「明石家さんま」とは何者なのか? 27年間、全発言を記録した男の肖像

「明石家さんま」とは何者なのか? 27年間、全発言を記録した男の肖像

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2021/01/19
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家族の介護と肉体労働に明け暮れ、家でも職場でもほとんど気が休まらない。1993年秋、20歳の青年は疲弊していた。憂鬱な1週間が始まった月曜日。23時半に布団に包まったものの、頭の中は明日への不安だけが渦巻き、溜息が止まらない。気を紛らわすため、何気なくテレビのリモコンを手にした。これが、運命の始まりだった――。

高田文夫や東野幸治も絶賛する書籍『明石家さんまヒストリー1 1955~1981 「明石家さんま」の誕生』(新潮社)が話題沸騰中だ。同書には笑福亭松之助への弟子入り、東京への恋の逃避行、島田紳助や笑福亭鶴瓶との出会いなど国民的お笑い芸人の知られざる下積み時代が綴られている。

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『明石家さんまヒストリー1』著者のエムカク氏

著者のエムカク氏は成人を迎えた年、偶然チャンネルを合わせた『痛快!明石家電視台』(MBS)に心を奪われる。間寛平、村上ショージ、ジミー大西がクイズでボケまくり、さんまが縦横無尽にツッコミまくる。あまりのくだらなさに時を忘れ、布団の中を転げ回って、何度も大爆笑した。

この時以来、エムカク氏は毎朝、新聞のラジオ、テレビ欄で「さんま」の文字を隈なく探し、番組が始まると全神経を傾けた。特に、長い時間を掛けて自身の逸話を語る『MBSヤングタウン』(MBSラジオ)は繰り返し聞き過ぎて、本当にカセットテープが擦り切れた。1996年、進む道を決定づける一言が、さんまの口から放たれた。

〈私は、しゃべる商売なんですよ。本を売る商売じゃないんですよ。しゃべって伝えられる間は、できる限りしゃべりたい。本で自分の気持ちを訴えるほど、俺はヤワじゃない〉(『MBSヤングタウン』1996年3月23日放送)

この言葉に感銘を受けたエムカク氏は、未来永劫、さんまの発言を記録しようと決意したという。それにしても、本名さえ明らかになっていない正体不明の“エムカク”は、どんな人生を歩んできたのだろうか。

20歳秋、『明石家電視台』の衝撃

1981年5月開始の『オレたちひょうきん族』、1984年4月からレギュラーになった『笑っていいとも!』(ともにフジテレビ系)などによって、さんまの名前は全国に轟いていった。翌年、NHK放送文化研究所の『好きなタレント調査』で、3年連続1位の萩本欽一に代わって初めて頂点に立つ。この頃、昨日見たテレビの話題で盛り上がるクラスの中で、エムカク氏は蚊帳の外にいた。

「友達と話していると、『松尾伴内』というキーワードがやたらと出てくるんですよ。『伴内』というあだ名の男子もいた。どういうことなんやろ? と疑問に思っていました。数週間経って、『ひょうきん族』に出ている人なんや、と知ったくらいです。たまに番組を見ても、さんまさんのキャラクターに夢中になった記憶はないんですよね」

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小学4年生の1983年7月、任天堂がファミリーコンピュターを発売。すぐに親が買ってくれたこともあり、没頭していく。

「夜はいつもやっていましたね。ただ、『さんまの名探偵』で遊んだ記憶はないです。あのゲームはさんまさんに話が通っていなかったので、ナムコのCMに出演していない。代わりに、紳助さんや(西川)のりおさんが出ています。今、裏事情を知った状態でプレイすると、また別の楽しさがあります」

中学では陸上部、高校ではアルバイトに明け暮れ、帰宅後はゲームにのめり込んだ。『男女7人夏物語』(TBS)や『あっぱれさんま大先生』(フジテレビ)などは見ていたが、さんまの人生を知りたいという欲は生まれなかった。それが、20歳の秋に見た『明石家電視台』で一変したのだ。中でも、夢中になった『ヤングタウン』には1996年から5年程、ハガキを送っていた。

「さんまさんの1週間の出来事を振り返り、リスナーが質問する『前略のコーナー』に投稿していました。複数のペンネームを使っていましたね。その後、『カラオケBOXさんちゃま』という替え歌コーナーに村上ショージさんのネタを送ったら、賞を取った。それが嬉しくて、『カリスマショージ』という名前で頻繁に書くようになりました」

