男と女の賞味期限3年説。
それが真実なら、夫婦が永遠に“男女”でいることは難しいだろう。
男女としての関係が終わりかけた夫婦はその時、どんな決断をするのだろうか。
◆これまでのあらすじ
夫の翔一とのすれ違う中、元彼の悠介と関係を深めていく真希。そんな時、苦手な義母から呼び出され…。
▶前回:「ランチに行くね」妻の言葉に巧妙に隠された、夫の知らない重大な秘密

「随分久しぶりね。翔一はどう?忙しそうだけど元気にしているかしら?」
上品な家具や調度品の置かれた、広々としたリビングルーム。真希は、御殿山にある翔一の実家を訪れていた。
生花が美しく飾られたテーブルで、義母と向かい合う。
「ええ、とても忙しそうにしています」
すると義母は、琥珀色の美しい紅茶をティーカップに注ぎながら満足気にこう言った。
「そうよねえ。周囲に期待され過ぎて、頑張りすぎないか心配だわ。まあでも、真希さんがしっかりサポートしてくれてるから大丈夫かしら」
ニコリと笑った義母と目が合った。優しい言葉とは裏腹に、目は笑っていなかった。
いつもそうだ。表面的には優しい言葉を投げかけてくるが、本心は決して明かさない。いちいち言外を読まなくてはならず、骨が折れる。思っていることをはっきり言ってくれれば良いのに。
「お義母様には足元にも及びませんが、頑張ります」
頭をフル回転させて答えをひねり出したが、正しい答えだったのかは分からない。
何となく気まずい空気になったので、その場をしのごうと真希はティーカップに手を伸ばした。
「あら、今日も“おしゃれ”ね。自分でなさるの?」
義母の視線は、真希の指先に向けられていた。
義母からの攻撃。辛い時間を終えた真希が連絡したのは…?
薄れる罪悪感
「いえ…。私は不器用なので、サロンでやってもらっています」
すると義母は、コーラルピンクのネイルをじっと見つめながら、こう続けた。
「真希さんは、いつまでも綺麗で羨ましいわ。私なんて、夫のサポートと、翔一を育てることに忙しくて。
髪振り乱して世話していたのが懐かしいわ。大変だったけど、楽しくもあったわよ。
真希さんもそろそろ考えてみたらどうかしら」
「…」
この時真希は、呼び出された理由を悟った。おそらく義母は、そろそろ“女”でいるのは終わりにして、家庭に尽くす妻としての自覚を持ったらどうかと言いたいのだろう。
この前翔一が言っていたことと同じだ。
息子を愛する義母のこと。もしかしたら、翔一が愚痴をこぼしたのを聞きつけて、真希に言っておかなければと、呼び寄せたのかもしれない。
「え、ええ…」
愛想笑いを浮かべてその場しのぎの反応をするが、義母は逃すものですかと言わんばかりの表情で畳みかけてきた。
「何でも相談してちょうだいね。私、翔一と真希さんのお手伝いなら喜んでするわ。
そうなったら、この家も二世帯住宅に造り替えてもいいわね」
“子ども”について話していることは明らかだった。遠回しな言い方がまた、得体のしれぬプレッシャーを感じさせる。
「…はい」
頭を下げた真希は、義母がそう言いたくなるのも仕方ないと、少しだけ胸が痛んだ。
自分たち夫婦は、お互い仕事をバリバリこなすDINKSではない。
働く夫と支える妻という、言ってしまえば、少し古典的な夫婦の形だ。
結婚を決めた時、「専業主婦になって支えてほしい」という翔一の希望でこの形を選んだが、真希自身、何が何でも仕事を続けたいとも思っていなかったから、すんなりと受け入れられた。
それから3年。仕事をしているわけでもなく、ただただ恵まれた生活を享受する専業主婦。そんな女に求められること。
−分かってる…。
義母のプレッシャーは真希の心に重くのしかかった。

タクシーに乗り込むと、全身の力が一気に抜けた。シートに深く沈み、バッグからスマホを取り出す。
『なんか、今日は疲れた』
悠介にメッセージを打つ。最初こそドキドキしていたが、彼に送るのは、もはや女友達に送るのと同じくらい自然なことになっていた。
−分かってるけど。
つい本音が口から漏れてしまう。そろそろ話し合わなければいけないことくらい。
彼は、子作りには協力すると言っているのだ。
悠介との息抜きもあって、表面的には仲直りして上手くやっているが、根本的な部分が解決されたわけではない。
真希も翔一も、核心的な部分には触れず、当たり障りのないことだけを話題にするのに慣れてしまったのだ。
するとスマホが振動して、メッセージが届いた。
『どした?大丈夫?』
悠介は返信がはやい。すぐに返せない時はあるにせよ、基本的にマメなのだ。そのレスポンスの良さも、つい愚痴を送りたくなる理由のひとつだった。
『義実家に行ってきたんだけど、ちょっとね。
あちらのお義母さんとは、もともと合わないのよ』
返信を打つと、再びメッセージが届く。
『それは、おつかれさま。美味しいものでも食べに行こうぜ。
今度の金曜日、代休なんだけどランチでもどう?』
“ランチ”は、魔法の言葉だとつくづく思う。夫以外の男と2人で出かけることには変わりないのに、ディナーと比べると、随分ヘルシーな感じがする。
一度会って何もなかった。そうするともう、ハードルは下がり、罪の意識は薄くなっていた。
『是非行きたい〜!楽しみにしてる』
薄れる罪悪感。昼下がりに会った2人だが、突然…?
ターニングポイント

