2021年の小池百合子、都知事を辞任し衆議院選出馬はあるのか?

2021年の小池百合子、都知事を辞任し衆議院選出馬はあるのか?

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2021/01/13
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隠れたテーマとしての「ミソジニー」

石井妙子氏は『女帝 小池百合子』の最終盤で、こう書く。

「女性初の防衛大臣、都知事、さらには総理の座にも手をかけようとする女性の誕生を今、同時代を生きる者として目にしている。それなのに、気持ちは重く塞ぐばかりだ。彼女の快進撃を女性の解放として、女性が輝く権利を手にしたとして、これまでの女性たちの苦難の道の末に咲かせた花であるとして、受けとり、喜ぶことが、できない。女性たちには、より高い教育、より自由な環境が与えられたはずであるのに、その歩みはどこへと向かっているのだろう。これは社会を主導してきた男の罪なのか。それとも女の罪なのか。戦後女性の解放の、これが答えなのかと考えさせられ、答えが出せないでいる。」

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石井氏は『女帝』の執筆にあたり、小池氏の著書や都議会での議事録なども読み込み、フェミニズムの観点から、女性学研究者の田嶋陽子氏にも話を聞いたという。都知事選に関する毎日新聞のインタビューでもそのことに触れている。

「そこで浮かび上がってきたのは、永田町という究極の男社会の中で、居並ぶ男たちと対立せず、むしろすり寄ることで、より高い地位を目指そうとする女性政治家の姿」であるとしているが、別にそれは田嶋氏に聞かずともわかるだろう。

その上で石井氏は、「小池氏は男性中心社会が作り出してしまったスターであり、モンスターだと思います。男社会とは正面から戦わず、男の人にひっぱってもらって泳いできた」という。

そして、小池氏の「活躍」は男性社会が作り上げたものであり、決して実力ではない。男を踏み台にして得た鑞(ろう)で作った「イカロスの翼」で太陽に近づいていく小池氏は「自分たちとは違う」と、論を展開していく。そこに、ゆがんだミソジニーを感じるのは私だけだろうか?

社会学者・江原由美子氏はミソジニーの概念を説明した上で、女性政治家に対するメディア上の「ミソジニー」についてもこう言及している(参照「『ミソジニー』って最近よく聞くけど、結局どういう意味ですか?」)。

「彼女たち(アメリカのヒラリー・クリントンやオーストラリアのジュリア・ギラード)は国のトップに立った、あるいはそこを目指した政治家であった。それはつまり、家父長制秩序においては、女性として男性に与えるべきとされている称賛や尊敬、援助・気遣いなどを、男性に与えないだけではなく、逆に、女性である自分自身に与えるように、要求することであった。
だからこそ、彼女らは、「強欲である」とか「ずるがしこい」等の、同じことをしている男性候補者には決してなされない非難を、男女の選挙民から、大量に受けることになった」

女性に関わるメディア報道、特に女性についての政策や女性政治家に関する報道に見られるミソジニー。

斎藤氏が「フェアじゃない」とするのも、そこにあるだろう。そもそも『女帝』という、大仰な、決して歓迎されない称号を書名とすること自体に違和感を持つ。

「なんでも作ってしまう人だから。自分の都合のいいように。空想なのか、夢なのか。それすら、さっぱりわからない。彼女は白昼夢の中にいて、白昼夢の中を生きている。願望は彼女にとっては事実と一緒。彼女が生み出す蜃気楼。彼女が白昼見る夢に、皆が引きずり込まれている。蜃気楼とも気づかずに」

本を閉じたときに思い出したのは、本文中の一節である。

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〔PHOTO〕gettyimages

政治家が自ら語る足跡は「盛り」と「削り」に満ちている。もしかすると、小池氏のエピソードのほとんどは、男性政治家であれば「武勇伝」の域にされるものだろう。

『女帝』ではそれらを「学歴詐称をする女」であることの外堀を埋める証明にしようと考えたからこそ、次から次へと小池氏の不誠実ぶりを示すエピソードが示されるのだろう。

もちろん公職選挙法では経歴詐称は公職選挙法違反になる。それならば相当の処分を受けるべきだと思う。

しかし、カイロ大学は正式見解として小池氏を卒業生として認めていた。小池氏はこうした事態に至ることをもしかすると留学以前から予測していたのかもしれない。だからこそ、ヨーロッパでもアメリカでもなく、エジプトに飛んだのではないか。

