CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点

CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2020/09/17
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ときは13世紀後半、の第五代皇帝フビライは、高麗を配下に収めると、その先の海上にある島国・日本に狙いを定め、1274年の「文永の役」、1281年の「弘安の役」と、2度にわたって侵攻してきました。

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馬上のフビライ photo by gettyimages

1度目の文永の役では、博多湾に上陸した蒙古軍は、伝統にのっとり一騎討ちで立ち向かう日本の武士たちを、集団騎馬戦術と新兵器の「てつはう」でさんざんに打ち破ったといわれています。博多市街も焼かれ九州は陥落寸前となるも、なぜか蒙古軍はその夜、全軍が撤退して船に兵を引き揚げ、そこへ暴風雨が直撃して壊滅し、日本は救われた――これが歴史の教科書にも書かれているストーリーで、日本にはいざとなったら神風が吹くという「神国思想」が生まれるきっかけともなりました。

しかし、なぜ蒙古軍が一夜にして撤退したのかは、じつはいまだに謎のままなのです。さまざまな説が唱えられてきましたが、科学的に考えると現実離れしたものばかりだと、映画『アルキメデスの大戦』で製図監修を依頼され、戦艦大和などの設計図をすべて描いた播田安弘氏は指摘します。船舶設計のプロフェッショナルが蒙古軍船の性能を緻密に検証し、CG上で再現して迫った文永の役の意外な真実とは?

人気のPS4ゲーム「Ghost of Tsushima」で再び脚光を浴びている"蒙古襲来"の、新しいかたちが見えてきます。

宗主元帝の無茶ぶり命令

1274年、フビライはついに日本侵攻の号令を発し、元は高麗に対して、6ヵ月以内に大型軍船300隻、小型上陸艇300隻、水み艇300隻を建造するよう厳命しました。さらには大工や工夫として3万人以上を徴発させました。しかし、これだけの軍船をつくるのは、大型軍船だけに限ってみても、必要な木材の量、建造期間、船大工や人夫の人数を検討してみると、とても難しいことがわかります。

現存する古船や、日本の江戸時代の千石船、古い帆船、長崎県の鷹島で発見された蒙古軍船、韓国の海洋博物館にある高麗船などの資料から、大型軍船1隻あたりの木材使用量を推定したところ、約234m3となりました。これだけの木材を確保するには、東京ドーム約150個分の広さの森林が必要です。

また、江戸時代に発達した大型の荷船である千石船を参考にして、建造に必要な船大工の人数、船大工に指示によって作業する人夫や輸送に携わる人々、さらに、これらの人々の宿舎や食事の世話をする人員も含めると、総計約6万人/日という規模が必要となり、当時の高麗人口は250万〜400万人であることを考えると、かなりの人数です。

しかも超短工期。用意できた船はどんな船?

建造期間や工程についても問題がありました。建造する船の形状について、宋の外航船のような船首が細く、隔壁が多い船をつくることはもともと技術的に難しかったうえに、時間的にも間に合わず、単純な高麗型の川船形状になったと考えられます。では、高麗型の川船とはどのような船だったのでしょうか?

当時の高麗による造船を知る手がかりとして、2005年に中国で発掘された、「ポンレ3号」と呼ばれる高麗の大型軍船があります。

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発掘されたポンレ3号(上)と、木釘のよる連結(左が側外板の連結、右が底外板の連結)

まず、形状は曲線が少ない箱型です。アカマツ製の厚板構造で、肋骨はなく、梁で支えていますが、船は大型になると肋骨が必要になり、梁だけでは強度的に大きな不安があります。

さらに連結は木釘連結であり、鉄と比べて強度は約5分の1しかありません。とくに岩礁に座礁したときは、木釘連結は強度的に不利と思われます。また、木釘連結は互いに「ほぞ」を彫り、正確に合わせた木釘を密に打ち込むので、手間が大変かかり、建造期間も長くなります。

