【衝撃の戦争秘話】日本のスパイとなった英国人貴族将校がいた!

【衝撃の戦争秘話】日本のスパイとなった英国人貴族将校がいた!

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2020/10/18
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第二次世界大戦が終結して半世紀以上が経った1998年から2002年にかけ、イギリス国立公文書館が公開した文書のなかから、日本にまつわる驚くべき事実が明らかになった。
航空機がまだ発展途上だった大正10(1921)年、技術指導のため日本海軍が招聘したイギリス人将校、マスター・ウィリアム・フォーブス・センピル(William Fobes-Sempill)が、その後、日本のスパイとなって、イギリス軍の機密情報を日本側に流し続けていたというのだ。2012年、このことをテーマにしたイギリスのテレビ番組『チャーチルを裏切った男たち』(原題Fall of Singapore:The Great Betrayal。Brave New Media)が制作され、その日本語版(NHK BS世界のドキュメンタリーで同年12月18日放送)を筆者が監修した。
折しも、映画『スパイの妻』が話題になっているいま、センピルがいかにして祖国を裏切り、歴史に影響を与えたか、日本側の資料とともに振り返る。

航空技術伝授のために来日した28歳の軍人貴族

1903年、ライト兄弟が、世界で初めて有人動力飛行に成功した飛行機は、第一次世界大戦(1914-1918)で戦争に使われたこともあって、わずか10数年で急速な進歩を遂げた。

日本でも、その可能性についてはかなり早い時期から注目され、明治43(1910)年12月、代々木練兵場で、日野熊蔵陸軍大尉がドイツから購入したグラーデ単葉機で、徳川好敏陸軍大尉がフランスから購入したアンリ・ファルマン機で、日本初の飛行に成功している。同年5月、海軍も金子養三大尉をフランスに派遣、明治45(1912)年には河野三吉大尉らをアメリカに派遣し航空技術を学ばせ、大正元(1912年7月30日より元号が大正になる)年11月、河野がカーチス機、金子がファルマン水上機で、それぞれ飛行に成功した。

大正3(1914)年、第一次大戦の勃発とともに、連合国の一員としてドイツに宣戦し参加した青島攻略戦で、水上機母艦「若宮」からファルマン水上機が出撃したのが、日本海軍航空部隊の初陣である。

大正7(1918年)、第一次大戦が終結すると、戦勝国となった日本は、翌大正8(1919)年、陸軍がフランスからフォール大佐の率いる教導団を招いて、埼玉県所沢、岐阜県各務原で、大戦で得られた戦訓をもとに航空戦術の指導を受ける。

海軍もこれに便乗して講習を受けたが、対地作戦を主とする陸軍と、洋上作戦を考える海軍とでは求めるものが違う。そこで海軍は、軍令部航空部部員であった大関鷹麿中佐が中心となって、イギリスから飛行教育団を招聘し、長期間にわたって組織的、系統的な指導を受けることとした。

イギリスを選んだのは、大戦中、操縦訓練での死亡率が他国に比べて低いという結果が出ていて、その訓練法を学びたかったからでもある。

大関中佐は英国駐在武官を勤めた経験があり、イギリス海軍にも知友が多く、あらかじめ候補者をマークしていた。イギリス側としても、1902年以来の同盟国で、第一次大戦をともに戦った日本に航空技術を教えることは、東洋の安定につながるばかりか、それだけ多くの兵器を購入させることができる。

2012年に制作されたイギリスのテレビ番組「チャーチルを裏切った男たち」によると、イギリスでは、

〈日本人は騎兵としては二流だと思われていた。その日本人に飛行技術を教えたところで一流のパイロットにはなり得ず、英国の脅威にはならない〉

と考えられていたのだという。このいわれなき人種的優越感が、のちにイギリスの首を絞めることになろうとは、誰も予想だにしていなかった。

ともあれ、大関中佐が主導し、日本海軍が招聘したのが、スコットランド貴族(男爵)の跡継ぎで、第一次大戦でも活躍したウィリアム・フォーブス・センピル(1893-1965)である。

