更新日:2017/09/15
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スウェーデン・ストックホルムのスウェーデン王立科学アカデミーで、会場のスクリーンに映し出された2016年のノーベル経済学賞受賞者の写真(2016年10月10日撮影)。(c)AFP/JONATHAN NACKSTRAND〔AFPBB News

最近、大学の授業料を巡る議論をメディアで目にする機会が増えました。とりわけ「無償化」に関係する議論で、様々な意見が対立しているようです。

曰くA「何が何でも無償化がよい」

あるいはB「入学時に貸しつけて卒業できたら棒引きにすればよい」

あるいはこれと逆にC「卒業後、社会に出てから返していけばよい」

上のAは、財源をどうするのかが見えてきません。あまり現実感がない。

Bは、卒業できなかったとき結構な借金を背負うことになりますが、病気で学業が続かなくなった人が借金の追撃を受けるのかとか、現実的なケースを考えると机上のアイデアであることが直ぐ分かるタイプ。

Cは、いわゆる「教育ローン」というやつで、国を滅ぼす最低最悪の選択の1つと思います。ろくなものではない。

では、どうすればいいのか?

この問題を考えるようになって余裕で33~34年は経過しており、その間に私自身の立場も 学部学生 → 大学院生 →(フリーランスのミュージシャン)→ 大学教員と変化しましたが、ことこの問題に関しては、一貫して1つの答えがクリアに存在しています。

キーワードは公共財で、優れた人材、もっと言えば次世代納税者というべき国民の質を高めていくことは、国の大本の基本であって、その教育は一律安価―無償に近いものであるべきと思っています。

それと同時に、およそ公共財などとは呼びようがないような“大学"まで、無償化の対象にする必要は全くないと思います。

「大学」の名を持つに値する、実質を持つ大学/学生を限定し、それについては無償化を進めるとともに、その「数」をコントロールするのではなく「質」を徹底してキープすべき、というのが、私の一貫した考え方にほかなりません。

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増税の言い訳としての「無償化」

「教育の無償化」を憲法に絡めて語る人がいるようですが、こと大学については、質をキープできるところまで数を絞って、誰でも無償などという国庫の破綻が目に見えるような愚策を取るべきではないと思います。

世界の教育大国、特に大学無償化が進んでいる国は、税金で原資を確保しなければなりませんから、とりわけ消費税が極めて高率です。

フィンランドやギリシャは23%、デンマークやスウェーデン、ノルウェーは25%、世界の「教育無償化先進国」をリスト化すると、ほとんどそのまま高消費税率国ベストテンのごとき様相を呈することになる。

ここから、本来は質の高い教育を低廉に全国民に分け隔てなく提供するために導入された間接税だったのに、今度は「消費税率アップ」のための言い訳として教育の無償化が謳われかねないという、逆転現象が起きている。

少子高齢化で、大学の「教育サービス産業化」傾向に拍車がかかっていますが、例えば「リメディアル教育」を施しているような学校を、私は公共財としての人材を輩出する大学として認めるべきではない:国庫に負担をかけるべきではないと考えています。

リメディアル教育とは何か。ウィキペディア「リメディアル」の項目を見ると、「習の遅れた生徒に対して行う補修教育、治療教育のことで、特に大学教育を受けるにあたって不足している基礎学力を補うために行われる教育を指す」とあります。

「治療教育」。これは痛い。大学生として扱うにはビョーキであるという、なかなか厳しい定義がなされている。

実はそういう顧客まで合格させて経営している大学そのもののマネジメントが病気だと思いますが、そういう話はどうやらしないお約束になっているようです。

リメディアル教育を分かりやすく言うなら、小学校で教えるはずの数の計算、小数や分数の計算、基礎的な漢字の書き取り能力、あるいは中学初年級の英語など、いやしくも大学に進学するというのであれば、前提となるべき高等学校までの履修内容を適切に身につけられていないのに、形だけ大学に進学してしまった学生を対象として、就職までの間に基礎学力を補って、少しでも社会人として使い物になるようブラッシュアップするという教育、カリキュラムのことです。

これ、大学でやることではないですよね?

