エネルギー小国日本の選択(5) 臨戦態勢のエネルギー産業

エネルギー小国日本の選択(5) 臨戦態勢のエネルギー産業

  • THE PAGE
  • 更新日:2017/09/22

1931年の満州事変を発端とし、日本は国力を結集した総力戦に突入していった。軍部の戦いやすいように法制が変わり、エネルギー産業の構造は組み替えられ、人も企業も戦争に駆り出された。膨張する軍事費や労力に反比例するように、国民が使える電気や生活品は少なくなり、困窮を極めていく。日本はアメリカからの石油禁輸が致命傷となって敗戦の運命を辿ったが、その過程で出来上がって今に残る電力、石油業界の枠組みも少なくない。

唯一の被爆国となり、日本は降伏した。エネルギー資源を確保する重要性を骨身に染みて学んだ。それが現在のエネルギー政策の根幹を成していると言っても過言ではなく、不戦の誓いとともに、戦争の教訓として受け継がれている。

今回は激動の戦時下で変革の荒波に揉まれたエネルギー業界の動きを追っていく。

電力は戦力

No image

軍部台頭著しい日本 (1930年代)(提供:MeijiShowa.com/アフロ)

「欲しがりません勝つまでは」 ── 。戦況拡大が続く中、1937年の近衛文麿(1891~1945年)内閣で女性や子どもなど非戦闘員を含む全国民に耐乏の精神が説かれた。「国民精神総動員」の政策で「ぜいたくは敵だ!」と節制を求めたり、「パーマネントはやめましょう」と当世風の髪型の自粛を促したりするスローガンが次々と掲げられた。

冒頭の、最も有名な標語の一つは「勝つまでは欲を捨てよう。お国のために尽くそう」という掛け声の下に国民の一致団結を図り、徹底した禁欲を社会通念として事実化していった。

精神論による統制とともに、1938年には国家総動員法が制定された。総力戦のために人的、物的資源を政府がコントロールできるという法律だ。

これは、1918年の軍需工業動員法が源流となる。日清、日露の両戦争と第1次世界大戦を踏まえ、総力戦体制の構築が急務だとする声の高まりから制定された。戦時に不備がないよう、平常時に産業を保護、育成し、戦時には軍用に使える企業の所有物を政府が管理できることを定めた。

さらに進んで1926年に国家総動員機関設置準備委員会、翌1927年には内閣資源局が設置された。満州事変を経た1937年、資源局は国策を立案する強大な権限を持つ企画院へと改組され、あらゆる資源を掌握するようになる。ここでいう資源とは、気候や土地、動植物などの自然資源と、人的資源の両方を指していた。

国家総動員法と同時に1938年、電力管理法や日本発送電株式会社法などから成る電力国家統制法も施行された。電力管理法は、1936年の電力国家管理要綱の閣議決定を踏まえ、企業や自治体全てを対象に国内の電力施設全てを国が接収、管理する内容だった。

東京電燈や東邦電力など五大電力は激しく反発したが、長期化する戦局や官僚の強い意向には抗しきれず、電力産業の国有化が進んでいった。1939年4月に逓信省に電気庁ができ、同日、発電と送電を担い、戦後1951年まで存続した半官半民の日本発送電、通称「日発」(ニッパツ)が発足した。

No image

軍部台頭著しい日本 (1930年代)(提供:MeijiShowa.com/アフロ)

一方、家庭への戸別配電は従来の電力会社が担った。太平洋戦争直前の1941年には配電統制令が出され、配電事業で全国を九つのブロック、すなわち北海道、東北、関東、中部、北陸、近畿、中国、四国、九州に分け、400社超あった事業者は9社に集約された。これが現在の沖縄電力を除く大手電力9社の源流となった。

こうして国家統制が進み、「電力は戰力!」と訴えるポスターも作成された。「日本中の家庭が深夜中電燈を消すと飛行機三〇〇台分、戦車三〇〇〇台分の電力が節約される」と節電を呼び掛けたが、戦況悪化に伴い、電力不足は深刻さを増していった。