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ウィリアム・フォーブス・センピル英空軍大佐

センピルは、名門イートン校を卒業、1914年、第一次大戦が始まると英陸軍航空隊に入隊、飛行任務につき、のち海軍、空軍と転籍。28歳の若さで空軍大佐に昇進し、1919年に軍を退役していた。当時は爵位継承者を示すマスター・オブ・センピルと呼ばれており、父のジョン・フォーブス・センピルは国王ジョージ五世の侍従武官を務めていたという。

講習員の一員としてセンピルの教えを受けた菊池朝三中尉(のち少将、第一航空艦隊参謀長、戦後土浦市議)の回想によると、センピルは、大英帝国の統治下にあったインドの航空総督の内示を断っての来日だった。

破格の待遇で迎えられた英国人教育団

こんにち、「センピル飛行団」とも「センピル教育団」とも呼ばれる一行は、センピル自らが指名した英軍士官18名、准士官(兵曹長)12名の計30名。それぞれ、操縦、技術、兵器、整備、偵察、写真、落下傘、航空医学などのエキスパートだった。

防衛省防衛研究所には、センピル一行招聘について、一人一人の団員との契約書から、宿舎の手配、歓迎会、観桜会への招待状、交通費の日本側負担についての関係機関とのやりとりなど、詳細な書類が残されている。

それによると、センピルに支払われる報酬は、前金で1500ポンド(英国立公文書館㏋によると、現在の43,586.55ポンド-約600万円-に相当するが、当時はこれで馬54頭が買えたというから、単純にレートだけでは比較できまい)、来日後の年俸は、日本の現役海軍大将の約2倍にあたる1万2413円76銭で、これが2068円96銭ずつ6ヵ月に分けて支払われることになっていた。

副長のMeares中佐は、前金500ポンドに年俸はセンピルと同額、大尉クラスでも前金237.10ポンドに年俸2482円(日本海軍の大尉の約2倍)となっている。

日本との往復に士官は一等船室(運賃定価片道1100円)、准士官は二等船室(同735円)があてがわれ、日本国内での移動や宿泊も、階級に応じた額を日本海軍が負担した。加えて、船賃は自己負担になるものの、妻帯者は妻子を同伴することを認められ、不慮の事故で死亡または負傷した場合の支給金についても、こと細かに定められている。当時としては破格の待遇と言えるだろう。

センピルは大正10年6月11日、妻アイリーンと幼い娘、そしてメイドを同伴して日本郵船「佐渡丸」でロンドンを発ち、7月31日に神戸着。8月1日朝、列車で東京に到着し、上野から常磐線列車に乗って、同日午後には、海軍が造成したばかりの霞ケ浦飛行場に着任した。ほかの団員たちも、7月から順次、来日している。団員たちは特別に用意された外国人宿舎に居を構え、センピルは土浦郊外の一軒家に住むことになった。

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1921年7月31日、神戸港に到着したセンピル夫妻(前列)

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センピルは土浦郊外に一軒家を構えて暮らした。和装のセンピルと妻・アイリーン。アイリーンは1935年歿

ここに、翌大正11(1922)年10月まで、1年3ヵ月にわたる「センピル飛行団」による講習が始まった。

講習用に、日本海軍がイギリスから購入した飛行機は、アブロ陸上練習機72機、アブロ水上練習機24機、スパロホーク艦上戦闘機50機、ほか、艦上偵察機12機、艦上雷撃機12機、飛行艇5機、水陸両用観測機4機、雷撃機2機の計181機におよぶ。

菊池朝三中尉の回想によると、講習ははじめ横須賀で、日本ですでに一人前のパイロットとなっていた者の再教育から始まって、続いて霞ケ浦飛行場を用い、これから操縦を学ぶ航空術学生(のちの飛行学生)が一から教わる形となった。