断髪式YouTubeの衝撃

2009年の衆議院選挙、小選挙区で敗退、比例区で復活した小池氏は、「臥薪嘗胆」を誓い「髪を切らない」という選択をする。

選挙に負けて「丸刈り」にするといったシーンは度々見かけるが、逆に「髪を切らない」のは聞いたことがない。自分に課した罰ゲームであることは、すぐにわかる。

ショートカットがトレードマークだった小池氏だったが、ある程度の長さになるまでの途中経過はカチューシャをしたりと、工夫をしていたものの、傍目に見ても魅力は半減した。颯爽とした小池氏はどこへやら、一気に加齢して見え、すっかり目立たない存在となってしまったのだ。

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〔PHOTO〕gettyimages

2012年に小選挙区で当選すると、「断髪式」としてそれをショーにした。今もその様子はYouTubeから見ることはできる。高野之夫豊島区長、三原じゅん子参議院議員、河村建夫衆議院議員が次々はさみを入れる。その間小池氏は濡れた髪のままである。

もとのショートカットに戻った直後、彼女はこう挨拶している。

「全くの不評でした。10人の人にどう? と聞いたら11人が似合わないと言いました。なんでひとり増えているかというとワタクシ自身がそう思っていたからです」

「自分の姿を実物よりも少しでもキレイに見せたい」と思うのは古今東西老若男女共通の思いだろう。

特にテレビに出て、その美貌を常に賞賛されてきたであろう小池氏が、髪をひっつめ、今まで着ていた服ともアンバランスとなった状態を心地よいと思っていたとは考えられない。

毎朝、鏡を見る時にどんな気持ちだったのだろうか。それを自分だけでなく、人目に晒すことによって、さらに自分を戒め、反撃へのモチベーションをあげ続けたということなのだろうか。

女性にとっては髪を切っている瞬間は相当にプライベートなもので、ある意味風呂場の延長上にあるようなものだ。それをあえてさらすことができるのが、小池氏の強みであり、「簡単で、お金がかからず、効果がある」という、小池氏の、いつもの広報戦略であろう。

いずれにせよ、小池氏が自分の最も魅力ない姿を晒しているYouTube動画からは、石井氏が書くような「アザ」や従姉妹への容貌コンプレックスが今の小池氏を突き動かしている原動力ではないことがわかる。

石井氏のペルソナとしての小池百合子

ノンフィクションの作家がその「宿命」として受けるのは、作品はそのときの自らを映し出した自叙伝にもなっているということである。

取材の方法やアプローチについて過去の作品が検証されると同時に、未来の作品もこうした手法のもとで書かれていくのだろうと読者に予測されるわけだ。『女帝』の終盤では、取材方法等について記載がされているが、その意図も理解できる。

石井氏自身もこの本が読み物として完結するためには、重大なピース……小池氏との直接対決が欠けていることに対して、何らかの思いがあったのだろう。しかし、数回にわたり取材を申し込んだが断られたことも書いてある。

ただ、小池氏に直接会ったからと言って、内容が変わったとも思えない。『女帝』が描いたのは小池百合子氏というよりも、石井氏のペルソナとしての小池百合子像だからだ。

小池百合子は「女帝」でもなんでもない。ただただ、戦後の日本、高度成長期を、それぞれの武器を使って生き抜いてきた最初の世代の女性のひとりである。

平成という時代を書きたいと言った石井氏が重点的に描いたのはむしろ昭和であるというのも象徴的である。

男の下心を利用しながら上昇し、最終的には男を利用せずとも生きていける地位を確保したいという小池世代をどう理解したらいいのか。その地続きにある石井氏、そして私も含めた次の世代は、この国の政治を動かすのに、小池氏ほどの力を持たない現状をどう理解したらいいのか。平成という時代への問いはむしろ、自分たちに向かうものなのではないだろうか。

石井氏は小池氏に直接会うことが叶うなら、どんなことを聞くのかと自らに問うている。

「崖から飛び降りたことを後悔しているか、それに見合うだけの人生は手に入れられたか、自分の人生を歩んでいるという実感はあるのか、あなたは何者になったのか。そして、太陽はあなたに眩しすぎなかったか、と聞くだろう。」

本気でそう聞くつもりなのか。「小池氏は男性中心社会が作り出してしまったスターであり、モンスター」という見方は、一面的すぎないか。

ひどい「父親」の排除

最初に紹介した「女詐欺師もの」の最大の特徴は、前出『女詐欺師たちのアメリカ―19世紀女性作家とジャーナリズム』を参照すれば、以下のような女性の世界の価値観が結集されていることである。

演技力や情報収集力など、自らにそなわったさまざまな能力を生活の保障や社会的地位を確保するために詐欺に利用し、女性たちが社会変革に臨むというのが「コンフィデンス・ゲーム」である。

