【逆説の日本史】青島要塞攻略の戦場レポートで指摘された日本軍の「幾多の欠陥」

【逆説の日本史】青島要塞攻略の戦場レポートで指摘された日本軍の「幾多の欠陥」

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  • 更新日:2023/11/21
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作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ)

ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十二話「大日本帝国の確立VII」、「国際連盟への道5 その13」をお届けする(第1399回)。

* * *
青島要塞攻略戦において日本側の総司令官神尾光臣陸軍中将が取った作戦は、兵員の損傷を最小限にして最大限の戦果を挙げた見事なものであった。この点については、『東京朝日新聞』も神尾中将の作戦を日露戦争の乃木希典大将の作戦とくらべて「猪突的の惡戰を試みることなく飽まで最近の攻城戰術に則り正攻法」を取ったと評価しているし、「敗軍の将」マイアー・ワルデック海軍大佐も朝日記者のインタビューに「(日本側の戦死者が)其實千七百の死傷に過ぎざりしは今更ながら戰鬪の巧なるに驚かざるを得ず」と答えている。

一方、アメリカの各紙が「ドイツ軍が勇戦敢闘した」ように書いているのは、反日感情に基づく一種の捏造報道だと私は考えるが、じつは博文館刊の戦場レポート『歐洲戰爭實記』を見ていくと、戦勝後は神尾中将の戦略あるいは功績に対する評価が次第に変化しているのだ。たとえばこんな具合に、である。

〈青島は陷落した。アツケなく陷落して了つた。旅順にも優る防備が施されてあると噂されたにも拘らず、總攻撃開始後僅かに一週間を支へるに過ぎなかつた。(中略)獨逸軍の死傷の極めて少くして、其の大部分が徒らに生命を全うして俘虜となつたのは、彼等が本氣で防守の責を盡さなかつた一證である。俘虜の或る者は明言してゐる、『我々は日本軍の突撃を今か今かと待つてゐた』と、殊勝氣にも或は聞かれるが、彼等の眞意は『いざや好き敵ござんなれ!』と待ち構へたのではなく、突撃さへして來て呉れゝば、早速降伏して怪我せぬうちに俘虜となり、命を助からうといふのであった。(中略)獨逸兵にして決死の覺悟で防いだならば、各炮臺の奪取せられるまでに、日本歩兵の少くとも十分の一は犧牲とならなければならなかつた筈である。獨逸兵が青島の防御に本氣でなかつたのは、敵味方の孰れも死傷の過少であつたので證明される。〉
(「青島陷落の後」澁川玄耳 『歐洲戰爭實記 第十號』掲載)

この澁川玄耳という人物、なかなかのジャーナリストで文筆家としても筆の立つ人間だった。

〈渋川玄耳 しぶかわ げんじ
1872─1926
明治─大正時代の新聞記者。
明治5年4月28日生まれ。東京法学院(現中央大)、国学院にまなぶ。熊本の第六師団法務官をへて、明治40年東京朝日新聞社社会部長にむかえられる。朝日歌壇を再設し、石川啄木を選者に登用。藪野椋十の筆名で随筆を連載した。のち国民新聞社などにつとめた。大正15年4月9日死去。55歳。佐賀県出身。本名は柳次郎。〉
(『日本人名大辞典』講談社刊)

澁川は、熊本時代には当時第五高等学校の教師をしていた夏目漱石と親交があり、その縁を生かしてのちに漱石を朝日新聞の専属作家とした。『三四郎』『それから』『門』といった名作は朝日新聞連載であり、澁川が提供した生活の安定がこうした名作を生んだと言ってもいいだろう。

生活の安定と言えば、石川啄木を歌壇の撰者に抜擢したのもそうだ。澁川は「右」であり、啄木は「左」で思想的にはそりが合わないはずだが、啄木の才能を高く評価した澁川は啄木の第一歌集『一握の砂』にも藪野椋十の筆名で序文を書いている。それは思想信条にかかわらず才能を高く評価するということで、澁川の美点と言っていいだろう。

また、歌壇のみならず投書欄や家庭欄も一新し、朝日の発展におおいに尽くしたが、性格に狷介なところがあり社の幹部と対立し辞表を叩きつけて退社し、以後は主にフリーランスのジャーナリストとなった。日本初のフリーランスジャーナリストではないかという人もいる。一九一二年(大正元)に朝日を退社したときは、新聞の死亡広告欄の横に「自分の告別式はしない」と書いたとも伝えられている。相当ユニークな個性の持ち主だったのだろう。日露戦争のころから軍務の片手間に戦場報告を書いており、いわば戦場レポーターとしての筆にも定評があった。

