痩せっぽちの投手・安仁屋宗八が「巨人キラー」と呼ばれるまで

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2017/09/17

沖縄県出身の初のプロ野球選手として知られる安仁屋宗八氏。高校卒業後に入団した社会人野球での活躍がスカウトの目に留まり、プロ入りの話が舞い込んだが、本音は行きたくなかったと話す。

その理由のひとつに言葉の壁があった。本土に行けば標準語を話さなければいけない。シャイな性格に不安を抱えたまま、結局は広島カープに入団することになったのだが…

第1回はこちら→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52877

打率はいいが、守備はザルだった

――広島から、現役選手でありながらスカウトとして沖縄にやってきたフィーバー平山さんと言えば、日系二世ですよね。

安仁屋 そうです。言葉も片言の日本語しかしゃべれなかった。逆に、それがよかったのかもしれない。一生懸命しゃべるから、ウチのオヤジが人柄に惚れてしまったんです。“この人に任せたら大丈夫だ!”ということで広島に入団することになったんです。

――沖縄はまだ本土復帰前だから日本で働くには“就労ビザ”が必要だったのでは?

安仁屋 はい。1年置きに申請していました。それが3年になり5年になり……。これは本土復帰まで続きました。

――同期で入団した選手は?

安仁屋 今、広島のスカウト統括部長をやっている苑田聡彦がいました。彼は三池工高の出身だから福岡で待ち合わせをして一緒に広島に入りました。彼も僕もオヤジと一緒だから4人です。

まず二人で監督室に行きました。そこで当時の白石勝巳監督が苑田を見て「オマエ、ええ体しとるのォ。楽しみやなァ」と。続いて僕を見て、「オマエは野球やっとったんか?」ですよ。いくら僕が体が細いといっても、その言い方はないでしょう。

――沖縄出身第一号とはいえ、都市対抗まで出ているわけですからねぇ。

安仁屋 ものすごくショックでした。だから、「これはもう、すぐに辞めて帰るかもしれない」とオヤジに話しました。

――そんな選手が広島のエースになるわけですから、人生とはわからないものですね。

安仁屋 わからないと言えば、チームもそうです。高校時代の監督が入団前に野球名鑑を買ってきて、いろいろと広島のことを調べてくれた。

監督が言うには、広島はチーム打率が二割七分か八分はある、と(実際には二割五分三厘=1963年)。「ここはよく打つから、すぐに行った方がいい」。確かに山本一義さん、興津立雄さん、藤井弘さん、大和田明さん、横溝桂さん、森永勝也さんら好打者が揃っていた。ところが皆、守りが下手なんです。

――安仁屋さんのようなシュートピッチャーは“打たせて取る”わけですから、とくに内野の守備は重要ですよね。

安仁屋 それが困ったことにザルだったんです。サードの興津さんは腰痛持ちだから動いてくれない。ファーストの藤井さんにいたっては内野フライを捕っただけで“おお、よう捕った”とスタンドから拍手が起きていましたよ。

「巨人キラー」になった裏事情

――投手陣は、どんな面々でしたか?

安仁屋 エースは長谷川良平さん。他に大石清さん、池田英俊さん、鵜狩道旺さん、大羽進さんらがいました。

――入団したのは1963年でしたが、途中入団だったため、この年は出場機会はありませんでした。実質一年目となる1964年、38試合に登板し、3勝8敗という成績を残しています。

安仁屋 初勝利は6月14日の巨人戦。九回を投げ1点しか取られませんでした。

――安仁屋さんは広島と阪神で通算119勝(124敗)をあげています。そのうちの34勝が巨人から。昔から“巨人キラー”というイメージがあります。

安仁屋 それには理由があるんです。1964年に長谷川さんがピッチングコーチになった。長谷川さんが僕に「ハチ(安仁屋の愛称)、オマエは実績を残したいか、人気を残したいか?」と聞いてきたんです。