センピルの教えを受けた講習員のなかには、桑原虎雄大尉(のち中将)、大西瀧治郎大尉(のち中将)、吉良俊一大尉(のち中将)、千田貞敏大尉(のち中将)、三木森彦大尉(のち少将)ら、太平洋戦争中、航空戦隊司令官や航空艦隊司令長官として海軍航空部隊を率いた者が少なくない。

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霞ヶ浦飛行場で、センピル(前列中央、脚を組んだ人物)と日本海軍の航空隊員たち

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1921年8月、センピル飛行団による指導が始まる。中央がセンピル

教育団の軍紀は厳正で、その教育は「峻厳」の一語に尽きたという。講習はすべて英語で行われたが、単に知識を授けるだけでなく、飛行機乗りは愛機と運命を共にする心構えを叩き込み、飛行作業後の飛行機や機材の清掃にも厳しく、日本側講習員に少しでもミスや気の緩みがあると容赦なく叱った。

「これが後日、我が海軍航空の大をなす礎となった」

と、菊池は手記に書き残している。

センピルたちは日本海軍の講習員に、最新の飛行機や、航空魚雷などの新兵器について、惜しむことなく教えた。イギリスではすでに、建造中の客船を改装した空母「アーガス」、建造中の戦艦を改装した空母「イーグル」を就役させていて、搭載した飛行機で自在に敵地を攻撃するという、まったく新しい戦法を模索していた。

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センピル飛行団による、水上機訓練の模様

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航空魚雷の投下風景。この飛行機を操縦しているのはセンピルとされる

その可能性に着目した日本海軍も、空母「鳳翔」をすでに起工している。はじめから空母として設計された艦としては、英海軍の「ハーミズ」のほうが先に着工されたが、竣工は1922年12月の「鳳翔」のほうが早く、「鳳翔」は世界初の正規空母となった。センピル一行は、空母の飛行甲板の建造技術についても日本側に指導した。日本人として初めて、空母への着艦に成功(大正12〈1923〉年3月16日)したのは、講習員の一人だった吉良俊一大尉である。

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吉良俊一大尉による空母「鳳翔」への着艦風景

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日本人として初めて空母に着艦した吉良俊一大尉(のち中将)

センピルたちによる講習の模様を、皇太子(のちの昭和天皇)や、日露戦争の日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を破った東郷平八郎元帥が、わざわざ霞ケ浦まで視察に訪れたことを見ても、海軍がこの講習にいかに期待を抱いていたかがうかがえよう。

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1922年6月18日、皇太子(のちの昭和天皇)が霞ケ浦飛行場に行啓、センピルの案内を受けた

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東郷平八郎元帥に飛行機の説明をするセンピル

英国へ帰国時には絶賛された功績

こうして、日本海軍に大きな収穫を与え、センピルは翌大正11(1922)年10月に任務を終えた。記録によると、センピルは10月27日に東京発、箱根、京都を観光ののち、31日、門司を出港する「伏見丸」に乗船、帰国の途についた、とある。日本側に残る『英飛行団ノ功績ニ就テ』と題した文書には、

〈団長センピル空軍大佐は資性極めて誠直謹厳、年齢未だ30に満たざる英国貴族にして、航空については実にその本国の権威ともいうべく〉

から始まり、

〈団長以下全員は挙げて我が海軍航空に一大革新を与えんことを期し、面目を賭して努力せしものにして、従って各部の実績は団員の期待に背かざるのみならず、我が当局の期待を超え、すこぶる見るべきもの多し。一行の功績は独り海軍のみならず実にわが国航空史上に永久に消ゆべきものにあらずと認む〉(現代文約)

と、じつに用箋15枚にわたってその功績が綴られている。絶賛と言っていいだろう。

センピル一行が教えた講習員は、士官70名、兵から累進した特務士官・准士官6名、下士官兵142名におよび、彼らがのちに、日本海軍航空隊が発展する基礎をつくった。日本政府は、センピルの功績に対し、勲三等旭日中綬章を授与している。日本から帰国したセンピルは、各国政府にイギリス製兵器購入を助言する仕事についた。