つまり文才にも恵まれた優秀なジャーナリストなのだが、正直言ってこの『歐洲戰爭實記』に掲載された戦場ルポを、私は高く評価できない。どうしてそうなのかは、これまで述べてきたことでわかっていただけると思うが、まず青島要塞が「アツケなく陷落」したことを、「彼等(ドイツ兵)が本氣で防守の責を盡さなかつた(要塞を守る気が無かったから)」と断じているのが問題だ。

たしかに、ドイツ本国から見放され補給も期待できなかった青島守備隊の兵士たちの士気は低かった。それはそのとおりなのだが、それを見透かして余裕を持って砲撃のための包囲網を完成させ、満を持して攻撃した神尾中将の戦略があったからこそ要塞はあっという間に落ちたし、日独両軍の犠牲者も少なくて済んだ。これは神尾中将の最大の功績であるにもかかわらず、澁川はその点をまったく評価しないばかりか逆にドイツ軍の死者が少なかったことを、彼らが戦う気が無かったことの証拠だとしている。

本来なら、この攻防戦では「日本歩兵の少くとも十分の一は犠牲とならなければならなかった」はずなのに、それがきわめて少なかったのは神尾中将の功績では無く、ドイツ兵の士気喪失が原因である、という本末転倒の論理になっているわけだ。澁川は日露戦争に従軍し高い評価を得た戦場ルポも書いている。法務官とはいえ陸軍に所属し現地を自分の目で見ている人間なのに、どうしてこういう評価になるのだろう?

ひょっとしたら、乃木大将が旅順要塞攻防戦で実行した「猪突的の惡戰」のほうを「模範」と考えていたのかもしれない。朝日新聞ですら神尾の作戦は乃木の戦法を超えた見事なものであると評価しているにもかかわらず、である。そして神尾戦略を高く評価するなら、この戦争は日本陸軍にとってきわめて有意義な体験であり、今後こうした要素を作戦に取り入れていくべきだということになるのだが、澁川の評価はまるで逆である。

〈戰爭としては、青島攻圍は格別の値打はなかった、戰爭の經驗として、我が軍が獲る所のものは少なかつたとと(原文ママ)思ふ。此の戰爭が、結果に於て良好であつたに拘らず、嚴密に批評すれば、却つて日本軍の幾多の欠陷を暴露した點がある。〉
(引用前掲記事)

どうしてこんな結論になってしまったのか? 公平な評価を述べるならば、戦ったドイツ軍側も認めている神尾中将の名戦略で、要塞攻略の新しいパターンが生まれたことを強調すべきであろう。「結果に於て良好」な大勝利となったのはそのためである。それなのに、なぜ「格別の値打はなかつた」「戰爭の經驗として、我が軍が獲る所のものは少なかつた」などと言えるのか。まさかとは思うが、あえて朝日新聞とは逆の評価をして朝日に一矢報いようと思ったのか。どう考えてもよくわからない。ひょっとしたら、澁川の頭のなかは「軍神乃木大将の作戦こそ正しい」という固定観念に支配されていたのかもしれない。

輜重輸卒をバカにする「歌」

では、この戦いで示された日本軍の「幾多の欠陥」について、澁川は具体的にはなんと記しているのか? じつは、この後の記述を読んでも澁川はそれにまったく言及していないのである。これも不可解な話だが、同じ号に代議士川原茂輔の現地ルポが掲載されており、そのなかには日本軍の改良すべき点について詳細に述べた文章がある。

川原は一八五九年(安政6)生まれで、『佐賀日日新聞』を経営した後に地元から代議士に当選している。一八七二年(明治5)生まれの澁川にとってみれば、「郷土の大先輩」である。おそらく現地青島で二人は顔を合わせただろうし、その後同じ雑誌に寄稿することになれば、記述内容がダブらないように調整したこともじゅうぶんにあり得る。「澁川君、軍の改良すべき点はワシに書かせてくれ」とでも言われれば、「後輩」は譲らざるを得まい。そこで川原のルポから、そうした部分を拾ってみよう。

