世界の科学を変えた日本の物理学者たち

世界の科学を変えた日本の物理学者たち

  • JBpress
  • 更新日:2021/01/15
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シカゴ大学

今回は最初に昨年11月27日に公開した私のコラム、「100歳の物理学者に学ぶ生涯現役の秘訣 レーザーの父、霜田光一の百寿を祝う」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63039)に、シカゴ大学フェルミ研究所からお寄せいただいた、不正確な記載への修正から始めたいと思います。

「1953~54年にかけての霜田先生のお仕事がなければ、そもそもタウンズ研はメーザーの発振に成功することがなかったでしょう」は全く事実に反します。

霜田先生がメーザーの実験を始められたのは1954年9月にコロンビア大学のタウンズ研究室に行かれてからですが、この時タウンズ研ではすでにメーザー発振に成功しており論文「Gordon, Zeiger, Townes, Phys. Rev. 95, 282L」(1954)は出版されていました。

このご指摘を下さったのは岡武史先生、シカゴ大学名誉教授で、まさにこの1953年、学部学生であり、おいおい霜田研で研究された碩学からのご指摘、謹んで訂正させていただきたいと思います。

JBpressの連載がシカゴ大学フェルミ研究所で碩学のチェックを受けているとは・・・。身が引き締まる思いで、身震いしてしまいました。

本稿は、前回の轍を踏まないよう、事前から岡武史先生にご一覧をいただいて出稿しました。

岡先生ご自身のコスミック・スペクトロスコピーのお仕事にも言及したかったのですが、「一切不要」とのご添削。

何と清々しいことか。心に沁みる思いで校正したものが以下になります。

以下はシカゴ大学フェルミ研究所宛にもお送りしているので、やや細かく、長文になっていますが、良心的な読者の皆さん、どうかご海容をお願いします。

2020年11月のコラムに私が記した内容には、勇み足がありました。でもそれにはいくつか背景があるのです。

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「素晴らしく明快」な霜田講演

岡武史先生には、心温まるご返信とともに、先生が霜田先生の白寿の会の折に寄せられたスピーチ原稿を送っていただきました。

その原稿によりますと、理学部化学科の学生であった岡先生が初めて霜田先生を見かけたのは(朝永振一郎先生たちがサポートされたのだと思います)東京教育大学(当時)での学会での折だったそうです。

ほかの大半の人の話がよく分からない中、霜田先生が登壇されると、「素晴らしく明快で、やはり物理をよく理解している方が話されると初学者でもついて行けるのだと大変心強く感じ」られた。そうなのですよね。

得てして初学者には逆の印象があるようですが、難しいことを難しく話すのが一番楽、簡単なことを難しくしか話せないのは話者の理解の浅さを示しているだけです。

本当に理解している人は、高度な内容を非常にシンプルに、簡潔に表現して本質から論点を逸らしません。

岡先生のご講演はその後、「その1年くらい後に霜田研の平川浩正さんと宮原昭さんが化学教室に来られて、霜田研でマイクロ波分光をやらないかと言われたときは、一も二もなく大張り切りでお受けしました」と続くのですが、ここで私は目を疑い、手が止ってしまいました。

あの人も、この人も・・・ 多分野のパイオニアを生んだ霜田研究室

というのも、宮原昭先生(http://www.jspf.or.jp/Journal/PDF_JSPF/jspf2015_04/jspf2015_04-294.pdf)といえば「名古屋大学プラズマ研究所」(https://www.plasma.nagoya-u.ac.jp/about/greeting/)の父というべき存在で、核融合やプラズマの偉い人、というイメージです。

これに対して平川浩正さんといえば、私が学生時代に現役のまま亡くなられた「相対性理論実験」の先生、特に「重力波」を測るという無謀な挑戦に乗り出し、助手だった坪野公夫さんがラボを継がれ、その助手で学年の近い三尾克典さんには、研究室の什器を譲ってもらったり、といったことを含め、大変にお世話になっています。