センピル一行が日本で航空術の指導に明け暮れていた頃、日本の海軍力増強を脅威に感じていたアメリカの働きかけで、ワシントン軍縮会議がはじまった。この会議の結果、日本の主力艦(戦艦)保有数は、米英の6割に制限され、20年以上にわたって続いた日英同盟も1923年をもって失効することになった。

ワシントン軍縮条約のあおりを受け、主力艦の保有枠を超えて建造中だった戦艦「加賀」と巡洋戦艦「赤城」は、空母に改装されることになる。だが、日本海軍は当時、空母運用についてのノウハウをほとんど持っておらず、飛行機の発着艦すら手探りの状態だった。

そこで、在英国大使館附武官補佐官・高須四郎少佐(のち大将、第一艦隊、南西方面艦隊司令長官などを歴任)の口利きで日本海軍が招聘したのが、叩き上げの軍人で、英空軍を退役したばかりのフレデリック・ジョゼフ・ラトランド大尉である。

ラトランドはセンピルより7歳年上、イギリス海軍航空隊の草分けの一人で、1916年、英独海軍が激突したユトランド沖海戦では航空偵察で敵艦を発見するなどの殊勲をたて、「ユトランドのラトランド」の異名で知られていた。巡洋艦の砲塔に取り付けられた臨時の飛行甲板から、世界初の発艦に成功したのもラトランドである。1918年、空軍に移籍、第一次大戦後は空母「イーグル」の飛行隊長を務め、1923年に退役、来日した。

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フレデリック・ジョゼフ・ラトランド。第一次大戦の英空軍の英雄。航空母艦の指導に来日、のちにセンピル同様、日本のスパイとなる

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同上

来日の理由について、ラトランドはのちに、

「もう戦争は起こらないと思った。そこで軍を退き、生来冒険好きだった私は日本に行くことを決めた」

と語っている。ラトランドは三菱航空機に籍を置き、東京にオフィスを構え、日本海軍に空母飛行甲板の構造についてのアドバイスをした。さらに、日本のパイロットに発着艦の技術を教えれば昇給させる、との要請にも応えた。

英情報機関は把握していた諜報活動

センピルやラトランドと、日本海軍との密接な関係は、日英同盟が解消されたのちも続いた。それは、単なる友好の域を超えたものだった。1998年から2002年にかけ、英国立公文書館が公開した文書で、彼らが日本側にイギリスの機密情報を売り渡していたことが明らかになったのだ。

MI5(英保安局)の報告書によると、センピルに最初に疑念がもたれたのは1923年1月9日のことである。センピルが日本人と頻繁に会っていることを掴んだMI5は、センピルの身辺捜査を始めた。同年10月、大使館附海軍武官として豊田貞次郎中佐(翌年12月大佐、のち大将。海軍航空本部長、商工大臣、外務大臣、軍需大臣などを務める)が着任すると、センピルは豊田と定期的に会食を持ち、頻繁に手紙のやりとりもするようになった。

――じつは筆者は、豊田貞次郎大将の次男である武田光雄氏(元海軍大尉。1920-2006)とは生前、懇意にしていて、武田氏のご子息(豊田貞次郎の孫)邦義氏とも交流がある。英テレビ番組「チャーチルを裏切った男たち」日本語版の監修をしたとき、英語の原文では「豊田は訓練を受けた凄腕のスパイだった」と言う意味のことが語られていて、邦義氏にそのことを訊ねると、

「まったく知らない。聞いたこともない」

ということだった。もちろん、スパイが「俺はスパイだ」と触れ回ることはあり得ないし、親族が知らなくても、それはある意味当然なのだが、豊田武官の経歴を見ても、スパイとして特別な訓練を受けたような形跡はない。赴任先の情報収集は駐在武官の任務の一環だから、あくまでその範疇の活動であったと解釈して、日本語版では、

