ホン・サンス新作『逃げた女』は、いつも以上に“わからない”!? 観客を困惑させる映画的話法を解説

  • サイゾーウーマン
  • 更新日:2021/06/14

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『逃げた女』

前回のコラムではホン・サンス監督の『ハハハ』(2010)を取り上げ、韓国映画の理想的なヒーロー像からは完全に逸脱しながらも、人気俳優たちが演じる“あるべき”姿から解放されたキャラクターたちの魅力とその意義について紹介した。そのことはホン・サンス・ワールドの大きな特徴であるし、映画を通して韓国の社会や歴史を考えるという本コラムの目的にも合致していたと思うのだが、ホン・サンス映画の魅力をそこにだけ収斂させてしまうのは片手落ちではないか……。6月11日公開の新作『逃げた女』(20)を見て、そんなことを考えるに至った。

もちろん、この新作にも“ダメ男”の影はチラついているし、タイトルがすでにネガティブなニュアンスを含んでいるように、キャラクターたちは決して格好よくは描かれない。だが本作は、どちらかというと“男”ではなく“女たち”の物語であり、さらには“何を描くか”ではなく“どう見せるか”、その手法・話法をより楽しむべき作品として仕上がっている。

そこで2回連続とはなるが、今回はホン・サンスの新作『逃げた女』を中心に、彼の映画的話法の魅力について紹介したい。コラム本来の方向性とはだいぶ異なる内容にはなるが、明らかに観客を選ぶ監督であり、初めて出会う観客にはチンプンカンプンとも思われかねないホン・サンス映画の味わい方に関するひとつの提案として、ご一読いただければ幸いである。

ホン・サンスのほとんどの作品が似たり寄ったりの物語で、キャラクターたちの設定もほとんど変わらない。にもかかわらず、どの作品も刺激的で癖になってしまうのはなぜだろうか。多くの評論家が指摘しているのは物語の簡潔さであり、徹底したミニマリズムを追求した結果、起承転結を軸にする既存の物語の概念を覆しながらも最終的には「物語」として成立させてしまう、不思議な「ホン・サンス話法」の力である。

彼の映画には、クライマックスに向かって盛り上がっていく展開もなければ(いや、そもそもクライマックス自体が存在しない)、善悪のはっきりしたわかりやすいキャラクターも登場しない。世界中に流通している主流映画(たくさんの劇場で公開され、多くの観客を集める物語映画)が、因果関係が明確な展開、目的を持った主人公を中心に直線的に進んでいく物語を原則とするならば、ホン・サンスの映画はすべてにおいて対照的といえるだろう。ダラリとした男女の日常が断片的に提示され、観客は彼らの終わりそうもない会話をひたすら見続ける。

そうして提示される一つひとつの光景はまるでパズルのピースのようであり、最後のピースがはめられるまで完成形はまるでわからない。観客は個々のピースから全体像を想像するしかないのだが、その想像はいつも見事に外れてしまう――それこそがホン・サンス作品の一番の魅力であり、観客にとってピースとピースの関係性がわかりづらいからこそ、その困難さが見ることの楽しみにつながっていくのだ。そうこうしているうちにいつのまにか映画は終わり、結末に至ってもその全体像は結局よくわからないままということもしばしばで、私たちは戸惑いつつ、映画館を去ってからも今見た映画を反芻し、頭の中で再びパズルに取り組むことになる。そして、組み合わせ方の多様さと完成形のあまりの自由度に驚かされることになる。

特に近年のホン・サンス作品は、毎回何かしら国際映画祭で受賞しているが、見ている間は“一体この映画のどこに受賞の根拠が見いだせるのだろう”と更なる困惑に陥ることも少なくない。ピースとピースの間の因果性を見いだし難い映画的話法を持つ『逃げた女』もまた、20年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(監督賞)を受賞している。それでは、ホン・サンス映画に共通して見られる特徴を通して、その映画的話法の魅力について考えてみよう。私が思う具体的な特徴とは、「反復、省略と、それゆえの曖昧さ」である。

結婚以来一度も離れたことがないという夫が出張に出かけ、その間、ガミ(キム・ミニ)は3人の女友達を訪ね歩く。ひとりはバツイチの先輩ヨンスン(ソ・ヨンファ)、2人目は独身の先輩スヨン(ソン・ソンミ)、そして3人目は偶然入った映画館で再会した同級生のウジン(キム・セビョク)。ガミと女たちのやりとりを通して、それぞれの事情が少しずつ浮き彫りになっていくのだが……。