戦争の非常時に国が統制を強めていったのは、石油産業も同様だった。1933年、商工省(今の経済産業省)などの協議会が中心となり、有事の際の石油の円滑供給を見込んだ「石油ノ民間保有」や「石油業ノ振興」が柱の「石油国策実施要綱」が作成された。これに続き1934年に石油業法が施行され、同年商工省に燃料課が、1937年に外局に燃料局が新設された。石油業法は日本企業の保護が目的だったため、外資系のスタンダード石油などは反発した。しかし法を盾に石油販売の割当制が導入され、過半を占めていた外資の国内シェアは次第に低下し、日本勢のシェアが逆転していった。

石油資源開発法の公布

No image

歴史的出来事とエネルギーを巡る主な法制度

1938年には石油資源開発法が公布され、国内の油田開発が進められた。電力業界は1936年に国家管理要綱が閣議決定されて国有化の色合いが濃かったのに対し、石油業界では日本石油(今のJXTGホールディングス)を中心とした民間主導による産業活性化を、政府は期待していた。

しかし思ったような成果が上がらず、戦局の混迷も相まって国は統制を強めていく。1941年、戦前の石油業界再編の一大事となる帝国石油株式会社法が制定され、同年に国が50.0%を出資する半官半民企業が誕生した。オランダ領ボルネオやエクアドルの石油権益を持ち、政府が掲げた南方油田の開発に注力していくこととなる。
国内では国家総動員法に基づき、軍部の石油事業要員として企業が数千名規模の出動態勢も整えていった。1941年には消費規制で自家用車やバスなどのガソリン消費が禁止された。石油の代わりに、石炭や木炭が燃料に使われていたという。
その後終戦を迎えるまでには、日本石油や旭石油などから鉱業、つまり開発部門も切り離して全資産を帝国石油が吸収することとなった。樺太(サハリン)などほとんどの国内鉱区を帝石が握った。また海外でも1944年に、スマトラ島中部のミナス油田を開発した。戦後、ピーク時の1974年には日量42万バレル台を生産した東南アジア最大級の油田だ。

ただ、ABCD包囲網、アメリカの石油禁輸措置のダメージは大きく、日本は不利な局面を打開するには至らなかった。なお、石油の開発と元売りで分かれている現在の業界構造も、戦時に国策で進んだ再編の名残だ。

一方で石炭は1940年に国内生産量が5630万トンとなり、戦後も含め過去最高を記録した。各地で採れ、製鉄や発電動力、蒸気機関車など多方面に使われた。豊富な埋蔵量を背景に、当時注目されていたのが石炭から石油をつくる「人造石油」の技術であった。1937年制定の人造石油製造事業法に基づき、北海道人造石油株式会社が設立されたほか、九州や満州で生産が試みられ、期待が高まった。しかし、太平洋戦争の勃発に伴う資材不足などを背景に、人造石油は計画倒れに終わった。そもそも、石油の補給路が断たれる中、不足分をこの人造石油で補おうとすることは、国の迷走ぶり、打つ手の無さを物語っていた。

日本の戦局は悪化の一途を辿った。1941年には武器の材料が足りなくなり、金属類回収令が出された。鉄道路線を廃止してレールを撤去したり、建造物から取り出したりして、全国各地で鉄材が供出された。

原子力開発と原爆投下

No image

アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein;1879~1955年)(写真:Shutterstock/アフロ)

原子力技術はヨーロッパで芽生え、アメリカで進化した。原子力技術に欠かせない、量子力学の先駆けとなる原子模型をデンマークのニールス・ボーア(Niels Bohr;1885~1962年)が1913年に考案。その後、1932年にイギリスのジェームズ・チャドウィック(James Chadwick;1891~1974年)が中性子を、1939年にドイツのオットー・ハーン(Otto Hahn;1879~1968年)らがウランの核分裂を発見した。そして1940年、アメリカのグレン・シーボーグ(Glenn Seaborg;1912~1999年)らがプルトニウムの生成、分離に成功したことで、初期原子力技術の基礎ができていった。上記4名はいずれもノーベル賞を受賞している。