「ただパーティーなどに出席するだけの凡庸な武官ではありませんでした」

と、表現を弱めたいきさつがある。しかし、イギリスでは「訓練を受けた凄腕のスパイ」と見られているわけで、さすが007の国だな、と思った。

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センピルから情報を得ていたとされる駐英武官・豊田貞次郎(のち大将。写真は中将当時)

ちなみに豊田武官は、それ以前にも明治44(1911)年から大正3(1914)年まで2年半、英国に駐在し、オックスフォード大学に留学したことがあり、英国事情に明るく、幅広い人脈もあった。

大正12(1923)年10月からの駐英武官生活は、大正15(1926)年12月まで3年以上におよび、その後もジュネーブ海軍軍備制限会議の随員に選ばれてスイスに渡るなど、昭和2(1927)年11月、巡洋艦「阿武隈」艦長に発令され帰国するまで、4年以上も海外に留まり続けていた。

1924年2月、MI5は、センピルが豊田に送った手紙を入手した。1月7日付のこの手紙は二重の封筒に入れられ、内側の封筒には「極秘」の文字がある。内容は、イギリス空軍が開発中の大型爆弾についての詳細だった。これは、大型艦の撃沈にもつながる重要な機密である。さらに7月、豊田は英海軍の観艦式に招待され、そこで空母を見学、さらにセンピルから、イギリスの軍艦設計の第一人者、テニソン・ダインコートを紹介される。

7月27日付で、センピルから豊田に宛てた手紙には、

「空母はよくご覧になれましたか? ダインコートなら有益な情報の提供に最善を尽くしてくれるでしょう」

とある。だが、ダインコートが当局から警告を受け、情報提供を断ったために、センピルはさらに英空軍のチャールズ・ビビアン少将を豊田に引き合わせた。当局の動きをセンピルも察したのだろう、このときの紹介の手紙には、

「この件は他言なさらぬよう。外部に漏れると問題です」

と書いている。

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センピルが豊田武官に紹介した軍艦設計の権威・ダインコート

1924年7月、MI5はさらに、センピルが国家機密保護法で保護される重要機密を漏らした証拠を入手した。最新式の航空機エンジン、ジャガーⅣの開発経過やその性能について、豊田への手紙で明かしたのだ。

だが、センピルのスパイ活動についての確かな証拠を握りながら、MI5は動かなかった。1920年代、MI5はすでに、日本の外交電報の暗号解読に成功していたが、そのこと自体が国家機密である。センピルを起訴すれば、当局が隠しておきたい情報の入手ルートまでもが明るみに出る危険性が高いと判断したからだ。

チャーチルの側近となったスパイ

泳がされた状態のまま、センピルはスパイ活動を続ける。1925年10月30日、センピルは、豊田の求めに応じて、ヨークシャーにある航空機メーカー、ブラックバーン社を訪ねた。表向きの理由は単発機の視察だったが、ほんとうの目的は、同社が極秘に開発中の飛行艇「アイリス」である。

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ブラックバーン社が開発した飛行艇「アイリス」。重要機密だったこの飛行艇の情報も、センピルは豊田武官に流していた

日本とイギリスは、大陸に隣接した島国として、国防上、求めるものが類似することが多い。飛行場がない海面から発着できる飛行艇の技術もその一つだった。

1926年1月、MI5は、機密事項を明かすことなくセンピルを訊問するチャンスを得た。ギリシャ駐在の英武官から、センピルが他国に情報を売って定期的に報酬を得ていること、経済的に苦境に立っていることが報告されたのだ。このことはセンピル自身の耳にも入り、彼は空軍大臣に、直接会って話をしたいと申し入れた。