自宅に篭って「さんまの年表作り」

2002年、闘病の末、同居する叔母が亡くなった。数年経つと、今度は母親が体調を崩し、面倒を見ることになった。

「どこにも出掛けられないので、飲みに誘われても全て断っていました。友達が全然いなくなりましたね。しんどかったですけど、さんまさんの番組を見れば、楽しい気持ちになれました。あの環境じゃなかったら、もっと遊んでいたと思うし、さんまさんのことを調べるのはやめていたかもしれないですね」

自宅に籠らなければならない状況を生かし、ラジオやテレビの発言を書き起こした130冊に及ぶノートを日夜パソコンに移行し、数百本のビデオテープをDVD化した。データベースを構築しながら、さんまの年表作りに精を出した。

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決して現状を否定することなく、出来ることに邁進した男にチャンスが訪れる。

ハガキ職人時代を思い出し、「長文を書く能力はないけど140字以内なら発信できるかもしれない」と2010年からツイッターを開始。

〈明石家さんまさんが小学校6年生の時に書いた卒業文集。「ぼくは、大きくなったらプロレスをやり、アメリカ、その他の国へいって、強い敵を破り、王者になりたい」杉本高文(奈良市立鼓阪小学校卒業文集「かどで」1968年3月)※2013年6月7日のツイート〉

このような詳細な記述に、水道橋博士が目を留め、ツイッターをフォローし始めた。2013年8月21日、エムカク氏は大阪のTSUTAYA梅田堂山店で行われた博士の出版記念サイン会に赴き、勇気を振り絞って声を掛けた。5日後、博士からツイッターにダイレクトメッセージが届く。メールマガジン『水道橋博士のメルマ旬報』への執筆依頼だった。

「ライター経験もなかったですし、不安だらけでした。でも、博士さんから『内容も字数も自由だし、いずれ作る年表のエピソードを積み上げていく感じで』とアドバイスをもらい、『明石家さんまヒストリー』の連載が始まりました」

誰よりも詳しくなった結果…

あまりに膨大で詳細な年表は、業界内で瞬く間に話題となった。2015年には、『誰も知らない明石家さんま』(日本テレビ)というスペシャル番組から「リサーチャーとして携わってほしい」と連絡が来た。

「嬉しかったですね。最初、『さんまさんが恋した女性を教えてください』というオーダーがきました。ネット検索でも、いくつか出てくるのですが、昔の情報はないんですね。自分のパソコンのデータベースを使って、女性芸能人の名前を挙げ、詳細なエピソード、さんまさんがいつ、どの番組で話したかも伝えました」

あらゆるデータの入っているパソコンに加え、1993年から保存してきた数千本に及ぶ番組映像も生きた。テレビで他局の映像を使用したい場合、視聴の請求をするだけで莫大な金銭が発生する。そのため、スタッフが事前にエムカク氏の所有映像をチェック。その後、正式に依頼をするため、相当な経費削減になる。誰よりも詳しい「明石家さんま研究家」は、単なるリサーチャーの域を超えている。

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「以前から、所縁のある人の出演番組も録っています。たとえば、『さんタク』で共演されている木村拓哉さん、『誰も知らない〜』のミニドラマでさんまさんの役を演じた菅田将暉さん、『さんまのSUPERからくりTV』(TBS)のレギュラーだった西村知美さんなど、さんまさんと深く関わった方が出演する番組も録画保存し、チェックします。そのため、キャスティング案を聞かれた時、すぐに提供できるという波及効果もありました」

1人の男を調べ尽くせば、付随する出来事や人物にも詳しくなる。『ヤングおー!おー!』(MBS)でさんまを厳しく指導した桂三枝(現・文枝)にも自然と精通していったエムカク氏は、2017年3月4日放送の『桂文枝の鶴瓶もさんまもいらっしゃい!』(ABC)にも資料を提供。さんまに心を奪われるきっかけとなった番組『痛快!明石家電視台』のスペシャル企画で、ブレーンとして携わるようになった。

27年間ほぼ毎日、ひとりの人物を追い続け、飽きる時はなかったか聞くと、即答した。

「ありませんね。さんまさんは『視聴者がいつ、どのタイミングでチャンネルを変えても、見た瞬間に面白い場面を見てもらいたい』というポリシーを持っているようで。常に1つひとつの番組に全力で取り組んでいるから、飽きないのかもしれません」

人との交流を遮断せざるを得ない状況で、家で1つのことに没頭したからこそ成し遂げられた一冊。それは、エムカク氏が明石家さんまと同様に日々を懸命に生き抜いてきた証でもある――。

(撮影:村田克己)

(つづきはこちら:明石家さんまが数十回話した「鉄板トーク」、その真実を検証する方法)

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