平川先生は「重力波」測定という、当時は学部学生だった我々にはドン・キホーテ的に見えた先駆的な研究に着手され、志半ばで亡くなられたのですが、現実にはLIGO(https://ja.wikipedia.org/wiki/LIGO)プロジェクトで重力波が発見(2015/16)されます。

まさか私たちが生きている間に重力波が観測されるとは、当時は思ってもみませんでした。

このLIGOで日本人として同プロジェクトで重責を担うカリフォルニア工科大学の「LIGO Hanford Observatory(https://www.ligo.caltech.edu/WA)の川辺径太君(https://arxiv.org/abs/1311.6835)は坪野研究室の出身です。

世界をあっと言わせた重力波測定、それに成功したのは平川浩正先生の孫弟子世代にあたる川辺君や、現在は東京大学地震研究所の新谷昌人君など、私たちのジェネレーションでした。

まさか平川先生が霜田研の出身とは、今日の今日まで知りませんでした。「平川研」がオリジナルだと思ったまま、そこで思考停止していたのです。

さらに平川先生の訃報を、同じ研究室の先輩にあたる西川哲治先生(https://www.jstage.jst.go.jp/article/butsuri1946/42/3/42_KJ00002749221/_article/-char/ja/)が書いておられる・・・。

西川さんといえば、若くして原子核研究所に日本発のシンクロトロンを建設、つくばのKEK、高エネルギー物理学研究所の生みの親で、私が学生時代は彼が指導する電子・陽電子衝突型加速器「トリスタン」の総司令官、のちには東京理科大学学長なども務めた素粒子実験の総帥でありました。

陽の西川・陰の小柴 Bファクトリーとカミオカンデ

同い年で、目から鼻に抜ける秀才として音に聞こえた西川さんが、強烈なキャラクターの「陽の思想」であったのが、シカゴ帰りではるかにスロースターターだった小柴昌俊さんを「陰の思想」に向かわせた一因だろう・・・などと、私たち口さがない物理学生の間で囁いたりしていました。

西川さんのお父さん、西川正治・東京帝国大学理学部物理学科教授は世界的に見ても早い時期に最先端のX線解析で成果を出したパイオニアです。

日本物理学の原点で白虎隊の生き残り、山川健次郎が育てた長岡半太郎など和製・先端物理第1世代に続く、寺田寅彦など第2世代の旗手、西川正治。

彼は寺田教授が日本に導入した当時最先端のX線解析で画期的な結果を出し、戦後は文化勲章も受章しました。

その碩学のご子息でサラブレッドの西川哲治先生・・・といったレベルの認識で、私自身は止まっていました。

誰もが知る素粒子実験のスーパースター。西川先生の「トリスタン」に、かつて小柴研は「水玉実験」を提案、あえなく却下されたりしていた。

そこで向かっていったのが「陰の思想」です。この「陰の思想」とは何か――。

猛烈な高エネルギー加速器の建設ではなく、地下の廃鉱山に澄んだ水を大量に湛え、宇宙から飛来するニュートリノを待つという、完全に別の発想を小柴さんが実行に移したこと・・・。

カミオカンデ」の創成・・・を指しています。

当時の助手、渡邊靖志さんの分かりやすく楽しい解説がありましたのでリンク(http://www.npointelligence.com/Techno-Intelligence/Theme-A/Theme22(Kamio)/theme22.html)しておきます。

結果的にラッキーだった小柴氏は、この「陰の思想」の水玉、カミオカンデを本来の「陽子崩壊」から「太陽ニュートリノ」にターゲット変更したところ、ほどなく「超新星爆発」からのニュートリノを捉え、ノーベル賞ももらいます。

しかし、これは序曲にすぎません。

本質的には「ニュートリノ振動」という、現在の標準理論では説明がつかない現象が大本命でした。

しかし、この仕事は初代の助手であった須田英博、第2期の学生であった戸塚洋二といった人たちの尽力があって成立したもので、決して小柴という「一将」で成ったものではありません。