「よう。今日も綺麗だな」
現れた悠介は、臆面もなくそんな言葉を口にした。
「相変わらず、調子が良いんだから」
最初こそ狼狽えて上手くかわせなかったが、最近は真希も適当にあしらえるようになっていた。
「何飲む?俺、昼からビールいっちゃおうかな」
「私もビールにしようかな」
すると悠介は、ニヤッとしながら軽口を叩いた。
「シャンパンとかじゃなくて良いんですか、セレブ妻は」
「嫌な感じ。この前も送った通り、義母には色々言われるし、妻なんて良いものでもないわよ」
わざとらしく鼻を鳴らして、そっぽを向く。とはいえ、こんなじゃれ合いすら懐かしくて楽しかった。
「まあ、義理の親は色々あるよな」
ビールを煽りながらぽつりと呟いた悠介を見て、真希は咄嗟に左手の薬指に目をやった。
前回会った時もそうだったが、彼は結婚指輪をしていない。なんとなく、女がいる気配もない。
だが、悠介ほどの優良物件が、ずっと独身でいるとも思えないのだ。人づてには、数年前に結婚したと聞いていたが、現在のステータスは分からない。
触れないようにしてきたが、義理の親の話題が出た今しかない。真希はさりげなく話を振ってみる。
「悠介も、義理のご両親とは馬が合わないの?」
「ああ、言ってなかったっけ。俺、結婚してもう6年経つ。
奥さんは、証券会社でバリバリ働いてるよ。ニューヨークも俺は単身だった。
一緒には住んでるけど、食事も別で、会話もほとんどない。ルームシェアしてるって感じ。
そんなんだから、あっちの親と会ったのなんて、いつが最後か分かんない」
初めて聞く情報ばかりで驚いた真希だが、平静を装って「そうなんだ」と、相槌を打つ。
「赤坂のタワマンに住んでるんだけど。豪華な外見と違って、中身は冷え切ったスカスカな家庭だよ」
−豪華な外見と違って、中身はスカスカ。
心の奥が、キュッと締め付けられる。なんだか、自分に浴びせられているようだった。
その時、悠介が真希の手を握りしめた。
「真希が奥さんなら、違う人生だったのかもな。いつまでも男女でいられたんじゃないかって思うよ」
力強く見つめられると、呼吸は荒くなり、全身が痺れるように熱くなっていく。
「いや、そんな…」
咄嗟に手を放そうとするが、悠介は「いやだ、逃がさない」と、さらに強い力で手を握りしめる。
お酒も入って大胆になったのだろうか。目をトロンとさせ、甘えるような声でこう囁いた。
「この後、真希のこと独り占めしても良い?」
−独り占めって…。
昼下がりのレストランで、まさか誘われるとは。
ダメだと分かっているのに、自分の中の女としての本能が呼び起こされてしまう。
理性と欲望の間を、真希はふらふらと彷徨っていた。
そんな迷いを見透かしたように、悠介は頬を撫でたり、あらゆる手を使って口説いてきた。
強く求められた真希は、人妻という立場も忘れて、彼に身を委ねそうになってしまう。
そして彼は、こう畳みかけた。
「真希も、旦那さんと上手くいってないんだろ?俺も、もう奥さんのことは女として見られない。
息抜きに良いじゃん。割り切った関係でさ」
目の前の悠介の眼差しは優しく、「俺ら、共犯めいた関係だろ」とでも言いたげだ。
ー息抜き。割り切った関係。
その言葉に、真希の心の奥はスッと冷たくなった。先ほどまで熱いくらいだった体温が奪われていく。
チヤホヤされて浮かれていたが、一線を超えてしまったら、取り返しがつかない。法的にも倫理的にも、完全にアウトだ。
ーさすがにそれは望んでない…。
急に怖くなった真希は、慌てて席を立ち、帰る支度を始めた。
「ごめん、急用を思い出したの」
白々しいと分かっていても、この場から立ち去ることくらいしか思い浮かばなかったのだ。
すると悠介は、つまらなそうな声でこう言った。
「なーんだ、帰っちゃうの。寂しいなあ」
「ごめんね。今日は私が…」
無理矢理笑顔を作った真希は、ひどく冷たい指先を震わせながら財布を取り出し、会計を済ませてその場を立ち去った。
▶前回:「ランチに行くね」妻の言葉に巧妙に隠された、夫の知らない重大な秘密
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一方の翔一。懲りずに、佳奈美とランチに出かけていたが予期せぬ事態に…?