僕は何の意味かわからないので、「それ、何ですか?」と聞き返した。要するに巨人戦にばかり投げればテレビに映って人気者にはなれる。その代わり、勝ち星はあまり増えない、という意味なんです。

――それで安仁屋さんは、「人気を残したい」と言ったわけですか。

安仁屋 いえ、違います。「それは僕が決めることじゃない。長谷川さんにお任せします」と。「じゃあ、いいんだな」と言われました。結局、僕は巨人戦専用になった。長谷川さんには「巨人との三連戦、オマエは全部投げるつもりでベンチに入れ!」と言われましたよ。

――ON(王貞治と長嶋茂雄)との対決は、やり甲斐があったでしょう。

安仁屋 僕はこの二人から見逃しの三振をとった記憶がほとんどないんです。当時は“王ボール”“長嶋ボール”というものがあって、コースぎりぎりに決まったと思えるようなボールでも、ストライクにとってもらえないんです。

要するにあの2人が振らない限りは全部ボールなんです。特に後楽園でやる時は、その傾向が強かったですね。

外木場だけには負けたくない

――沖縄では安仁屋さんが投げる巨人戦は、電気屋の前に黒山の人だかりができたそうですね。

安仁屋 前にも言いましたが、沖縄は巨人戦しかやっていませんから。それも広島対巨人戦となると月に1回あるかないか。僕は親孝行のつもりで投げていましたよ。

――巨人戦のハイライトと言えば1966年7月31日、広島市民球場での試合です。九回二死までノーヒットノーランでした。

安仁屋 ノーヒットノーランまであとひとりにこぎつけながら黒江透修さんに三遊間を破られたんです。バット折れたんですけどね。

――痛恨の打球ですね。

安仁屋 いや、それほど悔しくなかったですよ。それよりも三番の王さんに回してしまったことの方が嫌でした。スコアは2対0ですから、ホームランが出れば同点にされてしまう。何とかファーストゴロで切り抜けることができましたが……。

――回が押し詰まってきてもノーヒットノーランのことは意識しませんでしたか。

安仁屋 それは全くなかったですね。監督も僕に気を遣わせまいとして、ほとんどメンバーを代えませんでした。守備要員とか使うと、僕が(ノーヒットノーランを)意識してしまうと考えたんじゃないでしょうか。

――大記録を伏兵が阻むというのはよくあることです。

安仁屋 黒江さん、ボクに悪いことをしたと思っているんでしょうかねぇ。ゴルフに誘ってくれたり、OB会でもよく面倒を見てくれるんです。今でもそうですから(笑)。

まぁ、でも今となっては巨人相手にノーヒットノーランをやらなくてよかったと思っています。もし達成していたら、僕の性格からしてテングになって遊び呆けていたかもしれない。それを考えると、あそこで打たれてよかったのかもと……。

――キャリアハイの成績を残したのは1968年です。57試合に登板して23勝11敗、防御率2・07。最多勝は25勝をあげた阪神の江夏豊でした。

安仁屋 1968年というのは根本陸夫さんが監督に就任して広島が球団創設以来、初めてAクラス入りした年なんです。根本さんには付きっきりで指導してもらった。キャンプでは1日500球投げたことを覚えています。それも毎日。オープン戦が始まっても投げ込みを続けていましたから。

――この年は一つ年下の外木場義郎さんも21勝(14敗)をマークしています。安仁屋・外木場の二枚看板時代の到来です。

安仁屋 外木場はどうか知らんけど、僕はライバル心を燃やしていましたよ。外木場が勝ったら“よし、ワシもやっちゃろう”とね。外木場が負けたら負けたで“よし、追い越すチャンスじゃ”とも思っていました。

身内でありながら、外木場には負けたくないという思いが強く、それが23勝に結び付いたと思うんです。ともあれ、外木場は素晴らしいピッチャーでした。完全試合も含めてノーヒットノーランを3回もやっている。彼がいたから僕も頑張れたんだと感謝しています。

読書人の雑誌「本」2017年7月号より

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