トルシエが語っていた「最強」シドニー五輪代表の実像。「中田英寿は特別だった」

トルシエが語っていた「最強」シドニー五輪代表の実像。「中田英寿は特別だった」

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  • 更新日:2021/07/21

五輪サッカーの光と影(2)~2000年シドニー五輪
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シドニー五輪日本代表ほど、金メダルを期待されたチームはなかった。

ちょうど20年前、「史上最強」と 称された日本代表を知っているか?

1995年のワールドユース(現行のU-20ワールドカップ)に、日本は中田英寿、松田直樹らを擁して1979年以来16年ぶりに出場し、史上初のベスト8に進出した。1997年のワールドユースでも中村俊輔、柳沢敦、宮本恒靖を中心に連続のベスト8進出。そして1999年のワールドユースでは小野伸二、高原直泰、稲本潤一、中田浩二らが大会を席巻し、決勝まで勝ち進んで「黄金世代」と呼ばれた。

この3世代が融合したのが、シドニー五輪代表だった。

代表監督だったフィリップ・トルシエがU-20代表、シドニー五輪代表監督も兼任し、2002年日韓ワールドカップを目指して、進むべき道ができていた。時代の追い風があった。Jリーグが1993年に開幕し、プロ化によって一気に育成年代が強くなっていたのだ。

シドニー五輪グループリーグ。日本は南アフリカ、スロバキアに連勝。ブラジルには敗れたが、決勝トーナメントに勝ち上がった。アメリカとの対戦では、先制しながら追いつかれ、再び突き放したものの、終了間際に同点にされてしまう。延長も優勢だったが、決着はつかず、PK戦で中田英が外し、メダルには届かなかった。膨らんだ夢は弾け飛び、惜しまれる敗退だった......。

彼らはどこまで強かったのか?

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シドニー五輪アメリカ戦、中田英寿のPKが失敗し、日本は敗退した

日本サッカー史上、最高の人材が揃っていたのは間違いない。遠藤保仁のような選手が、メンバーから外れたほどだ。

「代表に関して悔いがあるとすれば、シドニー五輪の前ですかね」

今シーズン、横浜FCでプレーするGK南雄太は、かつて拙著『フットボール・ラブ』(集英社)の取材でそう語っていた。1997年と1999年のワールドユースで2大会連続ゴールマウスを守ったが、ひとつ上の世代に川口能活、楢崎正剛がいて、代表でのプレーを半ば断念したという。

「(当時24歳だった)楢崎(正剛)さんがオーバーエイジで入ることが決まり、ショックでした。それで代表をあきらめてしまったんです。実際に一緒に練習して、"楢崎さんには敵わない"と思ったから。当時の自分とは、実力差がありすぎました。もし、そこで食い下がっていたら、違う風景を見られていたかもしれません」

南は41歳になってもJ1でプレーし続け、それはひとつの成功と言っていいだろう。シドニー世代には、代表メンバーから外れても、各ポジションにJリーグを代表するようなキャリアを送った選手がいる。

「トルシエのシドニー五輪候補には選んでもらいましたが、自分はそのメンバーの中で明らかに一番劣った選手でした」

そう語った古賀正紘も97年のワールドユースメンバーで、シドニー五輪世代だ。古賀は名古屋グランパス、柏レイソル、ジュビロ磐田、アビスパ福岡と19シーズンに渡って、カップ戦も含めると500試合近くに出場した。

「マツさん(松田直樹)は高校時代からのあこがれで風格があったし、自分は足元にも及びませんでした。中澤(佑二)さんのことを周りで低く評価する人がいたけど、自分には信じられなかった。初めて見た時から、"ヘディングは敵わない"と思わせる絶対的な武器を持っていたから。自分は、"どこが(他の選手に)勝てんのかな"ってずっと自問自答していましたね」

シドニー五輪は、素材だけで言えば最強だった。

しかしながら、実際に世界と対等に戦えていたのは、すでにセリエAのペルージャで鮮烈なプレーを見せ、ローマに所属していた中田英寿だけだったかもしれない。他は全員が、Jリーグのクラブに在籍。優れた才能も、揉まれ、洗練されていなかった。

「私は"ラボ"に様々な選手を呼んだ。優れた素材は多かったが、パーソナリティを発揮して勝負を決められる選手は少なかった」

かつてトルシエにインタビューした時、彼はシドニー五輪当時を思い出し、そう洩らしていた。

「当時はまだ、海外でプレーする選手がほとんどいなかった。中田(英寿)はすでにイタリアで活躍し、カリスマ性を持っていた。私としては、日本が世界で戦うためには、中田のような選手をもっとたくさん求めていたのだが......。当時はまだ彼が欧州で道を拓いたばかりで、特別な存在だった。はっきり言って、中田はテクニックもメンタリティも日本人離れしていた」

◆ちょうど20年前、「史上最強」と称された日本代表を知っているか?

世界を日常的に経験していない選手が多かったことが、ゲームマネジメントの拙さにつながっていた。

アメリカ戦は、その実像が浮き彫りになった。攻撃は目を見張ったが、守備は各々がボールを追う形になり、スペースを与えていた。相手の流れになった時、リトリートしてダメージを最小限にすることもできない。一種の無垢さというのだろうか。例えば松田は、たったひとりでスペースをカバーし、自ら仕掛けられたが、チームとして判断し、連動する老獪さは物足りなかった。

日本は中村の2アシストで、柳沢、高原が見事なゴールを決めたが、リードを守り切れていない。1失点目は押し込まれてCKを与え、こぼれ球を叩き込まれた。ゴール前までボールを運ばれると浮足立った。2失点目は、GKが敵陣から蹴ったロングボールをヘディングで流され、敵選手を追った日本の選手が相手を倒し、PKを献上。イージーな失点で、手にしていた勝利はすり抜けていった。

「たら・れば」を語られることが多い一戦だが、ベスト8は妥当だったかもしれない。

「ラインで遊べ!」

当時、トルシエ監督はフラット3を掲げ、不遜な物言いで選手たちを叱咤し、そこに反発や軋轢も生まれた。しかしその中身は、臨機応変にラインを上げ下げし、守りで主導権を握って攻めに転じろ、という基礎的な指示だった。その強度や精度が足りなかったのだ。

「トルシエがうるさく言っていたことの意味が、今頃になってわかってきましたよ」

横浜F・マリノスでの晩年、松田はそう明かしている。
(つづく)

小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki

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