「アメリカが最も恐れた沖縄の男」瀬長亀次郎の一生涯

「アメリカが最も恐れた沖縄の男」瀬長亀次郎の一生涯

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2017/08/12
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第二次大戦後、米軍統治下の沖縄で唯一人"弾圧"を恐れず米軍にNOと叫んだ日本人がいた。「不屈」の精神で立ち向かった沖縄のヒーロー。民衆の前に立ち、演説会を開けば毎回何万人も集め、人々を熱狂させた。その名は、瀬長亀次郎。

TBS報道局記者兼キャスターとして亀次郎を追いかけ、映画「米軍が最も恐れた男~その名はカメジロー」(http://www.kamejiro.ayapro.ne.jp/)の監督を務めた佐古忠彦氏が、この男の生涯を描く――。

海の向こう、おしえてよ亀次郎

中国や台湾からの観光客で賑わう那覇随一の繁華街・国際通りの一角で、琉装して沖縄の民謡を奏でる「ネーネーズ」が唄っていた。

♪うんじゅが情きさ 命どぅ宝さ
我した思いゆ 届きてぃたぼり
それは、昔、昔、その昔、
えらいえらい人がいて、
島のため、人のため、尽くした
あなたならどうする
海の向こう、おしえてよ亀次郎

いま、沖縄の人々が、「あなたならどうする」「おしえてよ」と教えを乞う男。

「一番偉い人だと思います。大好きです。沖縄県民のために一生懸命でしたよ」
「言葉が好きでしたね、正直で。(演説があると)仕事を早く終えて聴きに行ったもんです。もうあんな人は出てこないですね」
「よく集まって、話を聞きました。カメさん、カメジローさん、と呼んでね。とてもやせていてね」

街の人たちは、その男の記憶をこう語る。常に民衆の先頭に立って占領米軍の圧政と戦い、演説会を開けば毎回、何万もの人を集めた。

その男の名は――瀬長亀次郎という。

ただ一人、立ち上がらなかった

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終戦から7年後の1952年4月1日、首里城跡地で、亀次郎と米軍の闘いの原点ともいえる出来事が起きる。

琉球王国のシンボル・首里城は、沖縄戦で、米軍によって破壊しつくされた。無残に崩れた石垣を残して、琉球王国の遺産は跡形もなくなり、代わりに米軍によって琉球大学の校舎が造られていた。

沖縄を占領するアメリカ軍は、日本への復帰運動などを抑えるため、アメリカが指名した行政官による「琉球政府」を設立することにした。

この日、行われた創立式典では、星条旗と並んで将官旗がはためき、アメリカ陸軍軍楽隊の大コーラスが響く。ビートラー米民政府副長官がこう挨拶した。

「アメリカには植民地野望はなく、不安な国際情勢下に太平洋の前衛地としての当地に駐屯を余儀なくされている」

式典の最後に、代表の議員が宣誓文を読み上げたあと、議長が立法院議員(現在の県議会議員にあたる)の名を読み上げ、それぞれが立って脱帽し一礼する。

そのなかで、ただひとり立ち上がらなかった人物がいた。

最後列の席で、ひとり座ったまま。
なぜだ? 会場に広がるどよめきの声。
その人物が、亀次郎だった。

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ただ一人、起立を拒んだ

「瀬長亀次郎さん!」

呼ばれても、返事もせず座ったまま。将軍らの顔は真っ赤になり、米軍によって指名された琉球政府主席はじめ日本人行政官は青ざめていた。

アメリカが最も恐れる男

当時、ウルマ新報の記者だった仲松庸全が、この現場にいた。

「瀬長さんが鳥打帽をかぶったまま座っているんですよね。私自身も声を出したが、うおーっという地鳴りのような声が、会場全体から上がった。ああいう宣誓拒否は、その場面は残しておきたかったと思うぐらいです。おどろきというか、感動というか……。アメリカに対する抵抗を表した。アメリカ帝国主義への挑戦ですよ」

