古橋亨梧や旗手怜央らの活躍を横目に、井手口陽介が抱えていた苦悩「このままだとサッカー人生が終わってしまう」

古橋亨梧や旗手怜央らの活躍を横目に、井手口陽介が抱えていた苦悩「このままだとサッカー人生が終わってしまう」

  • Sportiva
  • 更新日:2023/03/19

アビスパ福岡
井手口陽介インタビュー(前編)

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セルティック在籍時も井手口陽介は黙々とトレーニングに励んでいたが...

2月7日、セルティック(スコットランド)に所属する井手口陽介のアビスパ福岡への期限付き移籍が発表された。「25歳はサッカー界では若くない。年齢的にもラストチャンス」という覚悟を胸に、自身にとっては2度目となる"海外"へ渡ったのが、2021年末。それからおよそ1年、出場機会に恵まれない時間が続いていたなかで、井手口は再びJリーグへの復帰を決めた。それはなぜか。そして「本音を言えば、怖かった」と話したその真意と"これから"について話を聞いた――。

◆かつてサッカー番組のMCを担当していた美人アナ

「このままだとサッカー人生が終わってしまう」

自分に対するそんな危機感を抱き始めたのは、セルティックでの2シーズン目、2022-2023シーズンが始まってからだという。思えば、2021年12月に移籍してすぐに戦った2021-2022シーズンも、デビュー戦となったカップ戦での負傷が響き、わずか6試合(カップ戦も含む)にしか絡めなかったが、その時はまだ、自分が置かれている現状にもポジティブに向き合えていた。

「最初のケガで少し長い離脱にはなってしまいましたけど、ボス(アンジェ・ポステコグルー)のサッカー観に触れ、横浜F・マリノス時代と似たような感じの、攻守の切り替えが速い、縦にスピーディなサッカーにはすごく魅力を感じていたし、ボスの指導から得られる刺激も多かったので、すごくポジティブにサッカーと向き合っていました。

結果的にたくさんの試合には絡めなかったですけど、自分としてはここでしっかりアピールして勝負するという思いに揺らぎはなかったし、新シーズンに向けてしっかり自分をアピールしてチャンスをつかむことだけに気持ちを注いでいました。

正直、スコットランドリーグにおけるセルティックの戦いを見て、僕みたいなプレースタイルの選手は生きづらいかもな、とは思っていたけど、逆にそこで自分が生きようとすることで、成長できる部分があるんじゃないかと考えていました」

スコットランドリーグのなかでも圧倒的な攻撃力を誇るセルティックは、昨シーズンもリーグ最多得点で優勝したように、シーズンを通してボールを保持しながら攻勢に試合を進めることが多い。それは、今シーズンの戦いを見ても然りで、対戦相手は試合のスタートから、がっつりと引いて守備ブロックを固めてくることも珍しくはない。

だがそれは、井手口のようにフィジカルの強さを生かした中盤でのボール奪取力や、そこからの展開力を持ち味とするプレースタイルの選手が輝きづらい戦いとも言える。

「相手に攻め立てられるシーンが多ければ、3枚の中盤のうちの1枚に守備的な選手を置くことも考えるはずで、そうなれば僕の持ち味が生きるところもあると思います。でも昨シーズンも、ほとんどセルティックが攻めて、相手が引いて守るという構図の試合がほとんどでしたから。

それもあって、ボスも中盤には攻撃に特徴のある選手を据えることが多かったし、自分が出場した試合を振り返っても、どこか自分らしいプレーを出しきれていない感じはありました」

だからこそ、2シーズン目を戦うにあたっては、シーズンを通して戦えるコンディションを作り上げるだけではなく、自分の"生き方"を模索し、プレーの幅を広げることを意識しながら準備していたという。

FW古橋亨梧を筆頭に、井手口と同じタイミングで加入したFW前田大然やMF旗手怜央ら攻撃陣が、次々と結果を残していく姿に思うところもあったはずだが、いろんな雑念は「自分と向き合わないと何も始まらない」という思いでかき消した。

「1度目の海外移籍をもとに、2度目の海外を決断した時から、『そんな簡単にはいかんやろうな』って思っていたので。海外で結果を残すには......ポジション的なことを考えても、僕自身がもっと適応する術を身につける必要も感じていました。

そういう意味では、試合に絡めない状況から這い上がるメンタリティみたいなところを含め、自分が試されている気もしていたので、とにかく現状を受け入れたうえでやれることをやりきろうと思っていました」

ところが、2022-2023シーズンの開幕を1週間後に控えた練習中、井手口は勢い余って用具と激突し、左膝周りに20cm近い大きな裂傷を負って、戦線離脱を余儀なくされる。結果、高まっていたコンディションを再び作り直さなければいけなくなった彼の"出遅れ"は明らかで、約1カ月後に戦列に戻っても、メンバー入りすらできない時間が長く続いた。

「ケガは不運なところもありますけど、そこも含めてサッカー選手なので、自分の力不足だと言わざるを得ない。それに、開幕前のプレシーズンマッチは3試合のうち2試合には使ってもらえたけど、最後の1試合は使ってもらえなかったことを考えれば、ケガなく開幕を迎えていても、起用されたかどうかは正直、わからないですしね。

そういう意味ではアクシデントがあったからなのか、最初から監督の構想外だったのかはわからないけど、結果的にまったく使われなかったということは、必要とされるほどの力がなかったということだと思います。......ということは、シーズンが進んでいくなかでも真摯に受け止めていたし、自分の置かれている状況への責任は、誰のせいでもなく自分にあると考えていたので、とにかく練習するだけやと思っていました。

ただ、向こうは試合数が多いこともあって、日本のJクラブのように、試合に出ていない選手のために練習試合が組まれることはほぼないし、シーズン中は紅白戦もフルコートではまずやらない。となると、試合に絡めない選手は、試合感を培う場所がなく、練習のための練習になっている感は否めずで......。自分がどこに向かっているのか、何にアピールしているのかもわからずにサッカーをしている状況は、正直、自分にプラスになっているとは思えなかった。

それもあって、新シーズンが始まって、わりと早い段階から、クラブにも『監督の構想外ならチームを出たい』『少しでも試合に絡めるチャンスがあるチームに行きたい』という意向は伝えていたし、代理人にも動いてもらっていたんです。もちろん、他に行ったところで(試合に)出られる保証はないけど、まずはとにかくスタートラインに立たせてもらえるチームでプレーしたいという一心でした」

だが、その時はまだ"海外"で新たな道を探ろうと考えていたそうだ。彼にとっては2度目の海外で「ここでまた日本に戻ったら、二度と海外での道を探れないかもしれない」「試合に出られないから日本に戻るのでは、自分に何も残らないんじゃないか」という思いがあったからだ。

しかし、そんな考えは、ある出来事をきっかけに、一気に吹き飛んだ。

(つづく)井手口陽介が1年でJ復帰を決めたわけ「要は嫉妬です」

井手口陽介(いでぐち・ようすけ)
1996年8月23日生まれ。福岡県出身。ガンバ大阪のアカデミー育ちで、高校3年生の時にトップチーム昇格を果たす。昇格3年目の2016年にはレギュラーを獲得。同年、五輪代表としてリオデジャネイロ五輪にも出場する。その後、日本代表にも初招集された。そして2018年、プレミアリーグのリーズへ移籍。レンタル先のスペインやドイツのクラブでプレーしたあと、2019年にガンバへ復帰した。2021年末、再び海外移籍を実現してセルティック入り。負傷などもあって出場機会をなかなか得られず、2023年2月、アビスパ福岡へ移籍を決めた。

高村美砂●取材・構成 text by Takamura Misa

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