第1期の折戸周治先生、山田作衛両先生も。研究室の立ち上げから、それこそ骨身を削って頑張られた。

当時の小柴研といえば朝から晩までいつでも働いている、恐ろしげな猛者の集団のイメージ、いまは温和な浅井祥仁君が跡を継いでいますが、浅井の妥協のなさ、徹底ぶりはむしろ上の世代に輪をかけるほど綿密繊細を徹底しています。

ところが上記のメンバーは山田さん以外全員、皆働きすぎて早くに亡くなってしまいます。

生き残った梶田さんがノーベル賞をもらって、いまは日本学術会議会長なども務めている。小柴さんも先日鬼籍に入られた・・・。

といったわき道は置いておいて、日本素粒子実験「サラブレッド・マフィア」の大ボス、西川哲治にして「霜田研究室」の出身だという・・・。

率直に申して、全く知りませんでした。

「小柴のカミオカンデ」は現時点までで2個のノーベル賞をとっている。

では他方、素粒子実験のサラブレッド・マフィアなどと失礼な表現をしてしまいましたが「西川のトリスタン」はどうだったのか、と見れば・・・。

トリスタンの後継プロジェクト、Bファクトリーの実験が「小林益川理論」を検証し、2008年の小林誠・益川敏英両氏のノーベル物理学賞に直結しています。

霜田研直系の学統からは、分野を超えたノーベル賞が、日本と海外を問わず、実はいくつもいくつも出ていることになる。

このとき同時にノーベル賞を「半世紀遅れで」南部陽一郎先生がお受けになったのを思い出すにつけ、褒賞などというのはあてにならないものです。

こういうすべての原点に、後述するように霜田先生の「火花を散らすような」実験の現実があった。私自身そのことを今日まで認識していませんでした。

本当の才能は、ロビー活動などには目もくれず、昼夜自分の仕事場で夢中になってテーマに取り組んでいる。

その典型を私たちは「霜田光一」先生に見るわけです。

「火花の散る勢い」霜田光一の実験

岡先生の、霜田先生「白寿」の祝辞講演は、さらに以下のように続きます

「当時先生は34歳、気鋭の実験物理学者で毎朝6時から12時まで原子時計の実験をしておられました。西川哲治さん、宮原昭さんなどがお手伝いされていました」

「新参の僕には理解すべきもありませんでしたが、この写真にありますように先生が火花が散るような勢いで実験されているのを小僧っ子の頃に直接見たのはその後一生僕の戦力になりました」

「先生は世界一の実験物理学者であり、その方から直接指導を受けたのは僕の一生の幸せでした」

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毎朝6時からお昼まで、火花を散らすよ宇に実験に集中する霜田光一先生(1954)。写真ご提供:岡武史先生

この一文を岡先生に送っていただいたのは、私には人生の一大ショックになりつつあるように思います。

30代前半の霜田先生が「火花が散るような勢い」で実験しており、その周りで、あの素粒子実験マフィアの大ボス西川哲治やプラズマの大御所、宮原昭が「お手伝い」している、という図を想像しただけで、正直申して私はまず吹き出してしまい、それから真剣に考え込んでしまいました。

西川、宮原、平川といった超絶的な秀才たちが、天衣無縫、ほとんど動物的な勘も働かせまくりながら、朝6時から午前中いっぱい、お昼12時まで猛烈な勢いで実験している。午後は講義がありゼミナールがあり・・・といった大学の日常が続く。

そんな霜田さんの周りで、並み居る秀才たちは「お手伝い」しながら何を感じ考えたのか?

片や理論には、朝永振一郎という世紀の巨匠、リベラルで明朗快活なN.ボーア~W.ハイゼンベルク直伝の学風で若者を心の底から応援し、そこから世界に羽ばたいた筆頭として、あらゆるアイデアを惜しみなく人に与えてしまう無尽蔵の泉、南部陽一郎という知の光がありました。

他方、実験ではどうだったのか?

