「日本人なんていらない」の概念を覆す。奥寺康彦はブンデスリーガで大活躍

「日本人なんていらない」の概念を覆す。奥寺康彦はブンデスリーガで大活躍

  • Sportiva
  • 更新日:2020/11/20

ブンデスリーガ初の日本人選手
奥寺康彦インタビュー 前編

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ヨーロッパに在籍する選手だけで日本代表が組めるほど、現在は多くの日本人選手が海外でプレーする時代になった。では、日本人で初めて、ヨーロッパのトップクラブでプレーした選手として、1970年代後半から80年代に、ブンデスリーガに9シーズン在籍した奥寺康彦氏の活躍を知っているだろうか。今回は当時の移籍の経緯や、ドイツでのプレー、生活などを詳細に語ってもらった。

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1977年にドイツへ渡り、ケルンでブンデスリーガ優勝を経験した奥寺康彦

<悩んだ日本人初の海外移籍への決断>

――ヨーロッパで活躍した日本人選手のパイオニアである奥寺さんですが、最初の移籍先であるケルンへの加入は、日本代表での練習参加がきっかけということですよね?

「日本代表がデュイスブルクにある有名な"スポーツシューレ"(トレーニングセンター)で合宿を行なっていたんです。同じ頃にブンデスリーガのクラブも、シーズン前の合宿をしていたんですね。その時に日本代表の選手たちが4グループくらいに分かれて、練習に参加させてもらいました」

――代表チームがクラブの練習に参加させてもらうなど、今では聞かない話ですね。

「当時でもあり得ないけど、その時の日本代表の二宮寛監督がケルンのへネス・バイスバイラー監督と親しい間柄だったので、できたんです。そのバイスバイラー監督の教え子たちのクラブに分散して、練習に参加させてもらいました。それで僕のグループがケルンの練習に参加させてもらったということです」

――その練習参加は今でも覚えていますか?

「レギュラークラスはすごい選手が多かったので、レベルが高かったですね。それはテクニックよりも、サッカーのスタイルや戦術、個々の判断といったところで。止める、蹴る部分はそれほど差はないけど、どこにどう動くか、どのタイミングでパスを出すかというところに差を感じました」

――奥寺さんの獲得につながった要因や、きっかけみたいなものはあったのですか?

「合宿も終わりの頃に、ケルンのスタメン組とサブ組で紅白戦をしたんですよ。その時二宮さんに呼ばれて『お前はスタメン組の左サイドのFWでプレーするからな』と言われて。びっくりしましたね」

――プレーの内容は覚えていますか?

「結構周りの選手が僕のほうにパスを出してくるんですよ。今思えばバイスバイラー監督から選手たちに話があったんじゃないかなと。走れば、いいパスがどんどん来るんです。だから、自分の持ち味であるスピードも生かせた。センタリングもシュートもして点も取りました。やっていて楽しかったですよね」

――それだけパスが回ってきたということは、プレーしながらもなにかしら意図を感じたんですね。

「言ってみれば、あれは移籍のための試験だったと思いますね。あの時二宮さんに『この試合は試験だから』と言われたら、緊張して硬くなっていたかもしれない(笑)。でもそこはサラッと『スタメン組でプレーする』とのことだけだったので、いい緊張感とリラックスしたなかでプレーできました」

――獲得のオファーはどんなタイミングであったのですか?

「合宿が終わってドイツから日本に帰る前に、突然二宮さんに呼ばれて、『ケルンがお前を欲しがっているけど、どうする?』と言われました」

――すぐに行く決断にはならなかったそうですね。

「もちろんそこで即答はできません。(当時の所属の)古河電工に帰って相談しなければいけないですから。ただ、悩みましたよ。何をいちばん悩んだかというと、言葉の問題ですよね。その頃はもう結婚して子どももいて、ちょうど嫁さんは2人目の子がお腹にいるタイミングでした。

ケルンからは、子どもたちも一緒に来いと言われていたんです。それで、もし子どもが病気になった時に言葉がわからなかったらどうしようとか、ネガティブなことばかり考えていました」

――古河電工の人からはどんな反応でした?

「みんなが後押ししてくれました。とくに川淵(三郎/古河電工前監督→日本サッカーリーグ運営委員)さんは絶対に行くべきだと。社長からは『これだけ中心となっている選手を出してもいいのか』と言われたようだけど、『将来を考えたら絶対に選手を海外に出すべきだ』と説得してくれたと聞いています。だから、古河電工のスタッフたちは僕を送り出そうとしてくれました」

――奥様の難しい事情もあったなかで、移籍のいちばんの後押しになったものはなんだったのでしょう?

「やっぱりバイスバイラー監督からの強い要望ですね。本当に必要なんだと言ってくれました。『言葉なんてすぐに覚えられるし、ケルンには大きな大学病院の産婦人科があるから大丈夫だ』と。その上で、『ケルンはお前を必要としている。だから来るべきなんだ』と、そう言ってくれました。それでようやく決心がつきましたね」

<最初はパスが来なかった>

――ケルンへ移籍して最初のシーズンから点を決めるなど活躍されましたが、ブンデスリーガのレベルはどう感じられましたか?