同年5月4日、空軍参謀次長のオフィスで、MI5の空軍担当官、検察局長らが同席して、センピルの訊問が行われた。センピルは、情報提供は善意で行ったことで、飛行艇の情報を日本から求められたことはない、と嘘をつく。決定的な証拠をいくつも握っていながら、5月13日、英政府はセンピルの不起訴を決めた。父が国王側近を務めた貴族のセンピルを法廷に送りたくなかったのだと、イギリスの研究者は推測している。

失脚を免れたセンピルは、1934年、父の爵位を継ぎ、貴族院議員となった。この頃からセンピルは、極右的な政治思想を持ち、ナチスを支持、反ユダヤ主義のスタンスを明確にしていたという。

センピルを不起訴にしたことは、イギリスのみならず、アメリカにも影響をおよぼした。かつて「センピル飛行団」に加わった部下の准士官が、米陸軍航空隊に転籍し、日本の情報をアメリカに売る可能性について警告する豊田宛の手紙が残っている。日本に対するスパイの情報まで、日本側に伝えていたのだ。

また、1931年以降、センピルは、三菱の顧問として報酬を得ていたことも明らかになっている。センピルは収入以上の生活をしていて、その負債は、1940年頃には1万3千ポンド(現在の75万ポンド・1億円以上)にのぼっていたという。1937年4月9日、国王ジョージ六世の戴冠奉祝のため、東京からロンドンに飛来した朝日新聞社の「神風号」の出迎えの先頭に立ち、

「2人の日本の友人が成し遂げた偉業を、イギリス航空界は誇りに思う」

と祝辞を述べたように、日本に友情以上の親近感を抱いていたのは確かなようだが、経済的な事情もあり、ハイリターンなスパイ活動を、やめるにやめられなかったのだろう。

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937年4月9日、ロンドンに飛来した朝日新聞社の神風号

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神風号の歓迎式典で祝辞を述べるセンピル

1939年、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、センピルは、海軍大臣に就任したチャーチルに請われて海軍省に籍を置き、航空資材部門のトップになる。そのさい、今後、日本人といっさい軍事に関わる交流はしないことを誓約したが、1940年、三菱商事ロンドン支店長・槇原覚(のち社長)がスパイ容疑で拘束された際には無実を訴え、自らが保証人となって釈放されたのちには、槇原に祝意の手紙を送ったりもしている。

いまやドイツの同盟国となった日本との開戦は必至の情勢になっていた。1941年8月、大西洋上のイギリス戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」艦上で、イギリスのチャーチル首相とアメリカのルーズベルト大統領が極秘に会談を持った。チャーチルは、中立を保ち続けるアメリカの参戦を促そうとしたのだ。

ところが、ロンドンの日本大使館から本国に送られた電報を解読した英当局は、極秘であるはずのこの会談の内容が、日本に筒抜けになっていることに驚愕した。これは、チャーチルの身近なところにスパイがいることを意味する。チャーチルは即座に調査を命じ、二人の容疑者が浮上した。一人はセンピル、もう一人はセンピルの部下だったマクグラス中佐である。1922年からずっと、MI5がマークしてきたのにもかかわらず、チャーチルはセンピルに情報を与え続けていたのだ。

――だが、海軍での職を失うことと引き換えに、またもセンピルは収監を免れた。このことも、「彼が貴族だったから」だったと、英研究者は見ている。

いっぽう、ハワイ・真珠湾では、もう一人のイギリス人が日本のスパイとして活動していた。日本海軍に発着艦技術を指導した第一次大戦の英雄、フレデリック・ジョゼフ・ラトランドである。ラトランドを操っていたのは、かつて彼を日本に送り込み、二度めの駐英勤務をしていた高須四郎大佐(当時)だったと言われている。

ラトランドは小舟をチャーターし、真珠湾の米艦隊の動静を16ミリフィルムに撮影し、情報を日本に送っていた。FBI(米連邦捜査局)が彼の動きに疑念を抱き、泳がせて拘束するタイミングを測っていたが、そのことはMI6(英秘密情報部)も察知するところとなり、ラトランドは1941年10月、イギリスに帰国したところを「敵対的行為」の容疑で逮捕、2年にわたり拘留される。