2017年の11月から12月にかけて、北朝鮮の漁船が北西風に流されて、日本海側に大量に漂流してきたことがありました。その船型は、船首は細くしているものの、船底は平らなままの単純でつくりやすい形状で、極端にいえば、高麗時代の川船の船首部を細くしただけともいえます。

これに比べると、江戸時代からの和船は、船底は平底ではなくV字形で、推進性能や波切り、波浪中の安定性は現代船と変わりません。底が平らな船は、海を航走するための形状ではないことは明らかです。

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北朝鮮の船(左)は船底が平らで波切りが悪く、波の衝撃が大きい。和船の船底葉はV字型で、波切りがよく、衝撃が小さい。現代の高速艇に似た形状

発掘された高麗の「ポンレ3号」や、中国の「ジャンク船」といわれる木造帆船、日本の千石船などを参考にして、元寇当時の蒙古軍船を設計復元してみました。

850年前の蒙古軍船を再現!!

船舶の建造計画では通常、類似船がある場合は、その排水量の1/3乗比で長さ、幅、深さを決めて概算配置図を作成し、重量などを算出します。そこで各種の船を参考として、船型や船内配置、概算重量を算出し、トライアンドエラーを繰り返しながら、蒙古軍船の内部の構造を固めていきました。

その結果、高麗建造の蒙古軍船は全長28m、幅9mもの大型船となることが推定されました。乗員は1隻当たり、兵士と兵站兵で120名、船員60名の180名と推定しました。

これらのデータをもとに、内部構造の図面を描き、コンピュータグラフィクスを用いて復元図も作成してみました。

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蒙古軍船の内部構造(上)と、CGで再現した蒙古軍船。CG復元図の拡大画像はこちら

外板は厚板で強度をもたせ、肋骨はなく、内部は梁で突っ張り、甲板は全通で梁があります。強度を保持するため船底は二重にして高さ約1mの空間を設け、そこに1.8mごとに肋骨を設けました。この空間には水や重心低下のためのバラスト石を搭載しました。

兵士や船員の居住区は、上甲板下に設けました。1名当たり長さ1.8m、幅0.8m、高さ0.8mの2段ベッドとして164名分を確保し、中央部と側部に通路を設けました。梁は全幅9mにわたって連結されるため強度が不足するので、中央通路部に支柱を立てて保持しましたが、構造とベッドが交錯し、通行上はかなり不便です。

さらに、士官と上級船員あわせて16名の居室と航海室や、食堂などは上甲板後部の構造物に設けました。また、厠(かわや)は船尾に設けました。底板に穴が開いているだけのものですが、いまから50年くらい前の漁船や機帆船の厠はこのような構造でしたので、それに倣いました。

馬小屋は上甲板前部に設けました。軍馬には大量の水や飼葉と、糞尿処理が必要なことから通風の悪い船倉内での運搬は困難と考えられるからです。軍馬の数は、文永の役で捕虜となった蒙古兵の証言に、軍船1隻に軍馬は5頭積んでいたとあったのを採用しました。

上甲板には前述の通り後部に士官用居室や食堂、馬小屋などがあるほか、帆柱やウインチ、帆操作ロープが多く張られ、船倉ハッチもあります。さらに、飲料水の搭載が船底だけでは不足するので、上甲板上にも水甕を配置しました。

これらの推定をもとに、重量、重心や復原力を検討しました。復原性の目安であるメタセンタ高さ(GM値)が1mはあるため、帆に横方向から突風が吹いても復原性に問題はありませんでした。また、横揺れに関しても適正な範囲にあり、航海上の大きな問題はないものと考えられます。

蒙古軍艦隊の全容を推測してみる

元が高麗に建造を命令した軍船について、材料である木材の量や、人材についてもかなり難しい要求であると想定されましたが、要求された大型軍船の概要を再現してみると、規模の上からも、高麗が6ヵ月で300隻も建造することは、とうてい不可能であるということがわかりました。したがって、実際の蒙古艦隊の規模は、大型・中型の合計で約300隻としたと推定されます。