仁科芳雄博士の素顔

第2次世界大戦期までの日本の実験物理は、世界トップの水準といまだ距離があったように思われます。

確かに、N.ボーアに学び、相対論的量子力学を基礎づけたディラック方程式から出発して「トムソン散乱」と「コンプトン散乱」を統一する「クライン=仁科の式」を打ち立てた仁科芳雄博士(890-1951)、電子線回折の画期的な業績を上げ、大阪大学の実験物理を立ち上げた菊池正士博士(1902-74)、後にも触れますが寺田寅彦~西川正治のX線回折の仕事など、世界レベルの仕事は出始めていた。

でも、仁科チームが建設に取り組んだ粒子加速器「サイクロトロン」は、装置の真空度が低いなど、周辺的な技術水準が十分追いつかず、難儀したことが伝えられます。

この時代の実験は、大半が「真空管実験」です。

私の祖父は1908年にミシガン大学を卒業しましたが、「電子工学」はすべて真空管、当時の日本では真空技術が不十分で、適切な実験は困難で、仁科さんのサイクロトロンもそのあたりで幾度も頓挫している。

片や、戦時研究のくびきをはなれ、霜田先生が若くして助教授に着任したとき、日本には「素粒子実験」も「プラズマ実験」も「物性実験」も、何の分野もなかった。

そこでゼロからスタートされたとき、まずきちんと現象を再現する物理的条件(装置の真空から業者に発注する真空管の品位、値段の交渉などまで含め)に始まって、すべてをチェックし直す必要があったのは、間違いないはずです。

さて、三十数年後に学生であった私たちには

素粒子は筑波の高エネ研、対抗勢力でカミオカンデ、原子核実験なら原子核研究所、プラズマは一時の勢いがすでになく、物性は自由が効いて百花繚乱・・・といったジャンルが成立し切っていました。

ちなみに私の東京大学理学部物理学科での卒業研究は、米国帰りの山本祐靖先生のもとで、当時準備が進みつつあった「スーパーカミオカンデ」対応の、新しいカウンターの「真空管」である「フォトマル」おばけ電球と呼ばれていました。

この「較正」で、素粒子実験と言いながら、やってることは完全に古典電磁気学の応用問題です。

その電流値を較正するため、波長の分かった光を入れてチェックするのに、1980年代後半に出始めたばかりの「レーザーダイオード」を用いてチェックする「キャリブレータ」を作るという仕事でした。

理学というよりはそこで使う道具の一つを精密にチェックするためのエレクトロニクスのごくごく一部にすぎません。

しかも素粒子実験と言いながら、新しく出た値段の安い「レーザーダイオード」を用いて、まずその特性を測り、次にそれをフォトマルに入れたらどうなるかを調べるという「光物性実験」、つまり霜田研のテーマのはるか下流のデバイス開発のような仕事で、私自身も理学部物理学科を卒業しました。

それを徹底することで、およそそういうものに弱かった私でも、実験科学とは何であるか、少しは学ぶことができました。

結局、私は巨大科学の素粒子原子核ではなく、個人の自由が効く物性に進みました。

ところが、修士2年のとき、プラズマの宮本先生が定年されて山本研の岸田隆助手が受け持ちとなった必修実験「真空技術」でTA(ティーチング・アシスタント)を担当し、必ず押さえる内容以外は「好きにしていいよ」と言ってもらったので、大塚洋一先生と一緒に考え、単に真空にするだけの実験であったものに「ガイスラ―管」という真空管を取り付け、中の物質の状態を目で見えるようにするなど、カリキュラムを全面的に書き改めて好きなようにさせてもらいました。

20年ほどして偶然、この実験を担当しておられる私の大好きな蓑輪眞先生にご指導いただいて「福島対策」で被災地の中学生に放射線可視化実験を宅配したとき、当時の必修真空実験がまだそのまま踏襲されていると知り、心の底から嬉しかったのを思い出しました。

