画家と小説家の違いは? 横尾忠則、画家は「何も考えない空っぽの状態で創造的に」

画家と小説家の違いは? 横尾忠則、画家は「何も考えない空っぽの状態で創造的に」

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  • 更新日:2022/01/15
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横尾忠則

芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、絵を描くことについて。

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「描くのに飽きた!」というのは僕の口ぐせですが、もうひとつの口ぐせは「嫌々描く」ということです。描くことに飽きたんだから、当然嫌々描くことになりますよね。3歳から今日まで絵ばかり描いていたらそりゃ飽きるし嫌になります。飽きっぽい性格の僕にしたらよく82年間も続いていると感心するのは、これしかできないからだと思いますね。もう習慣というかクセですね。よくいつから画家になったのかと聞かれますが、やっぱり絵を描き始めた3歳から画家だったと思いますよ。

ですが、最近思うんですが、飽きたからこそ、また嫌々描いているからこそ、今まで絵が描けたのかも知れません。かつて絵が面白くて愉しいなんて一度も思ったことはありませんね。何んだか面倒臭いことをしているなあ、といつも思いながら描いていました。それはきっと、いい絵を描こうという煩悩に振り廻されていたので本当の愉しみを味わうことができなかったんだと思います。もっといい加減に描いていたら、もしかしたら愉しかったかも知れませんが。

そして今、80代の半ばになって、やっと、絵の描ける境地になったかなと思っています。その境地というのは、悟りを得たというのではなく、「嫌々描くことに飽きた」境地です。別の言い方をすれば、「タカが絵じゃないか、そんなに一生懸命になることもないぜ」という内なる声に従う気になったからです。そうすると制約が失くなります。人のためでも世のためでも、まして自分のためでもない、この前、書きましたよね。インスピレーションを与えてくれた源泉のために描くと。別の言い方をすると画家は神社に舞いを奉納する巫女(みこ)みたいなものです。

でも一番いいのは絵も描かない、何もしないことだと思います。菜根譚では「世の中は、出来るなら何もしないほうが人間は幸せである。ひとつのことを起こせば必ずひとつの害がともなう」と語っています。無為でいることほど有為かも知れませんね。僕は絵を描く時、いつも無為になるよう心がけています。余計なことを考えないことです。絵を描くのは頭ではなく肉体の思うままにまかせるのが一番いいと思っています。でないと考えに左右されると迷いを生じさせるだけです。だから絵を描く時は頭の中を空っぽにするというのはそのためです。

ところが現代美術の最先端の作品は、考えて考えて、これ以上考えられない究極の観念を作品にします。僕のやっていることと対極の芸術です。こうした観念芸術があるから僕の作品が存在するんだと思います。僕の作品は思考や思想を伝えようとは思いません。どちらかというと作品のテーマ(主題)などどうでもいいことです。何を描くかではなく、如何に描くかという思念が発散するエネルギーが絵だと思っているんです。エネルギーは何かを伝えようとする目的ではなく、無目的な無為な行為の中から生まれるものだと思います。

だから、僕はアトリエでいつもソファーに横になって、ぼんやりしています。昔、禅寺に参禅している時は座禅三昧だったですが、座禅をすると急に頭の中にあれこれ雑念が去来して、頭が爆発しそうになるほど、次から次へと考えに襲われます。すると老師がやってきて、「ほっときなさい」といいます。雑念を追っかけないで、見過ごしなさいと。これってなかなか技術がいります。まあ雑念を吐き出すだけ出してしまえば考えはなくなると。実際生きている以上考えがなくなることはありません。だけどストップをかけることはできます。考えがなくなった時に初めて到達する境地があります。その瞬間をキープすれば、考えないで済むことになるらしいのです。

つまり、子供が夢中になって遊びこけている状態です。絵は幸い、この状態に入ることはできます。頭を空っぽ状態にすることです。考えている時、つまり頭を言葉で満たしている時は、この現世とつながっていますが、空っぽになった時は、宇宙とつながる。そうなると人知を超えた、というか知性や感覚を超えた霊性とつながる。三島さんは、僕にその境地を手に入れろとやかましく言いました。そのために礼儀礼節が必要だと。わかるようでわかりませんでした。三島さんは禅にさほど興味はなかったと思いますが、中国の禅僧の寒山拾得には興味があったようです。

どうでもいい話をするつもりが、こんな話になってしまいました。やっぱり絵が中心の生活をしていると、話があちこちと分散してしまいます。ひとつのことをじっくり考えることのできない性格になってしまっているのですね。ひとつのことを考えるよりも想像を多面化する方が考えが分散して、その内何も考えない空っぽの状態になります。するとその時初めて、創造的になれるんです。その辺は観念的に思考する小説家とは違うゾーンに這入るのかも知れませんね。

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰

※週刊朝日  2022年1月21日号

横尾忠則

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