
広島カープ時代の木村拓也さん(「Wikipedia」より)
2010年4月7日、広島大学病院で一人のプロ野球人がくも膜下出血のため息を引き取った。同年、読売巨人軍の1軍内野守備走塁コーチに就任したばかりの木村拓也さん=享年37歳=である。
1990年オフ、捕手として日本ハムファイターズにドラフト外入団。身長、わずか170cm。出場機会に恵まれず、一度は捕手失格の任意引退扱いになるも、1994年の広島東洋カープ移籍を機にスイッチヒッターへと転向し、投手と一塁手以外のすべての守備にも取り組んだ。このことが、木村さんをして球界屈指のユーティリティプレーヤーにのし上がる下地となる。
巨人時代(2006~2009年)はリーグ3連覇、7年ぶりの日本一達成にも貢献した。中でも捕手不在の不測の事態で10年ぶりのマスクをかぶり、チームを勝利に導く好リードを見せたことは(2009年9月4日の東京ヤクルトスワローズ戦)、今も語り草になっている。
一貫してチームプレーに徹したその野球観は、何によって育まれたのか。何よりも、「キムタク」の愛称で親しまれ、誰からも愛されたその人間性は、どこからきているのか。
木村拓也さんの魅力を、彼の原風景の中からたどる。
ノーヒットの試合後、父親から受けた叱責
JR宮崎駅から日豊本線で約30分。木村さんが生まれ育った宮崎市田野町は、人口1万2000人ほどの農業地帯。漬物用の干し大根の生産で知られ、農家一戸あたりの生産額も県内一を誇っている。
この長閑な田舎町で育った木村さんに大きな影響を与えたのが、田野町議会の議員を務めていた父・木村茂夫さんである。
「敏捷性や瞬発力を鍛えるためにも、最初は剣道をやらせたかったんです」
茂夫さんは私に語っている。
「私は剣道の3段を持ち、地元でチビッ子剣士たちを指導していましたが、幼い拓也を連れて行っても、稽古場の外で仲間を集めては野球遊びばかりしている。だから、私も『途中まで剣道で鍛えて、もう少し大きくなったら野球やったらどうや?』と言いました。ところが、拓也がこう言うんです。『お父さんは中途半端な人間はダメだって、いつもそう言っちょるじゃないか』。逆に私の方が息子に言いくるめられてしまって(笑)」
幼い木村さんは、地元の少年野球チームの練習をいつも眺めては、球拾いも率先して行っていたという。チームには小学校の4年にならなければ入部できなかったが、その熱心さに3年生で入部することができた。
当時、茂夫さんは町議会の仕事が忙しく、息子とのキャッチボールの時間も満足に取れなかった。ただ、野球を始める上において、強く言い聞かせていたことがあったという。
「拓也が『つよし兄ちゃん』と慕っていた隣の息子さんが、バッティングセンターを経営していて、拓也がまだ幼稚園の頃から、そのバッティングセンターで無料で好きなだけ打たせてくれていたんです。小学校のときなど、帰ってきた拓也が『今日はコイン15枚とか16枚とか打ってきた』などと答えていました。コイン1枚で25球ぐらいですから、400球近くも打たせてもらっていたんですね。
だから、私も『誰のおかげで大好きな野球がでくっとか、いつでんそんこつを考えろよ。自分の失敗を人のせいにしたり、監督やらコーチにふて腐れた態度でもとったこんなら、お父さん、いつでん野球やめさせるぞ』と言い聞かせてきましたし、プロ入りしたときはこう言った記憶もあります。『お前はつよし兄ちゃんのおかげでプロになれたんだぞ』と」
木村さんは地元の田野中学校に進むと、やがて強肩強打の捕手として、宮崎県下にその名を轟かせることになる。
のちに宮崎南高校でバッテリーを組む本郷中学の佐々木未応さんは、1987年春の全国少年野球軟式大会の県予選で目の当たりにした木村さんのパワーを、今でも鮮明に覚えているという。試合会場になった宮崎県総合運動公園のA球場は、両翼99m、中堅122m。この恐ろしく広い球場に、木村さんの打球が鮮やかな弾道を描いた。
「レフトへのライナー性のホームランでした」
と、佐々木さんが当時を振り返る。
「この試合で僕は一塁を守っていましたが、もう声も出ませんでした。まだ中学生で、しかも硬球より飛ばない軟式のボールを、あの広い球場にライナーで叩き込んだんですからね。中学生であんなバッターは見たこともありませんでした」