奇抜な発想力、即座の判断力、優れた演技力、洞察力。「女詐欺師」として、夢をかなえようとする娘の模範となったのは父親である。しかし、実はそれは「ひどい父親」を排除するための逆説的な模倣であり、それを決意させるのは母なのだ。

娘は、家長に奉仕する「家政婦の地位」から母親を解放し、女性が人間としていかされる民主的な家庭を作ろうと決意する。親に従属する「良い娘」を演じて父親を喜ばせつつ、自らもその分野の勉強に力を注ぐ。親は自分の性質が子どもに引き継がれることを好むという父親の虚栄心を満足させ伝統的ジェンダー概念を越える能力を発揮するのだ。

詐欺はだます相手から金銭を奪い取ることを目的にしていない。無力な女性たちの精神的・経済的自立を支援すること、金銭は他人から奪うものではなく、自分で働いて得るものである。彼女のコンフィデンス・ゲームは、女性の自立、および自立支援のさまたげになるものを排除する手段以外の何物でもない。

ただ、「女詐欺師」となった娘たちは、その原因を夫の従属的地位に甘んじている母親自身の側にもあると考えていた。社会と遮断されていた生活を営む家庭の主婦には想像しがたい、男の苦しみがあるという思いからだった。家父長制が女性の人生ばかりではなく、男性の人生をも破壊すると、経験上知ったのである。

女性が単独で生きるすべをもつことが難しかった時代、憲法が変わり、民法で保証されている権利があるにもかかわらず、実際にそれを手にすることはできなかった頃に青年期を迎えた小池氏。

男性であればキャリアを追求する有効な手段となる想像力や勇気などの特性が、女性であるために矯正すべき欠点とみなされる。

戦争を体験し、もはや男性の命令に従って生きていてもどうにもならないことはわかっているというのに、男性に従わざるを得なかった母親たちの苦悩や理不尽を十分に目にした世代でもあった。

どうだろうか、物語で描かれる『女性詐欺師』たちと、小池氏のバックグラウンドは重なる部分は多い。

ただ、唯一、そして大きく違うところは、ヒロインたる「女性詐欺師」たちは個人の自由を獲得するばかりか、同じ境遇にある次世代の女性を助け、失意の人々を団結させ、傷ついた人々を自由にする点である。

女の価値観を分かち合いながら異なった人種・地域などの代表になることで、個人の自由を獲得するばかりか、同じ境遇にある次世代の女性を助けるために人生を生き抜くための「詐欺行為」に及んでいる。

小池氏にはその意識はない。あくまで自分自身に向かい、他者への関心や共感は閉じているようにみえる。

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〔PHOTO〕gettyimages

久高島を求めた小池氏

2012年のことだ。筆者が講演に呼ばれて沖縄に行った際、久高島に寄った。

久高島(くだかじま)は、琉球の始祖“アマミキヨ”が降臨したと云われ、琉球王朝時代から、五穀発祥の地として神事がおこなわれ、女性が祝王を務めるという意味でも神聖なる島とされる知る人ぞ知る「女性の島」だ。

現地でガイドを頼むと「どんな仕事をしていますか?」と聞かれた。衆議院議員であることを伝えると、ある話をしてくれた。

「この島に来たくても入れなかった女性政治家がいるんですよ。誰だかわかりますか?」

女性議員と聞いて頭を巡った人を答えるが、いずれも不正解だった。

「小池百合子、ですよ。島に来る予定ができると天候が荒れてフェリーが欠航になったり、急な選挙、それから大臣になったりで、島には入れていないんですよ。この島はわかるんですよ。自分のためだけに政治をやっている人は入れない」

その後、小池氏が久高島には行けたどうかは知らない。ただ、彼女が久高島に格別興味を示していたのは間違いない。なぜ女性がまつりごとを司る島に関心を寄せたのか。何らかのパワーを求めていたのか。

小池氏に質問ができるとしたら、そこを聞いてみたい。

2021年の小池百合子

今年、2021年は東京都議会議員選挙、衆議院選挙と大きな転機となる年である。

小池氏は「ポスト菅義偉」として常に名前があがり、二階氏とのパイプで自民党に復帰するのではないか、また国民民主党と組んで、山尾志桜里と二枚看板で闘いを仕掛けるのではないか等々、さまざまな憶測がやまない。

小池氏が総理を目指すとしたら、残り少ないチャンスとみられる次の選挙でどんな闘いを仕掛けるのであろうか。コロナ対策で後手に回る菅政権の支持率低下を見ながら、今度こそ、自分の出番が来るとほくそ笑んでいるのか。そして、最後まで男性政治家を模範したままで終わるのか。

「物語」はまだ、続いている。

前編「多くの人がまだまだ知らない『小池百合子の正体』」はこちら

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