2030年、大城卓三は、引退を考えていた。――小説ジャイアンツ「男たちの黄昏」

2030年、大城卓三は、引退を考えていた。――小説ジャイアンツ「男たちの黄昏」

  • 文春オンライン
  • 更新日:2020/10/16

※この「小説ジャイアンツ」は、事実をベースに、戦う男たちへの熱い思いを描いた妄想ドキュメントです。

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2030年7月神宮での3連戦。去年シーズン途中に故障で戦線を離脱したエース戸郷の復帰戦、シュート回転気味のストレートのあの伸びを信じきれなかった。あれだけ苦楽をともにしてきた後輩の底力を信じてやれなかった。代打で登場した青木宣親。右打者なら躊躇なく泳がせて三振にとりにいっていただろう。けれど、48歳になってまだ現役で活躍する大ベテランがその逃げる気持ちを見逃すはずがない。わかっていたはずなのに。打球は歓声のなかに消えた。その歓声が試合を決めた。そこまで全盛期を思い出させる見事な投球だっただけに、キャッチャーの大城の心を折った。これは試合の流れどころか、ペナントの流れすら左右してしまう。悔しそうに下唇を突き出してスコアボードを眺める戸郷の背中が遠い。

この10年、野球を楽しめていただろうか

気がつけば2020年の日本一から10年ずっと、正捕手の座を守ってきた。37歳。誰がここまでの成長を当時想像しただろうか。2025年にキャリアハイの打率.3487を記録して阿部慎之助の全盛期を抜いたのは自分でも出来過ぎだと思ってはいる。だがそれからの努力は見事だった。量子コンピュータを駆使するデータ分析のチームを台湾から呼びよせ「直感型ID野球」を完成させた。瞬時にあらゆるデータを解析する。そこに自身の性格や球場の湿度やあらゆる不確定要素を加えて最適解を出す。

そしてそれを前日に徹底的に予習する。そんな鉄のような努力を続けられたのは、2020年のシリーズの快感が忘れられなかったからかもしれない。その自分が一瞬の隙を作ってしまった。逃げる気持ちがその隙を突いた。それは10年かけて美しく完成したダムにあいてしまった小さな穴だった。小さなその穴が終わりの始まりなのがわかった。

ベンチに戻ると松井秀喜監督は何も言わずに大城の肩に手を置いた。その手の厚みと温度に大城はこみ上げてくるものを我慢できなかった。阿部前監督から通算200本本塁打の時にプレゼントされたフルフェイスのキャッチャーマスクをかぶって静かに泣いた。引退という文字にどこか安堵しかけている自分がいた。

この10年、野球を楽しめていただろうか。結果だけ振り返ると原監督から阿部慎之助監督になりV3を達成した。FAで移籍してきたガルシアの荒れ球に何度試合を壊されたか。調子を崩したあとの中川をカバーした増田の西武からの移籍がなかったらどうなっていたか。ロッテへ移籍した小林が引退する時の言葉はトゲのように胸に刺さったままだ。4000本安打目前で怪我をした坂本勇人の不在とチームの低迷。阿部慎之助の昭和なスタイルに世の中がバッシングを始めたときはそのバットでノイズを吹き飛ばした。期待されたドラ1の投手たちは芦名見(2023年ドラ2)を除くとほとんど育っていない。その責任をずっと感じている。二刀流をあきらめて投手に専念してくれた戸根がストッパーとして機能しなかったらと思うとゾッとする。とにかく野球だけの10年だった。

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大城卓三

そういえば引退後の人生を考えていなかった

翌日、大城はいつもより早くフィールドに出た。築地市場跡に3年前にできたジャイアンツフィールドは開閉式で気持ちいい汐風が吹いている。この球場を経験できてよかった。これも野球を続けてきたご褒美かもしれない。

「大城さん、昨日、何泣いてたんすか」

空気を読まないとまるで自分で決めているような岡本和真キャプテンのすこし甲高い声。この飄々とした人柄にどれだけ助けられたか。低迷するチームの空気が重く沈んでいるときも岡本和真のこの誰とも等距離で接する性格は間違いなくチーム再生に不可欠だった。盤石な4番は、打線をつくるだけでなくチームの背骨になる。