「速さや強さ、正確さは非常にレベルが高かったですね。あとはシステム。オーソドックスではあるけど、各ポジションにしっかりとクオリティのある選手が揃えられて、サイドから丁寧に崩していく形が多かった。だからサイドの攻撃的な選手は重要で、僕みたいな選手が必要とされたのだと思います」

――最初の得点は、ポカール(カップ戦)準々決勝のシュバルツバイス・エッセン戦でした。

「年末の試合で9-0で勝ったんですけど、僕は2ゴール2アシスト。それがケルンに移籍して2カ月経った時くらいでした。相手は2部の格下でしたけど、結果を出せたのは自分にとっては大きかった。あれで周りから少しは認められて、パスも出るようになってきたんですよ。最初は全然出てこなかったから(笑)」

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――練習参加した時はあれだけパスをくれたのに、来てみたら違ったと。

「そうなんですよ。いいタイミングで走ってもパスをくれなくて、そういうのは何回もありました。でも、それはしょうがなかった。今思えばやっぱりアピールが大事だったんだけど、それが僕はちょっと下手だった。弱気だったかなと思いますね」

――移籍の後押しの要因にもなったバイスバイラーさんは、どんな監督でしたか?

「まず実績がすごい監督です。ケルンの前のボルシアMGは今でこそ大きなクラブだけど、当時は小さな町のクラブでした。そこでリーグやポカールを何度も優勝して、UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)でも優勝したわけですからね。選手の選び方に固定観念がない人でしたね」

※ヘネス・バイスバイラー...1960年代から70年代に若い才能あふれる選手を見出し、ボルシアMGをドイツ屈指の強豪に育てた名将。バルセロナでも監督を務め、その後ケルンでも国内タイトルを獲得した。

――固定観念がないというのは?

「ボルシアMGにアラン・シモンセンという選手がいたんですよ。デンマーク人で金髪の170cmもない小さな選手で。当時のブンデスリーガでは、こんな小さな選手は飛ばされてケガするような感じにしか見えないんですよね」

――今でも、ドイツで170cmもないのはかなり小さな選手ですよね。

「でもバイスバイラー監督は、そんな選手を呼んで起用したんです。そこでシモンセンはすごく成長して、4シーズン目くらいにチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)で準優勝して、バロンドールを獲ったんですね。

そうやって見出された名選手がいっぱいいるんですよ。だから彼の選手を見る眼は、本当に特別な才能でしたね。僕の獲得もまさにそう。普通のクラブであれば『日本人なんていらない』と言われますから」

――実際にそういった声もあったのでしょうか?

「彼はあるインタビューで『どうして日本人なんだ?』と聞かれた時に『サッカー選手に国は関係ない 』と、そう答えていましたね。あの時代に、そういった偏見や固定観念のない眼で選手の才能を見出すのは、やはり特別な監督でしたね。だからこそケルンでも、リーグ優勝ができたんだと思います」

<プライベートとサッカーを切り離した穏やかな生活>

――ケルンでの暮らしはどうでしたか?

「最初に家とかを準備するのに、向こうに住んでいる日本人の方にいろいろと面倒を見てもらいました。僕が先に来て家族が来るまでに1カ月くらいあったんですけど、そこは大変でしたね。でも家族が来てからは精神的にも安らげる時間ができて、安定したと思います」

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現在は横浜FCの会長を務める奥寺氏(写真提供/YOKOHAMA FC)

――生活で困ったことなどはありませんでしたか?

「なかったですね。買い物だって近所のスーパーに行けばなんでもあるし、いろいろな手続きだってクラブの人が助けてくれましたから。あと、ケルンのプロ選手であるというのは、その街に住むにあたって大きかった。近所の人は優しいし、役所の人も気を遣ってくれましたね。おそらく一般の人であればもっと大変だったと思います」

――言葉のほうは大丈夫でした?

「毎朝と練習後に、ドイツ語の学校で特訓をしました。自分の気持ちをちゃんと伝えられるようなるまでに1年以上かかりましたね。でも言葉は本当に不安ななかで移籍しましたけど、向こうに飛び込んで必死になれば、なんとかなるもんですよ」

――生活するなかで、なにか印象に残っていることはありますか?

「自宅の前の、通りを挟んだ向かい側の家に、週に1度、おじいちゃんやおばあちゃんたちが集まるんですよ。ある日、遠目に僕が見ていたら、『こっちへ来い』と呼ばれて。

向こうは僕が誰だかわかっているので、そこでお茶に招待してくれたんですね。家族で行って、おじいちゃんたちとケーキとお茶をよくご馳走になっていました。そうやって一般の方の友人もできたのは、向こうで暮らす上で大きかったですね」

――チームメイトとの付き合いはあったんですか?

「それが向こうの選手たちは、プライベートとサッカーとはきっちりと切り離していて、練習が終わったあとに集まることは、年に数回しかなかったんです。あとはもう個々を大事にしていました。家族と過ごしたり、近所の人たちとお茶したり。

穏やかな生活だったので、リラックスできましたね。そうやってプライベートと仕事を切り離してドライな感じもありつつ、ちゃんと個人を尊重してくれるドイツの生活はよかったですよ」

(後編につづく)

奥寺康彦
おくでら・やすひこ/1952年3月12日生まれ。秋田県出身。古河電工(現・ジェフユナイテッド千葉)や日本代表でも活躍したのち、77年にドイツ・ブンデスリーガのケルンへ移籍。その後ヘルタ・ベルリン、ブレーメンでもプレーし、9シーズンで通算234試合出場26得点を記録。得点は14年に岡崎慎司に、出場記録は17年に長谷部誠に抜かれるまで、日本人の最多記録だった。古河電工復帰後、88年に引退。その後ジェフユナイテッド市原や横浜FCのGM、監督を務め、現在は横浜FCの会長兼スポーツダイレクターを務める。

篠 幸彦●取材・文 text by Shino Yukihiko

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