センピルとラトランドで、これほど露骨な扱いの差があったのは、貴族と叩き上げの軍人という出自の差、身分差別によるものと解釈されても仕方がないだろう。ラトランドは1949年1月28日、62歳で自ら命を絶った。

たった一人の男が崩壊させた大英帝国のアジア権益

センピルの来日からちょうど20年後、昭和16(1941)年12月8日、日本はアメリカ、イギリスに宣戦を布告、太平洋戦争が始まった。日本陸軍はマレー半島のコタバルに上陸、海軍機動部隊はハワイ・真珠湾を奇襲、さらに陸海軍航空部隊はフィリピンの米軍拠点を空襲、ほぼ一方的な戦いで米英軍を壊滅させる。

「チャーチルを裏切った男たち」によると、日英同盟が有効だった1920年、イギリスはマレー半島のペナン軍港の使用を日本に認め、そのため、日本はシンガポールの英艦隊の動静を容易に観察できた。

そして、日本の民間人がペナンからシンガポールにかけての土地を購入、さらに商業活動を装って、日本の軍人がシンガポールに潜入していたという。日本側の文書でスパイの痕跡をたどるのはむずかしいが、一人の陸軍将校は、シンガポールで理髪師になりすまし、客のイギリス人との会話から情報を得ていたとされる。

昭和6(1931)年、満州事変が勃発、日本への警戒が高まると、イギリスはシンガポールを世界最強の軍港にすべく、総工費5千万ポンド(現在の25億ポンド・3434億円)をかけて改修工事を行ったが、この軍港の図面も、日本側は手に入れていた。

マレー半島に上陸した日本陸軍は、シンガポールをめざして進撃を続けた。日本軍上陸の一報を聞いたチャーチルは、真珠湾のアメリカ太平洋艦隊の来援に望みを託したが、そのわずか数時間後、米艦隊は真珠湾で日本海軍機動部隊の空襲を受け、壊滅した。

もはや、シンガポールはイギリス軍だけで守るしかない。だが、開戦3日めの12月10日、イギリスの誇る戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」は、84機の日本海軍攻撃機の魚雷と爆弾を受け、あえなく撃沈される。これらの攻撃機が属する第十一航空艦隊の参謀長は、かつてセンピルから直接教えを受けた大西瀧治郎少将だった。

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1941年12月10日、日本海軍の攻撃機が撃沈した英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」(上)と「レパルス」(下)

「ついにイギリスは、センピルの教えがいかに恐ろしい結果を招いたかを知ることとなった」

と、「チャーチルを裏切った男たち」は述べている。確かに、対艦用の大型爆弾も航空魚雷も、のちに日本独自の発展を遂げていたとはいえ、そもそも日本海軍にその種をまき、苗を育て、あろうことか機密情報を流し続けていたのは、センピルだった。

昭和17(1942)年2月15日、シンガポール陥落。イギリスは、東洋における一大拠点を失った。それから3年半後の昭和20年8月15日、日本の降伏により太平洋戦争は終わり、イギリスは戦勝国となったが、この戦争は、大英帝国が営々と築き、支配してきたアジアの植民地をことごとく失うきっかけとなった。

センピルは、1960年12月30日、自らのスパイ活動が公になるのを知ることなく、72歳で生涯を閉じた。

――歴史にはいくつもの「筋」があり、それらが近づいたり離れたり、複雑に絡み合ったりすることで物事は起きる。だから、歴史を一つの流れだけで捉えることは不可能なのだが、センピルという一人の貴族を軸に見れば、一人の影響力ある人物のふるまいが及ぼす影響の大きさを思わざるを得ない。他国に技術を伝えることのリスク、機密保持の大切さ、ラトランドとの境遇の差、外国人による土地購入にひそむ危険性……現代にも通じる数々の教訓を、センピルは残した。

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