〈要塞を蔽うて居る鐵筋コンクリートの如きは、厚二尺四五寸(1尺は約30センチメートル。1寸は約3センチ。引用者註)にも逹し、我が二十四珊(センチメートルのこと。引用者註)二十八珊の如き巨炮も、之に對して何等の威力をも示して居ない。最も效力を奏したと認めらるゝものでも、僅々深さ一尺位の穴を穿つて居るのみで、其他は僅に或る一部分を少し許り掻き取つて居る位に過ぎない。其防備の強固なることは到底旅順などの及ぶ所ではない。余は是等の戰跡を見て切に感じたのは、我國の兵器改良の急切なることである。今後益々要塞の構築法が進歩して行つたならば、今の儘の我炮では何等の效力も示さない事になるのは明かなる事である。〉
(「青島視察によりて感じたる事共」川原茂輔 『歐洲戰爭實記 第十號』)

また川原は、こうも言っている。

〈青島一帶の道路は甚だ險惡にして、一度び雨が降れば忽ち一面の泥の海と化し、その泥土は馬の腹部に迄で逹するのである。その中を只だ歩くだけでも容易でないのに、車には莫大の兵器彈藥を滿載して居るので、其困難はとても想像の及ぶ所でない。これが爲め、多くの馬匹の中には、過勞に堪へずして、腹部まで泥中に沒した儘斃れたものも澤山ある。〉
(引用前掲記事)

だから川原の結論は当然こうなる。

〈此度の兵站部の苦難の程度は、到底日露戰爭の夫の比でなかつたといふことである。神尾將軍も『自分は敵は少しも恐れないが、一番恐ろしいのは雨である』と云はれた位だ。世人は命を棄てゝ戰陣に立つ者に對しては相當尊敬も拂ふが、後方勤務に對しては、一般に深く意を留めない。是れは實に過つた考へである。〉
(引用前掲記事)

これは、まさに川原の指摘どおりだと言っていいだろう。日清・日露戦争でも兵站(補給)がきわめて軽視され、それが日本軍の苦戦の最大の原因だった。そして、なぜそうなるかと言えば、日本人は最前線で「勇戦敢闘する兵士」は尊敬し万雷の拍手を送るが、その「勇戦敢闘」を可能ならしめた兵站部門はまったく評価しないからだ。それどころか、担当する輜重(輜重兵。兵站部所属)輸卒(実際に物資を輸送する兵站部所属の兵卒)をバカにする「歌」まであった。

「輜重輸卒が兵隊ならば、チョウチョ・トンボも鳥のうち」「輜重輸卒が兵隊ならば、電信柱に花が咲く」等々であり、このことは『逆説の日本史 第二十四巻 明治躍進編』ですでに紹介しておいたが、川原もこのルポで「電信柱」の歌を引用し、日本人の兵站部門への軽視いや蔑視を「實に過つた考へである」と糾弾しているのである。ひょっとしたら、川原はこの糾弾はぜひともすべきではあるが、陸軍出身の澁川にはやりにくいだろうと考えて「ワシが書く」ということになったのかもしれない。

残念ながら、川原の指摘は生かされなかった。日本軍の、主に陸軍の最大の欠点の一つである「兵站蔑視」は大日本帝国が崩壊し日本陸軍が壊滅するまで改善されなかった。一九四一年(昭和16)から始まった大東亜戦争では、ガダルカナルの戦いでもインパール作戦でも日本軍の兵士は餓えに苦しみ、少なからずの兵士が餓死した。その最大の理由が、補給軽視による食料不足であることは否定できない事実である。

しかし、このことは考えてみればじつに不思議な話である。日本人は昔から「裏方の苦労」というものを高く評価する民族である。たとえば、甲子園の高校野球で優勝したチームのドキュメンタリーをやれば「選手に美味しい料理を提供した寮母」「練習グラウンドを常に整備した職員」等々の努力が必ず語られるではないか。また映画館で外国映画が上映されたとき、エンドロールのスタッフ一覧表を多くの観客が最後まで見ている。じつは、世界にそんな国は他に無い。

普通の国では本編が終わったらさっさと映画館を出るのがあたり前である。「人間は一人では生きられない。多くの人々の世話になって生きている」そのように父母から教えられた人も多いはずである。それなのに、大日本帝国陸軍においてはすでに日清戦争で「裏方の苦労の無視」が指摘されていたのに、日露戦争でも第一次世界大戦(青島の戦い)でも痛い目に遭ったにもかかわらずそれが改まらず、最終的には陸軍壊滅の最大の原因の一つになったのである。じつに不思議な話ではないか。なぜそんなことになったのか? 〈以下次号〉

(第1400回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2023年12月1日号

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