先端研究というと、何か派手なものと世の中は思うようですが、実は基礎工学的な積み上げが9割方です。

高度な量子力学的効果を測定するには、使い古された古くからのエレクトロニクスを巧みに駆使する、「古典の最良の使い手」であることが決定的、これは理論と実験の別を問いません。

平川さんはそういう「見事な物理」を展開する人として知られ、少し上の世代である高橋秀俊先生以下「ロゲルギスト」のメンバーたちが展開、普及した考え方の、最先端部分を掘削し続けたのが霜田先生、霜田研究室と、同時期に勃興した研究群であったのだと、改めて認識することができました。

「サイエンス全体」と全力で取り組む

素粒子、物性、高エネルギー、極低温・・・。

そんなジャンル分けは昭和20年代、いまだ焼け跡闇市の日本のサイエンスには、一切なかった。

戦後、すべての実験物理の原点は、一つの芽から始まった。それが「霜田光一とその時代」のサイエンスの黎明であった・・・。

もちろん同時代、ほかにもラボはたくさんあったと思います。

西川さんのお父上、西川正治東京帝国大学理学部物理学科教授が、師匠の寺田寅彦教授の示唆を受けて完遂した先駆的なX線解析などもあった。

そして、そういう環境で学生として学ぶことができて、霜田先生その人も育まれた。

霜田少年が学んだ今でいう中高一貫、7年生高校であった旧制武蔵高等学校は、長岡半太郎たちを育てた山川健次郎が東大や京大の総長をすべて引退し、人生の最終段階で「ティーンエイジャーを育てなければならない」と、自ら校長となって指導したサイエンス・スクールでした。

白虎隊の生き残りですから、ティーンの刻印の重要性が山川には強く感じられたのかもしれません。

霜田先生ご自身は山川校長に直接習っていないと思いますが、「すぐれたものを、おしみなく」という大原則。世界最先端の実験環境を整えたうえ、そこで「放し飼いにする」。

つまり、あれこれ手を入れずほったらかして育てるという「1920年教育改革」の申し子として高橋秀俊、戸田盛和、植村泰忠、上村洸、また有馬朗人といった物理屋群像が育っていった。

ほったらかしですから、野生動物のようにどんどん自分流を増幅させてゆき、17、18歳頃には「火の出る勢い」の原型ができていたのだと察せられます。

霜田先生と同世代で、惜しくも2020年10月、101歳で逝去された電気工学の斎藤成文先生(1919-2020)が、1945年、海軍技術大尉として、1歳下の霜田青年(当時24歳)らのチームが作ったレーダ装置を陸軍1式陸上攻撃機に乗せて三沢基地から飛び立った、我が国初のレーダー実験の模様をつづっておられるのをリンク(http://todaidenki.jp/?m&paged=24
しておきます。

「八甲田山や三陸海岸が、はっきりブラウン管に写ったのを鮮明に記憶している」

25歳の霜田先生は、ここでも全力を尽くされたことがひしひしと伝わってくるように思いました。

同じ問題に米国ではファインマンやシュヴィンガー、ラムやピアース、タウンズなども取り組んでいた。それが戦後、平和な理学が孵ってきたとき、大きな実を結んだ。

そうした中心で、ひときわ強く輝く「現代物理実験の父」が、霜田光一その人と言うべきだと思います。

ここにはせまっ苦しい「学閥」のようなものはありません。レーザーでノーベル賞を受けたタウンズ研との交歓でも明らかなように、ここには世界に開かれた「学統」がある。それを大切に考えたいわけです。

