北朝鮮の独裁者をものともせず民政に力を注いだ趙世雄と延享黙

北朝鮮の独裁者をものともせず民政に力を注いだ趙世雄と延享黙

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  • 更新日:2021/11/26
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ナンバー2が存在しない北朝鮮。写真は若き日の金正恩総書記(写真:KRT via AP Video/AP/アフロ)

北朝鮮にナンバー2は存在しない。韓国をはじめとした世界のマスコミがナンバー2に言及するが、それは北朝鮮という一人の人間を頂点にした絶対独裁国家を自分たちの枠にはめた視点でしかない。

事実、北朝鮮のナンバー2と目された人々は不遇の死を遂げてきた。金正恩総書記の叔母の配偶者である張成沢(チャン・ソンテク)や腹違いの兄である金正男(キム・ジョンナム)氏などである。

そんなナンバー2の存在を許さない絶対独裁国家の権力者の生存法を紹介しよう。対外的に有名ではない二人の人物に関する話である。

(過去分は以下をご覧ください)
◎「北朝鮮25時
(https://jbpress.ismedia.jp/search?fulltext=%E9%83%AD+%E6%96%87%E5%AE%8C%EF%BC%9A)

(郭 文完:大韓フィルム映画製作社代表)

趙世雄(チョ・セウン、1928-1998年)は1982年から1987年まで、咸境北道(ハムギョンプクト)の知事に相当する党責任書記を務め、1989年から1990年まで平安北道(ピョンアンプクト)の党責任書記を務めた。趙世雄は先々で地域住民の生活を向上させたため、人々の人気を集めた政治家である。

咸鏡北道は豆満江、平安北道は鴨緑江を挟んで中国と隣接する。趙世雄は中朝国境地域という地理的な利点を活かして国境貿易を活発に進め、住民の経済生活を向上させた。

書記時代の趙世雄は地域住民の生活を向上させるため、4つの原則を貫いた。

第一に、朝鮮労働党や特殊機関に対する貿易特権の制限だ。趙世雄は労働党や軍、国家保衛機関の貿易特権を制限する一方、地域の貿易機関に相応の権限を付与した。

例えば、地域経済を活性化させるため、咸鏡北道の特産品であるマツタケの採取権と貿易権を朝鮮労働党や特殊機関から地域に移すことを当時のトップだった金日成に提案した。平安北道でも、西海岸に散在していたアサリ養殖場を地域経済事業として再編した。

第二に、地方権力層の不正腐敗の撲滅だ。

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住民の圧倒的支持を得た趙世雄が生き残った理由

趙世雄は党責任書記に赴任するやいなや、地方権力層の不正撲滅に着手した。権力を利用して不正を犯した官僚らを処罰し、公正性を確立したのだ。この政策は地域住民に熱烈に支持され、趙世雄が地域経済の活性化を推進する原動力となった。

第三に、行き詰まっていた貿易規制の緩和だ。それまで貿易は国家が管理していたが、中朝国境沿いという地域特性を最大限に活用するため、地方でも貿易が直接できるように党に訴えた。

そして、中国との貿易に従事する人々が自由な環境で収益を得られるようになると、地域経済が著しく発展した。趙世雄が担当した地域の財政自立度は北朝鮮各地域の中で1位となった。

第四に、貿易で稼いだ収益の地域住民への配分だ。中国との貿易では代金の支払いが物々交換になることが多い。その時に、趙世雄は手に入れた食料を地域住民に分配していた。平壌より経済状態や生活水準が向上した地域住民の間からは、「趙世雄万歳」の声が上がった。

金日成、金正日、金正恩に対する万歳だけが許される北朝鮮で、地方官僚に向けられた「万歳」は趙世雄の政治的終末を告げかねない危険な声だったが、趙世雄は党中央委員会や内閣の書記などを歴任し、晩年には最高人民会議代議員を務めている。民政だけに忠実だったからだろう。

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粛正された金正恩総書記の叔父でナンバー2だった張成沢氏(写真:ロイター/アフロ)

もう一人の生き残りは延享黙(ヨン・ヒョンモク、1931ー2005年)である。父親が金日成のパルチザンとして戦死した関係から、革命烈士の子供たちだけが入学できる万景台革命学院で学び、朝鮮戦争時には「親衛中隊」で金日成の近接警護を担った。

1951年から1957年までチェコスロバキアのプラハ工業大学機械工学科に留学し、北朝鮮軍の手工業部門を担当する労働党書記として活躍した。

延享黙がチェコ留学を終えて帰国した時、金日成は「万景台革命学院出身者の中で最も賢く、科学技術に長けており、度胸がある。軍需工業部門を担当すればうまくいく」と絶賛した。

延享黙がソウルであえて失態を犯した深謀遠慮

背が高くがっちりした体格の延享黙は見た目の印象もよかった。延享黙の率直な言葉遣いには品格があり、核心だけを述べる言葉はわかりやすくてきれいだった。決して雄弁ではなかったが、何も言わずに静かに立っているだけで、好印象を与える生まれつきの好男子だった。

金日成と金正日のいずれからも厚い信任を得た延享黙は、二人に同行した時も軽薄な態度を示すことなどなかった。延享黙は金日成と金正日に率直に意見を述べたが、金日成と金正日が気分を害することは全くなかったという。

彼は過不足を知っていた。金日成や金正日に尋ねられた時も、尋ねられる前に口を開くことはなく、黙って笑みを浮かべる影のような人物だった。目下の人々に対しても品位をもって敬語を使うなど、他人を不快にさせない何かがあった。

政務院総理に就任した延享黙は、1990年9月から12月まで南北高位級会談代表団長としてソウルを訪問した。人柄や振る舞いからは柔軟さと重み、穏やさや真剣さが感じられる延享黙は韓国内での人気も高かったが、延享黙はソウルで決定的な失態を演じた。

国内外の記者たちが見守る中、韓国の伝統酒「ムンベ酒」を飲み、「一日でも早く北と南が一つに統一され、中国の東北3省地域を訪ねていかなければならない」と語ったのだ。かつて高句麗の領土だった中国の東北3省地域を訪ねることを意味していた。

延享黙の発言が外信を通じて報道されると、中国政府は北朝鮮政務院総理がソウルで行なった発言に対する強い不満と遺憾表明を伝え、金正日に延享黙の解任を求めた。

なぜ延享黙はあり得ないような失言を放ったのか。結論から言えば失態ではなく、意図的な失言だった。

粛正されずに生き残った二人の違い

延享黙は韓国内での高い人気が、自身の死を意味することをよく知っていた。そこで、延享黙はわざと酒の席で失言を述べたのだ。中国政府にとっては我慢できない発言だが、北朝鮮では学校で常に学んでいる歴史教育の一部であり、十分に受け入れられる内容である。

中国の要求を受け入れた金正日は延享黙を総理職から解任し、慈江道党責任書記に降格したが、総理時代の専用車両を与えた上に、党中央委員会政治局委員職はそのままとした。

北朝鮮史上、地方の党責任書記に対するこのような「特恵」は後にも先にも例がない。延享黙が慈江道党責任書記に就任すると、慈江道住民は金正日から多くの支援と恩恵を受けた。ただ、延享黙は自身への便宜ではなく、慈江道軍需工業地区への金正日の愛と配慮だと周りに認識させた。

趙世雄と延享黙の違いは純粋さと老練さだ。一人は独裁国家をものともせず、純粋に民政のために働いた。もう一人は北朝鮮社会の属性をよく知り、民政と自身の生存を両立させた。北朝鮮権力層の生と死の法則である。

郭 文完

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