※作品の主軸となる部分に触れています。

本作も例に漏れず、構成は至ってシンプルだ。物語が直線的に進むことはなく、「ガミが女友達と会って話す」という行為が3回反復されるのみ。反復の間に私たちは断片的な情報を得るが、それ以上は語られないため状況を正確に理解することはかなわず、曖昧なまま宙ぶらりんの状態、言ってみればサスペンスを見ているような状態に置かれる。ただ、だからこそ観客は一瞬も見逃せない、一言一句聞き逃すわけにはいかないと、緊張感とともにスクリーンに向き合う羽目になる(“サスペンス”とは直訳すると“宙ぶらりん”の状態を意味する)。このような「反復・省略・曖昧さ」は、過去のホン・サンス作品からも見て取ることができる。

時系列がバラバラなった『自由が丘で』

海外作品にも積極的に出演している加瀬亮が主演したことでも話題になった、『自由が丘で』(2014)。韓国人の恋人を追いかけて韓国にやってきた日本人男性のソウルでの数日間を描いたこの映画は、彼からの手紙を受け取った彼女がふとした弾みで手紙を落としてしまい、便箋の順番がバラバラになってしまうところから始まる。日付のないその手紙を、彼女は仕方なしに拾った順に読み始め、観客にもまた彼女が読む順番で物語が提示される。

映画は普通、フラッシュバックやナレーションなどさまざまな手法を用いて複雑な時系列の物語を見せることができるが、最も大事なのは“観客にも理解できるようにそれを提示する”ことであり、観客が時間軸を見失うことのないよう、語り方には細心の注意を払う。観客が置き去りにされることは決してない。

だがこの映画で観客は、バラバラになった手紙を読む恋人と同じ立場から、時系列が曖昧なまま提示される物語を必死で組み立てなければならない。家でDVDを再生するのとは違って、映画館では映画を途中で止めたり巻き戻したりすることはできない。後戻りできないのが映画である。映画が終わるまでの間ずっと、宙ぶらりんな状態のままで観客は、省略・反復と格闘しながら映画の完成形を描いていく。必然的に、完成した絵はひとつではなくなる。

もうひとつ、キム・ミニが初めてホン・サンス作品に登場した『正しい日 間違えた日』(15)を例に見てみよう。自分の映画の上映会の日を勘違いして水原(スウォン)にやって来た映画監督の、持て余した一日におけるひとりの女性との出会いを描いた作品である。

映画は2つのパートに分かれていて、前半と後半はほとんど同じ内容・構図の反復なのだが、会話の内容や登場人物の行動に微妙な違いがあるため、観客は映画を見ながら自然と「間違い探し」をしている感覚になる。だが前述したように、映画はいちいち巻き戻して確認したりはできない。見ながらすでに曖昧になっていく記憶を手繰り寄せつつ、前半と後半ではどこがどう違うのか、そしてタイトルが示すように何が正しく、何が間違っているのかの答えを探そうとする。

だがそもそも、「正しい」「間違い」とは何に対してのものなのだろうか。肝心の部分が省略されているため、観客にとっては映画のタイトルすら意味を失ってしまう。残ったのはただ、「同じ状況が持ち得る2つの展開の可能性」のみである。

それでは、『逃げた女』の場合はどうだろう。本作もまた「反復・省略・曖昧さ」といった話法から成り立っている。というのも、3人の友達に会うという反復の中で、「逃げた女」が誰なのかが、どんどん曖昧になっていくのだ。観客は当然、主役であるキム・ミニが何かから逃げる物語を想定しているが、タイトルに主語が明示されていないことから、次第に自ら曖昧さに飛び込まざるを得なくなる。ここでは、タイトルが意味を失うという以上に、タイトルが観客を混乱に陥れていく。こうして一見シンプルな構成の本作は「逃げた女」が誰なのかをめぐって、2つの推論を可能にする複雑さを獲得するのだ。