こういう教育を「無償化」するべきかと問われれば、率直に言って社会の次世代を牽引する「選良」教育にはおよそなっていないので公共財としての人材を育成しているとは言いがたい。

選挙対策や、国の大切な法律のおかしな改変などで、民心を買うような感覚で高等教育の無償化に言及するのは、亡国の挙であると言わねばなりません。

では「リメディアル科目」を設置しているような大学はしっかり授業料を払え、という話になるかと問われれば、たぶん正解はそうではない。少し違う話になると思うのです。

ポイントは「この大学はイイ」「こっちは良くない、ダメ」といった価値判断、つまり大学をブランドとして差別化するのではない、少し違う戦略を取るところにあるように思うのです。

「バカロレア」と「特待生」の発想

いまから私が記す「案」は、到底現在の、利権にまみれた日本の教育現状には合致しないものとして、私の生きている間は絶対に実現しないでしょう。

そんなものを書いて意味があるかと問われれば、「未来の日本のために私はこれを書く」というのが答えになります。

2050年、あるいは2100年の日本では、「こんな当たり前のことが2010年代には異端視されていたのか」と驚かれる可能性が高いのではないでしょうか?

ただし、以下の私の「案」は異端ではなく、およそ大学の名を称するものであれば、本来は第一に尊重すべき「王道」、中世西欧の大学の起源から真っ直ぐにつながる「この一筋」保守本流のオーソドックスにほかなりません。

本稿が公開される15日、私は世界最古の大学であるイタリアのボローニャ大学で、私自身の仕事である新しい「ハルモニア」古代中世以来の調和観に、ほんの少しだけ相関という場の量を導入して、ミニマムの数理や物理、生理を併用するだけでこんなに音楽の世界が広がる、という招待講演に登壇しているはずで、学としてオーソドックスは私のライフワークの1つの指針として一貫するように努力しています。

西欧における大学というのは、基礎のある人が後進を育てる合議と合意のために作った、一種の協同組合として、キリスト教会の修道院で発生したという起源があります。

基本、そこで判定されるのは「資格」です。

この人は本当に社会(創設当時はカトリック教会が力を持つ中世社会ですが)のためになる人だと認めた場合 博士の学位や教授の職位を与えて生活の利便を図る、すなわち免税特権を主張したり給与が与えられたりする、そういう水準キープ の良心と良識の府として生まれました。

この伝統は、現在でも、西欧キリスト教圏に、形は変わりましたが一部そのまま受け継がれています。

すなわち大学の入学や卒業に関わる「資格試験」です。大革命を経て教会が弱体化したフランスには、カトリック教会ではなくフランス政府、国家が水準をキープする「バカロレア」という中等教育修了試験が存在します。

つまり高校までの内容の達成度を評価する国家試験で、これに合格すれば原則、フランスではどこの大学にも入学することができます。

これと同様の「大学授業料免除国家試験」をコンスタントに実施して、その合格者に関しては、どの大学のどの学部に所属していても、原則授業料を国庫が負担して大学に払い込み、学生は負担しなくてもよい。

分かりやすく言えば「特待生国家試験」で、国の財政で支えられるだけの重みをつけて合格者を決定していけばよい。

実は同様の試験を日本では「高等学校卒業程度認定試験」と「大学入学共通テスト」と2つも実施しており、適切な工夫があればこれらを転じて実施が十分可能なものと思います。

でも決して実施されないでしょう、既得権益に結びついた層が利権を守ろうとする限りは・・・。

私はもう1つ、日本の高等教育を決定的に建て直す方策があると思っています。それは「大学卒業資格認定試験」相当の国家試験です。

現状のように入学さえしてしまえば後は親が金を払っている限り卒業は自動的という腐り切った日本の似非大学制度を木っ端微塵にする頓服薬と思います。しかし、これも当分実施されないでしょう。

医学部や法曹がどうにかクオリティを保っているのは「出口試験」つまり医師の国家試験や司法試験という、国のクオリフィケーション・テストがあるからで、これがない専門、例えば日本で4年制大学の法学部や経済学部を出たと言っても、その道のプロはほとんどおらず、社会の方もわきまえていて、何ら専門性を見出しません。

文学部はもっと極端で、仏文科を出たという、フランス語が読めず書けず、特に話せず聞けない人はごく当たり前にいる。独文でも社会学でも史学でも、大して変わりはありません。