技術進歩が加速したのは1939年、ヨーロッパからアメリカに亡命したユダヤ人科学者のアルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein;1879~1955年)とレオ・シラード(Leo Szilard,1898~1964年)が、ルーズベルト大統領に手紙を宛てたことがきっかけとされる。「アインシュタインの手紙」などと呼ばれた。

ウランによる連鎖反応技術が近く確立され、爆弾兵器になり得るとし、ナチス・ドイツの動向を注視するよう政府に促すとともに、また連合国における研究の支援を求める内容だ。その後の1942年、アメリカ、イギリス、カナダが科学者や技術者を集め、原子爆弾の開発製造に総力を挙げた「マンハッタン計画」が始動した。同じ1942年、アメリカの大学で世界初の人工原子炉が臨界に達した成果もみられたが、原子力は軍事利用が優先された。

マンハッタン計画の下、1945年7月16日には世界初の原爆実験を実施、8月6日に広島、8月9日に長崎へ原爆が投下され、数十万人が犠牲となった。原子力の平和利用の気運が高まるのは、第34代アメリカ大統領のドワイト・アイゼンハワー(Dwight Eisenhower;1890~1969年)が1953年に「ATOMS For Peace」と題して国連で演説するなど、戦後になってからだった。原子力は殺戮兵器として使われたことで、その破壊力が印象づけられ、1989年まで続いた東西冷戦で長く駆け引きの材料となった。

当初、日本への原爆投下を夢想もしていなかったアインシュタインは晩年、大統領への手紙を後悔していたという。

やめたかった戦争、そして復興へ

1945年8月15日、日本は敗戦した。受け止め方は人それぞれだ。

「戦争は本当にもう嫌だ。2度とやりたくない。やりたくないって、僕がやってた訳じゃないんだけどね。本当にね、ちょっと考えられないほどひどいものですよ、戦争ってのは」(手塚治虫「講演CD集 未来への遺言:【手塚治虫、最後の伝言】 1988年10月31日 豊中市立第三中学校にて」2003年、エニー)

漫画家、手塚治虫(1928~1989年)は亡くなる3カ月前の最晩年、故郷の大阪府豊中市で中学生を前に、16歳で迎えた終戦時の心境を語った。「ブラック・ジャック」や「火の鳥」などの名作に連なるテーマが“生命”になったきっかけは戦争体験だと説明する。その手塚に終戦を知らせたのは「電灯」だった。

「8月15日、(中略)どうも夕方になってもしーんとしている。人っ子一人いない。おかしいぞ。ちょっと外に出てみようと外に出ていったら誰もいない。みんな家の中に入って隠れている。大阪行ってみようと思って僕は阪急電車に乗って大阪まで行ったの。阪急電車の中も運転士以外誰もいないんですよね。本当に人がいない。これはおかしい。そして大阪の駅に着きました。その時に阪急百貨店のロビーありますね、あそこにシャンデリアがあります。戦争中はシャンデリア、全然電灯ついていなかった。それが、ぱあっと電灯ついていた。向こうの方を見ると、今まで相当空襲で焼けたはずの大阪の街に、あちこちに電灯がついている。それを見て『ああ、戦争が終わった』と思って本当に嬉しくてね。万歳しました。それでね、思わず泣いたんです」

電灯の明るさがもたらす安心感、ありがたみを象徴的に示したものと言えよう。続けて語られた次の言葉で今回は終えたい。彼ら希望を持った戦中派が原動力となり、日本を復興と高度経済成長へ導いた。その中でエネルギーが果たした役割を、次回は見ていきたい。

「本当にその時は泣いた。僕は生きていたから泣いたんです。死ななかったということで。戦争に勝ったとか負けたとか関係なかった。これからまた生きられると思った」

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

経済カテゴリの人気記事

グノシーで話題の記事を読もう!
「もはや中古家具店」大塚家具、経営危機の内幕...久美子改革が完全失敗、経営陣一掃は必須
機能性表示食品の発売相次ぐ 健康志向で高付加価値路線 参入も容易
TPP会合閉幕、来月改めて都内で会合
トヨタが最も遅れている? 世界は電気自動車へシフトなのに...
財政また悪化...増税で教育無償化に1.4兆円以上
  • このエントリーをはてなブックマークに追加