蒙古軍船団の陣容

軍船

新たに建造された大型軍船:150隻ほど

「三別抄(さんべつしょう)*」鎮圧時の中型軍船:150隻ほど

*三別抄(さんべつしょう):元に抵抗していた高麗の軍事組織。鎮圧により1273年に壊滅

兵員

1隻当たりの乗員(大型軍船):兵士と兵站兵で120名、船員60名の180名

1隻当たりの乗員(中型軍船):兵士と兵站兵で95名、船員19名の104名(三別抄攻撃の記録より推定)

総勢:約4万4000名(うち戦闘にあたる兵士の数:およそ2万6000名)

以上のように、見積もられます。軍馬については、前述のように蒙古の捕虜の証言から1隻当たり5頭までとし、蒙古艦隊すべてでは700〜1000頭前後であったと推定します。

一般的な軍隊の編制では、100人の部隊があれば3%、つまり3名の指揮官が騎乗して指揮をとります。蒙古軍の兵士と軍馬の割合はちょうどそのくらいであり、つまり指揮官クラスのみが乗馬し、そのほかは歩兵部隊という平凡な編制で、騎馬軍団というには値しないものだったことがわかります。

また、歩兵の多くは高麗兵だったと推定されます。というのも、副司令官には高麗人がいたからです。戦闘時には言葉が通じないと命令ができないので、高麗兵を指揮するために高麗人の将校が必要だったのです。つまり、実際に戦ったのは、蒙古兵の中に雇われ高麗兵が多数混じった、いわば寄せ集めの歩兵軍団だったと思われます。

このように考えていくと、日本を襲った蒙古軍の実体は「単騎の日本武士に集団で襲いかかる蒙古騎馬軍」といった通説とは、少なからぬギャップがあったようです。

蒙古軍の船団と士気を"揺さぶった"対馬海峡の波

ところで、人間の耳には「傾斜」を感知する耳石と、「回転」を感知する三半規管があります。身体の傾斜や回転の信号を脳に送り、筋肉を制御しています。

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耳の構造。3つの半規管で捉えられた身体の傾きや回転などの情報は、脳神経(内耳神経)を介して、脳に伝えられる Anatomy by gettyimages

このため耳石や三半規管は呼吸や循環器をつかさどる自律神経系と連絡していて、乗りものなどの揺れによって人体が加速度を受けると、これらを通じて自律神経が影響を受け、気分が悪くなったり、吐き気を催したり、食欲が減退したりします。船の場合は、揺れによって上下に加速度を受けて、船酔いになります。

船の揺れには、周期が短い振動(0.5〜80Hz)と周期の長い動揺(0.5〜0.1Hz)の2種類がありますが、周期の長い動揺のほうが、気持ちが悪くなる人が多いことがわかっています。

下のグラフは、船に1時間乗ったときの上下加速度と周期による嘔吐率の変化を示したものです。上下加速度の大きさは、自分の体重の何%の上下力が加わったかで示しています。

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船に1時間乗ったときの上下加速度と周期による嘔吐率の変化

0.1gなら10%です。これを見ると、船酔いは揺れの周期が4〜5秒付近で、上下加速度が0.1gくらいのときから生じていることがわかります。自動車は揺れ周期が1秒以下と短いので酔う人は少ないのですが、船の揺れは周期が長いので、多くの人が船酔いになるのです。

長時間の乗船については、ISO(国際標準化機構)が定めた乗り心地基準によれば、8時間乗船では揺れ周期3〜10秒の場合は、上下加速度は0.025g以下が推奨値となっています。自分の体重の2.5%以上の上下力が加わると船酔いするということです。また、長期間乗船するクルーズ船の基準は、上下加速度0.02g以下で、横揺れの角度は2度以下となっています。

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ISO(国際標準化機構)が定めた乗り心地基準

では、文永の役での蒙古軍船の揺れはどのようなものだったのでしょうか。

船の揺れを決めるのは、基本的には波の周期です。対馬海峡の11月の波周期は6秒(平均波高1.1m)です。上下加速度の大きさは、揺れの角度に比例し、揺れの周期の2乗に反比例します。揺れ角度より揺れ周期が短いと加速度は大きくなります。ただし、縦揺れは進行速度と波の方向によっても大きく変わります。また、船には固有の振動があり、これが波の振動の周期と近いと同調して、波の揺れよりも大きくなります。