「うるせーな、それよりカズマ、ユニフォームにケチャップつけんな」

「あ、アメリカンドッグ7本食べちゃって。長嶋さんの記録まであと7本なんすよ。だから験担ぎ的な」

通算437号を先月打って、王貞治と長嶋茂雄のあいだに割って入ろうとしているのにこの男は重圧というものを知らないのか。

「タクミー♪」

素っ頓狂な声が響く。日本語がペラペラになったウィーラーだ。巨人で2年、獅子奮迅の大活躍をしたあと横浜に移籍していつのまにかコーチになった。ラミレスパターン。今はなぜかズムサタ熱ケツ情報のレギュラーになっていた。

「今日ノテーマハ、嫌イナ野菜デス!!」

話が長くて面倒なので、シッシと追い払う。いつものことだ。引退したら、この風景も遠くなるのか。

そういえば引退後の人生を考えていなかった。目の前のゲームだけに集中をしてきたから、何も考えていなかった。監督をやる自分の姿は想像がつかない。コーチならありえるか。でもそんなのは次の監督次第だ。コーチをやっても数年だろう。まだその先の方が長い。言葉少ない自分を解説に呼ぶテレビがあるとも思えない。元木さんみたいにお店を……いやだめだ。

久しぶりに見たガタイの大きな菅野の笑顔

「まだ打てるだろ」

その声に両腕が鳥肌をたてた。ベンチを見るとスーツ姿の男がいる。相変わらずの屈託のない笑顔。まさか菅野さん!? アメリカじゃないのか。

「娘の転校手続きしに、な」

さすがの菅野でも40になると戦力外の扱いか、最近抹消されたという記事は見た。パドレスで中継ぎに回ってもう何年だろう。メジャーでの連続無失点記録に世界は熱狂した。菅野なら当たり前だ。記録だけを考えていたらもっと現実離れした数字を残せたはずだ。このひとが巨人に残っていたらどうなっていただろうか。この大エースがいたら戸郷はここまで成長しただろうか。責任感があの華奢な体を強靭なものにしていたはずだから。右の大型新人と芦名見をフロントはここまで育てただろうか。たらればは言わないようにしていたが、久しぶりにガタイの大きな菅野の笑顔を見るとそう思わずにはいられない。

「菅野さん、戻ってくださいよ」

菅野ははにかむように笑った。この顔が懐かしい。

「お前じゃ、俺の本当のスラーブ捕れないよ」

ブルペンに呼ばれた。着替えた菅野が立っている。何も言わずにグローブでしゃがめと指示をする。構える。上半身をひねる懐かしいモーション。いや右腕が上体のむこうに隠れている。球がなかなか見えない。ヒュッと音がする。構えたところにもうボールがある。回転を止めた勢いでグローブが熱い。これだ。

「どうだ?」

何も言わずに返球する。メジャーに行って精密機械のようなフォームをさらに改良しつづけたのがわかる。なんて恐ろしい才能だ。2球目がくる。まったく同じフォームで球が今度は揺れる。ミットの端を叩いて後ろに逸らしそうになる。メジャーってのはこんな球でも戦力外になるのか。

「まだ通じるか」

何も言わずに返球する。

「次、本気な」

ミットをパンと叩いてその音で返事をする。菅野がニヤリと笑った。この球を受けていたい。一球一球が音をたててミットに吸い込まれていく。パン、パン、パン、パン。その音はあのダムの小さな穴に杭を打ち込んでいく音のようだった。

「俺が投げるとき、お前必ず打てよ」

「ハイッ」

「お前、そんないい声で返事できるんだな」

そう言うと菅野は、次はカーブを投げるぞとグローブで合図した。

翌日、大城は球場で青木宣親が引退するというニュースを聞いた。

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(高崎 卓馬)

高崎 卓馬

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