イトマン事件の裏側〜闇社会と闘ったエリートバンカーが封印を解いた

イトマン事件の裏側〜闇社会と闘ったエリートバンカーが封印を解いた

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2016/10/20

バブル期最大のスキャンダル

「表」と「裏」が渾然一体となった社会――それは長く日本型システムとして認知され、ピークは1980年代半ばから90年代始めにかけてのバブル時代だった。

株主総会を「総会屋」が仕切り、ゼネコンの下請けを「名義人」と呼ばれる業者が捌き、地権者や住民の反対で不動産事業が停滞すれば「地上げ屋」が活躍、乱発手形が市中に出回れば「回収屋」の出番であり、そうした勢力の背後には必ず暴力団が控えていた。

「3000億円が闇に流れた」と言われたイトマン事件は、バブル時代の象徴であり、広域暴力団山口組に足場を置く伊藤寿永光、許永中という2人の凄腕の仕事師が、老舗商社のイトマンを起点に、「都銀の雄」だった住友銀行まで侵食したという意味で、戦後経済史に名を残している。

四半世紀を経てなお、記憶にも記録にも留められている事件だが、報道や公判を通じて、伊藤と許の2人が、イトマンの河村良彦社長、住銀の磯田一郎会長といった最大の権力者を篭絡、悪漢小説の主人公のように細心にして大胆な手口で、資金を引き出した経緯についてはよく知られている。

しかし、防御に回った住銀が、この異常事態をどう乗り切ったかについては、これまで語られることはなかった。エリートバンカーたちにとって、闇の勢力に翻弄され、うろたえ動揺した過去は、大銀行としての体面と信用を守るためにも、決して明かしてはならないものだった。

國重惇史元取締役が、『住友銀行秘史』でその封印を解いた。衝撃は、國重が幹部行員のひとりとしてイトマン事件を語っているだけはなく、自ら事件を仕掛けたプロデューサーであることを明かしたことである。

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筆者の取材に応じる國重氏

<私共は伊藤萬の従業員であります>

時節の挨拶の後、こういう書き出しで始まる文書は、約1兆3000億円の資産のうち約6000億円が固定化、金利負担が重くのしかかり、グループ内を転がすことで表面上は利益を出しているものの、実際は約300億円の赤字であることを過不足なく伝えるもので、イトマン事件の発火点となった。

土田正顕・大蔵省銀行局長へ向けたこの文書は、マスメディアに広く流通、それも第2弾、第3弾と続き、コピーが重ねられて一部が不文明となった文書を手に取材する記者たちは、内容の確かさに驚かされ、「誰が書いたのか」と、“犯人探し”を行ったが、判明することはなかった。

國重は、作者が自分であることを明かした。それは一介の部長でありながら、<バブルを謳歌している日常の裏で、恐ろしい出来事が起きているという直感があった>からで、國重の戦いは、1990年3月、「問題のスタート」と住銀発行のメモ帳に書いたところから始まっている。

その際、共闘の相手として國重が選んだのが、日本経済新聞記者の大塚将司だった。敏腕記者として知られる大塚は、この時までにイトマンの窮状をある程度、把握しており、國重がマスコミを使って陽動作戦を仕掛ける時、胆力と実力を兼ね備えたパートナーとして最適だった。

以降、91年7月の河村、伊藤、許らの特別背任容疑などでの逮捕に至るまでに、國重が使ったハガキ半分ほどのメモ帳は8冊にのぼり、予想通り<日本の金融史、経済史に残る大きな事件>となった。

取材時の戦慄

優れた書物は、読む人それぞれにさまざまな思いを抱かせる。

全ての人に共通するのは、大銀行のなかで展開される人間ドラマの面白さだろう。権力者の前での立ち居振る舞いは、滑稽にして切実。また出世競争のなかで繰り広げられる計略と謀略には寒々としたものがあり、その一方で、気脈を通じた先輩後輩、同僚との連帯感や友情もあった。

コンプライアンスが過度に重視される昨今の金融界では考えられない反社会的勢力の侵食だが、それは金融業に従事するベテランにとっては懐かしくも苦い経験であり、バブル期を知らない世代にとっては、一層、身を引き締めなければならない教訓である。

私にとってイトマン事件は、政官界から暴力団まで広がる底知れない事件であり、記者としては避けて通れない取材対象だった。

國重作成の<イトマン従業員一同>の手紙を手に、東奔西走、都内取材はもちろん、毎週のように大阪を訪れ、許永中本人、親族、許グループの関係者、許が起点とした関西の暴力団関係者に取材、「韓国村構想」など、許がイトマン資金で作り上げようした“正体”を見定めようとした。同時に、伊藤寿永光とその周辺を取材、2人の頭の回転の速さと人脈の多彩さ、そして類まれな人心収攬術に驚嘆した。

「陽」の伊藤に「陰」の許。2人は絶妙のコンビだったが、一方で、私が許の意に沿わない取材をしたとして、許が激怒したことがあり、「裏の顔」の凄みも見せつけられた。

「生きた半沢直樹」

この「表と裏」「陽と陰」の使い分けが彼らの真骨頂であり、その巧みな手捌きで、篭絡する相手と抜き差しならない関係を築くことを「型に嵌める」という。河村と磯田は、型に嵌った。國重は、そこからの脱却を図った。それが、どれだけ困難なことか。

國重自身は、自らの限界を超えたクライマックスは、イトマンに会社更生法の適用を申請させるために開いた90年11月の巽頭取以下、経営陣がズラリと顔を揃えた会議だったという。

「会社更生法適用の準備を整えていたのは私でした。戦いを始めて8カ月が経過、私はイトマンを潰すしかないと思い、巽頭取に内諾をとって会議に臨みました。『では、やりますから』といった私に対して、巽頭取は、『ちょっと待て』と。頭に血が上りました。『だから、この組織はダメなんだ』と、絶望感に包まれ、そのまま部屋を飛び出ました」

当時は、大蔵省の護送船団方式のもとで金融秩序が守られていた。「もし、イトマンの取引銀行に取り付け騒ぎが起きたらどうするのか」と、大蔵官僚に詰め寄られ、住銀経営陣は先延ばしした。

国と大銀行の保身と体面――。

これこそ事件師たちの目のつけ所であり、強く出れば脆弱なエリートたちが引っ込むことをよく知っている。

それを軌道修正する國重の戦いは、それからなおも8カ月続き、マスコミが盛り上げ、捜査当局が突っ込んで事件化。その小説より奇なる「生きた半沢直樹」の勇敢な行動は、本書を読んでいただくしかない。

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