加えて、半数以上の蒙古船が、波浪中の安定性に欠く波きり構造のない川船形状の船だったことも、揺れを大きくしたと思われます。

そうした蒙古軍船の揺れ特性も考慮して、船速3ノットで航行時の揺れの周期や上下加速度を、揺れの角度を波高1mと想定して算出すると、蒙古軍船は、長期間乗船の船酔い基準である上下加速度0.02g以下、横揺れ角度2度以下をいずれも超えています。したがって、蒙古軍船は航海中、凪のときを除けば明らかに船酔い発生領域にあったことがわかります。この状態で縦揺れが1時間も続けば、船に強い人でなければまず確実に船酔いになります。

蒙古軍船では、船員以外の兵士の多くは大陸系の人々だったことから、乗船経験が少なく、船には慣れていなかったと思われます。大勢が狭い船内に詰め込まれての長期間乗船では、船酔いの影響はさらに大きくなり、吐き気や嘔吐、食欲不振を強く引き起こしたと考えられます。

そのため兵士たちは体力を奪われ、博多上陸時には、控えめに見積もっても総兵員の3分の1ほどは、満足に戦うことができなかった可能性があります。対馬海峡と玄界灘は、蒙古軍にとって大きな難関だったのです。

「通説」にはない、不利な要素が目白押し

このように蒙古軍は、じつは博多に上陸する前から、大きなハンディを負っていました。しかも、その後も「通説」では語られていない不利な要素が、以下をはじめ目白押しでした。

300隻の大船団から全軍2万6000人の兵士と、700~1000頭の馬が浜に上陸するには、30隻の上陸艇が、船団と浜の間を少なくとも10往復しなくてはならない。1往復に1時間ほどかかるので、全員が上陸するには10時間かかる。午前6時に上陸を開始したとしても午後4時になり、この季節ではもう暗くなりはじめている。

全軍が上陸するまでは待てないので、上陸した部隊から順次、進撃させたものの、船酔いで体力・気力は低下しており、戦力も不備だったため、士気でまさる日本武士との戦いでは苦戦をしいられた。じつは日本武士は一騎討ちで戦うことはほとんどなく、むしろ集団騎馬突撃によって蒙古軍を蹴散らした。

結局、蒙古軍は短期間で九州を制圧することはとうてい不可能と判断し、その日のうちに兵を引いたのです。これが、蒙古軍が一夜で撤退した謎の、おおまかな真相です。そもそも蒙古軍は、上陸戦で失敗していたのです。

追い討ちをかけた玄界灘の季節風

船に引き揚げた蒙古軍は、本国への撤退を決意します。『元史』には、「冬月、元軍は日本に入り、これを破った。しかし元軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境を虜掠して帰還した」と言葉少なに記述されています。

蒙古が恐れたのは、旧暦11月になると吹きはじめる北西風の季節風でした。この北西風が吹き始めると玄界灘は大荒れとなります。同時期の2006年ごろのデータを見ると、 12月から翌2007年の2月までは最大風速10m以上の日が59日間、最大風速は21mと強風が吹き荒れています。九州から朝鮮半島に帰るには向かい風、向かい波となるので風速、波高は大きくなり、当時の30m級帆船では航海できないレベルとなります。

実は蒙古軍の出撃を前にした6月に、高麗国王の元宗の病死という、不慮のできごとが起こりました。このことにより、日本侵攻は10月に延期され、出征は3ヵ月も遅れることになったのです。そのため、任務を遂行するにはあまりにも短い期間しかなく、最終的にこのことが元軍の決定的な敗因として響いたのです。

筆者は、船の設計者としての知識と経験をもとに、蒙古軍船の性能から地理的条件や気象条件までを検証し、最も合理的であると考える文永の役の姿を、この度上梓したブルーバックス 『日本史サイエンス』で再現してみました。ぜひご一読いただければと思います。

日本史サイエンス蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る

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