しかし、当時はまだ才能だけで野球をやっていた。息子に対する父親の目は厳しかった。この特大ホームランから3カ月後、木村さんは宮崎郡の大会で8打数ノーヒットに終わった。茂夫さんは「一手を打つ絶好のチャンス」と判断すると、息子を正座させ、懇々と説教を始めた。
「お前は大きな志を持って、プロ野球選手になりたいと言い続けてきたな。お前の野球って、こんな程度のものやったとか?」
息子は目に涙を溜めながら、父親をジッと見つめていた。
「もう野球をやめるとか? それとも続くっとか?」
「……がんばる」
必死に涙を堪えながら、息子がポツンと答えた。
「これからは、口先だけではダメぞ」
「必ずやる……」
「わかった」
父親の鬼の形相が和らいだ。
「それじゃ、単に『打った』『勝った』だけで野球をすっとじゃなくて、野球を通して自分の成長を刻んでいこうや。お前が夢を実現できるよう、お父さんも協力すっから。そんためには、高い次元を持たんといかんぞ。宮崎でトップじゃない。九州一の選手の称号を取るぐらいやらんと」
1年生代打の「初打席初本塁打」
1988年4月、木村さんは県下有数の進学校・宮崎南高に進学した。それに先だって木村さん父子が設定した目標が、背筋力270キロ以上、左右それぞれの握力70キロ以上、100m走11秒……。これを高校3年生の夏の大会までに達成するというものだった。
宮崎南高野球部の木村さんの1年先輩に当たる江藤善健さんは、入部早々の木村さんのパワーに度肝を抜かれている。
「僕が新入部員の打撃投手を務めたんです」
江藤さんは言う。
「最初に打席に入ってきたのが木村でしたが、その初球でいきなりワンバウンドになりそうな外角低めのクソボールを投げてしまった。『あ! ゴメン!』と言ったその瞬間、木村の打球が低いライナーでライトスタンド後方のプールに飛び込んでいきました。100mぐらいは飛んでいたと思います。もうびっくりでした。そして、2球目がレフトのフェンスを軽々と越えるライナーです。
木村はそれほど体が大きくないし、八重歯もかわいい。『これが、九州の中学校でNo.1と言われた、あの木村?』と首を傾げていましたが、このフリー打撃で完全に納得しました」
木村さんが初めて公式戦の舞台に立ったのは、同年7月の県大会の予選。宮崎第一高校との準々決勝だった。その日の朝、父の茂夫さんは息子を車の助手席に乗せると、試合が行われる宮崎県営球場に向かった。その車中、父子はこんな会話を交わした。
「拓也、今日出場のチャンスがあるかもしれんね。スタンドプレーはいかんけど、華々しいデビューせんといかんね」
「目立つようなバッティング見せちゃるよ」
「ホームラン、狙うか?」
「うん。狙ってみる」
この準決勝、木村さんは代打で登場すると、言葉通り、目の覚めるようなライナーをライトスタンドに叩き込んだ。初打席初本塁打という離れ業を演じた1年生打者の活躍で、同校は準決勝を突破した。
次の都城工業高校との準決勝、1番レフトでスタメン出場を果たした木村さんは、ここでも2本のタイムリーヒットを放ち、チームのサヨナラ勝ちにつながる働きを見せた。そして、宮崎南高は決勝戦で都城高校を8-1の大差で下し、学校創立以来、初の甲子園出場を決める(2回戦敗退)。
しかし、結論から先に言えば、甲子園メンバーに選ばれたものの、木村さんはその聖地でプレーする機会を与えられていない。
打撃投手として甲子園に帯同した前出の佐々木さんによると、出番を与えられなかった木村さんは、ナインの前では持ち前の明るさを発揮していたものの、それでもどこかに悔しさを滲ませていたという。
「ただし」と、佐々木さん。
「それは、試合に出してもらえなかったという悔しさではありませんでした。それよりも、自分が出ていればチームのためになったのにーーという悔しさだったと思います。僕にはそういう印象が強く残っています。プロに行ってからもそうでしたが、拓也はあの頃から個人よりチームを優先していたんです。甲子園でプレーできなかったのは、当時の監督さんに何か考えがあったからでしょうが、うちが甲子園に出場できたのは、拓也の存在が間違いなく大きかった。チームそのものが、あと一皮破れれば甲子園も可能というときに、拓也が入部してきてその皮が破れた。僕はそう捉えています」
※第2回へ続く
(文=織田淳太郎/ノンフィクション作家)