亀次郎のこの行動には、ハーグ陸戦条約を法的な根拠としていた。

いわゆる戦時国際法のひとつで、攻撃手段の制限や占領、交戦者の資格、捕虜の取り扱いなどを規程している。その中に、

「占領された市民は、占領軍に忠誠を誓うことを強制されない」

という条文があるのだ。亀次郎の行動には常に、法律的な裏づけが意識されていた。

実はこの前日、立法院の職員が亀次郎の自宅に来て、何度も宣誓書への捺印を迫っていた。すでに亀次郎を除く全ての立法院議員の捺印が済んでいたが、亀次郎は最後まで説得に応じなかった。ずらりと並ぶ名前の下、瀬長亀次郎だけが空欄なのである。

亀次郎は、「立法院議員は、米国民政府と琉球住民に対し厳粛に誓います」という条文の「米国民政府」の部分を削らないと宣誓書に判は押さない、という。

「これはひとり沖縄県民だけの問題ではなく、日本国民に対する民族的侮辱であり、日本復帰と平和に対する挑戦状だ」

困り果てた職員は、宣誓書をいったん持ち帰るほかなかった。

再度見せられた宣誓書には、亀次郎の要求通り「米国民政府」の文字が消えていた。

〈宣誓 吾々は茲に自由にして且つ民主的な選挙に基いて琉球住民の経済的政治的社会的福祉増進という崇高な使命を達成すべく設立された琉球政府の名誉ある立法権の行使者として選任せられるに當り琉球住民の信頼に應えるべく誠實且つ公正に其の職務を遂行することを厳粛に誓います〉

しかし、これには見えすいたカラクリがあった。宣誓書には、英語で書かれたものと日本語で書かれたものの二つがあり、英文を確認すると、こちらのほうには「米国民政府」がしっかりと残されていたのだ。

あの宣誓の場で、何度名前を呼ばれても、亀次郎が返事をすることも立ち上がることもなかったのには、そういうわけがあった。この日から亀次郎は、「アメリカが最も恐れる男」「沖縄抵抗運動のシンボル」となる。

「持たざる人たち」のために

瀬長亀次郎は、1907年6月10日、豊見城村我那覇に生まれた。貧しい農家の生まれで、亀次郎が3歳のときに父がハワイに出稼ぎ移民としてハワイに渡ったほどだ。

亀次郎は学校から帰ると、家の前にあった木に登り、ひたすら読書をしていた。飼育している山羊が食べる草刈りが、祖父に言いつけられた日課だったが、遊びに夢中で時折忘れてしまう。頑固な祖父は、罰として亀次郎の食事を減らしたが、母はこっそり芋を食べさせてくれた。

「ムシルヌ アヤヌ トゥーイ アッチュンドー」

むしろのあやのようにまっすぐ生きるんだよ――母のこの言葉は、亀次郎の生き方に大きな影響を与えることになる。

医師を志して上京した亀次郎は、私立順天中学に編入、同郷の東大生・喜屋武保昌と二人の自炊生活するなかで、その思想に影響を受け、目を見開かされるのを感じた。現状への疑問がどんどん膨らんでいった。

なぜ世の中には貧乏人が多いのか、なぜ労働者の暮らしは働いても働いても良くならないのか、なぜ戦争は起こるのか、なぜ資本家だけは肥え太っていくのか……。故郷・沖縄の姿が常に脳裏にあった。

卒業後、旧制七高(現在の鹿児島大学)に進学。医師志望に変わりはなかったが、当時非合法の社会科学を研究するサークルに所属して社会問題に対する思索を深め、社会運動に傾倒していった。

医師として働くよりも、疑問を追求することこそが、「むしろのあや」なのだ――。科学的社会主義、つまりマルクス主義の文献を読み漁る中で、自分なりの「理論」が固まっていった。

1928年、七高2年の冬、亀次郎は初めての逮捕を経験する。その年の3月、共産党員が一斉検挙された三・一五事件で、党員を匿ったとして、「犯人隠匿」の罪の容疑がかけられたのである。20日間拘留の末に幸い起訴猶予となったものの、せっかく苦労して入学した七高から放校処分を受け、勉学の道は閉ざされた。

以後、亀次郎は「持たざる人たち」のために生涯を捧げることになる。

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熱海-三島間の丹那トンネルの労働争議を指導し、治安維持法違反で逮捕されて以降は、終始特高警察から監視・尾行される立場となった。亀次郎が大きな飛躍を遂げるのは、終戦後、沖縄人民党を創立、その主要メンバーとなって以降である。

(次週へ続く)

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