ひとつ目は逃げた女がガミである可能性。前述したようにこれは、タイトルが主人公を指しているという私たち観客の固定観念を出発点とし、さらに映画の宣伝ポスターにも逃げるようなガミの後ろ姿が使われているため、映画を見る前には疑いようもない事実となっている。だが映画は、ガミが逃げた理由を終始明らかにしないため、ガミが逃げた女であるかどうかすら次第に曖昧になっていく。ガミは何から逃げたのか、どうして逃げたのか、推測は観客に委ねられる。

たとえば、3人の女性たちをガミに対する「鏡」と捉えることは可能かもしれない。バツイチの先輩、独身の先輩、そしてかつて自分の恋人を奪った友人と再会の相手を順番に見ていくと、ガミは何らかの理由で今の現実から逃げ出したいと思っているのかもしれないと考えられなくもない。ガミが女性たちに向かって夫との一途な愛を繰り返し強調するのは、実際にはそうではない現実の裏返しのようにも見える。

ガミは離婚してひとりになろうとしているのではないか。夫との関係がギクシャクしている友人の姿は、そのままガミの現実といえるのではないか。単純な解釈ではあるが、物語上あまりに多くの事柄が省略されているだけに、そこには観客の勝手な想像が入り込む余地も十分に残されているといえる。

もうひとつは、ガミではなく、3人の女性たちこそが「逃げた女」であるという可能性だ。実際、逃げた女がガミである保証など、どこにもない。むしろ3人それぞれが逃げているような状況に置かれていることは、彼女たちの会話からも明らかだ。夫と離婚したヨンスンはソウル近郊で隠遁者のような生活を送る。彼女はガミに、煩わしい人間社会から離れた閑静な田舎生活の良さをちらつかせる。独身貴族を謳歌しているように見えるスヨンもまた、一夜を共にした若い詩人との関係が、自分が好感を抱いている別の男性にバレてしまうことを恐れて、彼のいるバーにも行けず、付きまとってくる詩人から明らかに逃げている。

そして、夫と一緒に運営している映画館で偶然ガミと再会するウジンは、かつてガミから恋人を奪って結婚までしたという罪意識を持ち、これまでガミに連絡できずにいたと告白する。つまりウジンもガミから逃げていたことになる。こう考えると、逃げた女とはガミではなく3人の女性たちであると考えたほうが、より説得力を持つように思える。映画の最後、かつての恋人だったウジンの夫とも再会し、逃げるように映画館を後にしたガミが途中でふと立ち止まり、映画館に戻って再び席に座ってスクリーンを見つめるというラストシーンは、ガミだけが「逃げなかった」という力強いメッセージとも受け取れるのではないだろうか。

だがいずれにしても、重要なのは「誰が逃げたのか」という問題ではない。ホン・サンスの映画が、見方によって異なる複数の「シニフィエ」を持ち得るということにある。ホン・サンスが「反復・省略・曖昧さ」の話法を用いて描くのは、最終的に「ずれ」である。キャラクター同士のずれが、作品と観客のずれをもたらし、映画は必ずしも固定的ではないことを暴き出す。それは、映画というものがひとつの物語=真実を語ると信じられている中で、そんな真実は果たして存在するのかという問いを、ホン・サンスが自身の作品を通して投げかけているようにも感じられる。

本作では、それぞれのエピソードで女性たちは、介入してくる男性との対峙を余儀なくされる。カメラに顔を向けた女性と、カメラに背を向けた男性。彼らの会話はまったくかみ合わず、互いの相いれなさに絶望的な気持ちになるが、ホン・サンスが描こうとしているのは、まさにその「ずれ」にほかならない。

作品にこうした傾向が色濃く表れるようになったのが、『正しい日 間違えた日』からであることは興味深いといえるだろう。なぜなら、この作品をきっかけに彼はキム・ミニとの「不倫」が世に知られ、社会から想像を絶するバッシングを受けたからだ。主にインターネットの書き込みを通して拡散した2人に対する攻撃は、彼にとって「不倫」の2文字によって人格を踏みにじり、存在を否定しようとする、大いなる暴力として映ったに違いない。

何かひとつの状況でも、ホン・サンスにとっての見え方と社会の見方はまったく異なっているのだろう。何が正しく、何が間違いか? 答えはひとつに固定されておらず、私たちは常に「ずれ」とともに生きている。映画の中にも堂々と自らを投影し、妻子ある映画監督の不倫を描き続けるホン・サンスは、自身の経験を糧に、ますます自由な映画作りに邁進しているのである。

崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加