でも戦前までの大半の理工学は、19世紀にお雇い外国人などを通じて輸入された古典的な仕事だったと思います。

いま、70年を経て振り返るとき、その後の歴史への貢献を考えて、霜田研ほど、多様な分野にパイオニアを送り出した研究室は稀有だといってよいと思います。

素粒子原子核実験、加速器科学、マイクロ波物性から宇宙線、レーダー、レーザー、量子光学、広範な量子エレクトロニクス分野の数々、さらにはH3+の観測による天体物理研究、ブラックホール近辺の赤外線観測まで・・・。

「霜田光一とその世代」の世界の科学者が、先生の「火花の散るような」エネルギーに触発されて奮起したことは間違いありません。

霜田研が「一大原点」であったことは、あらゆる意味で間違いがない。

その原点で、心の赴くままに「現代物理実験」の原点を「火花の散る勢い」創り出していたのが霜田光一その人であり、続稿に記す予定ですが、レーザーの父タウンズも、半年にわたって霜田研究室に長期滞在、創造的な議論とコラボレーションに取り組みました。

ジャンルの確立された縦穴を掘るのではなく、心惹かれる対象に素朴に向き合って、ゼロから物を作っていく、人生最高の愉悦としてのサイエンス。

まさに「科学の全体」に対して、全身全霊、全力で立ち向かっていく、極めて人間的でもあり、また生涯を賭してがっぷり四つに組んで力を出し切る「青空」があるように思うのです。

現代実験物理学の父、 霜田光一はいまも生きている!

私は150%実践的な音楽家で、芸大ではいじわるなソルフェージュ教官でもあった、サイエンスに関しては常に半歩、身を引くことを弁えた大学人生活を23年ほど送ってきました。

それだけに集中している人に対して、失礼に当たりますから。

ただ、こと科学に関してはサイエンス・スクールで学んだおかげで、この「青空」の存在くらいは弁えています。

そういう「青空」を、戦後の焼け跡の上空に夢見て、すべてをゼロから手作りされたのが「霜田光一の物理」です。

その猛烈な勢いを横で見ながら、こんな人と同じテーマをやってたら、ぜったいにどうにもならないだろう、どうしたものか・・・などと思ったかもしれない、西川さんも平川さんも、多くの名だたる秀才たちが、新しい分野を求めて船出して、その出先で、各々「火花」を散らして仕事した。

さらに遅れてシカゴから帰ってきた小柴さんのところなど、あそこは体育会系というか、昼夜の別なく修行僧のように実験するので有名でしたが、もっと別のアプローチに進む際にも「火花」を散らすスタイルは、間違いなく強烈に影響を及ぼしていたのだろうと思います。

だって、小柴さんが学部学生だったとき、霜田先生はすでに助教授として、学生や院生を教えていたわけですから。

そんな小柴さんがノーベル賞も受賞し、先日天寿を全うして幽冥境を異にしましたが、それよりも「未来」である2021年の現在も、さらに上の指導教官世代、現代実験物理の真の意味の父である霜田光一先生は「数え102歳の現役」満100歳の今現在もお元気で、今現在もサイエンスしておられる。

そのこと自体を驚き、喜ぶべきであるとともに、いまコロナで打ちひしがれている大学生、院生たちに、私は声を大にして伝えたいと思うのです。

霜田先生の青空の精神、その自由と闊達、そして「火の玉」のパワーが、コロナに呻吟する若い世代のこころを揺さぶり、活気づける力となってほしい。

ジャンル、縦割り、たこつぼ・・・様々なつまらないことたち、「それと自然科学と、何の関係があるのか?」と、ボルツマンやアインシュタインのように問い返さざるを得ない。

本質と関係ない枝葉末節に蹂躙されて、2021年のティーンや20代たちは、知的にもメンタルにも、ほとんど窒息しそうになっている・・・一教官の目にはそのように映ります。

それを、本来の精神の自由に解き放つ、強力なイニシアティヴを霜田光一先生の物理に見ないわけにはいかないのです。

現代実験物理の父、「霜田光一は生きている」。その存在は、2021年のいまをレーザーの光で明るく照らしているのです。

(つづく)

伊東 乾

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