要するに大学の堕落でしかない。どこかで人類の理想や社会ルールのはき違えがまかり通り、こんなことになってしまった。

世の中はゲンキンにできている面があります。

大学に月謝を払って通学した人も、大学卒業資格認定の国家試験で「学費免除」の優等な成績を収めたら、すでに払った学費の一部ないし全部が帰ってくる、などの制度ができたら、それなりに一生懸命学業に励む人が増えることも期待できるでしょう。

お金が先に立つのは、大学の本分に照らして王道とは言えません。しかし「先立つもの」がなければ、できる学業だってできなくなってしまいます。私が身近に接する優秀な若者の中には、若くして経済的な困難に直面し、それを働きながら克服しつつ学位取得まで頑張った、本当に素晴らしい人材がいます。

こういう人こそ、社会の次代を担う公共財としての人材で、皆で支えていく必要があります。

形だけ大学に入ったことになっているけれど、現実には少数の計算もおぼつかない人も、基本的人権はすべからく持っている。人としての尊厳は重視されるべきです。しかし学力という観点からは、税金を傾けて授業料全免にする意味は全くありません。

陣笠諸君はとかく票読みにお忙しく、「全免」で選挙対策したいのかもしれませんが、最近20~30年の総理大臣で言えば、宮澤喜一氏程度の秀才でなければ、本来高等教育に関してある種の発言をするに足る学業自体の経験がないのではないかと思います。

「大勲位」中曽根康弘政権で導入された「教育の受益者負担原則」という亡国の愚策は、30年を経て日本の人材の根っこを完全に腐らせるところまで導いたように思います。

民主的と衆愚的の区別がついていないケースがあまりに多い。

「徒競走」で順位をつけるのは差別的でよくない。皆で手をつないで一緒にゴールして仲良し仲良し・・・なんて風潮があるようですが、鳥肌が立つくらい私はこういう考え方が苦手です。

少なくともこの環境からは、スプリンターは生まれないし、オリンピックのメダルも関係のない世界です。

東大・京大を筆頭に、日本の大学も皆で手をつないで一緒にが大好きですが、その環境からはスプリンターを生まないと言うより、出る杭は徹底して嫌悪し、叩いて叩いて潰さないと気が済まないという、気持ち悪い風土が存在し、ノーベル賞を筆頭にメダルにも関係の薄い荒涼たる世界が広がっている。

真の民主主義は、少数者、少数意見を大切にします。マイノリティを大切にするというのは、広告代理店がカネまみれのLGBT美談をメディアで垂れ流すことではありません。

世代の中で極端に優れた人に対しても、偏見や排除、誹謗や中傷などすることなく、差異を差異として認め、きちんと伸びる環境を提供し、先々共同体の力となるように育てていくことも本来大変重要な要素でした。

大学は学生の学習達成度に責任を持つべきだし、学生はきちんとカリキュラムを修め、ディシプリンの一定を身につけて初めて学んだと言える。

主として親に負担してもらうお金で学籍だけ買って、社会勉強と称してアルバイトやサークル活動にのみ勤しみ、リメディアルの水準にさえ達しない子供に「高等学校卒業」やら「大学合格」やらを、学術の観点からは「安売り」、営利の観点からは「高い値で売りつける」教育商法そのものが、根本的に国辱的なのです。

バカロレアなど国家として品格・品位ある学業達成水準の矜持がある相手の前では、一日本人(大学教員)として、ただただ恥ずかしく、小さくならざるを得ません。

いまここに書いた内容の大半は、10年ほど前に新書「バカと東大は使いよう」に記したのと同じ根っこですが、この本もぜんぜん売れなかったし、今回のコラムもビューが立たないかもしれません。

それでも、あえていまのタイミングでこの本質を強調せずにはいられないほど、本質と無関係なローカル利害の近視眼的論評ばかり目にしますので、あえて「硬派の正論」を記している次第です。

水準がキープできない「大学」は、基本すべて、適切に改組、解体した方が、本当の意味で日本の将来のためになる。きつい表現かもしれませんが、これが本質でしょう。

学問で、悪貨が良貨を駆逐するのは、いとも簡単なことですから。

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