三種の神器を持ち逃げした後醍醐天皇、その意図とは

三種の神器を持ち逃げした後醍醐天皇、その意図とは

  • BEST T!MES
  • 更新日:2018/02/15
No image

皇位継承の証として歴代天皇が受け継いできた宝物「三種の神器」。その神宝をめぐって、平安末期と鎌倉末期に繰り広げられた2大紛争の実態に迫る。八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の宝物を「三種の神器」という。

皇位の正統権をめぐり北朝と南朝の争いが勃発

光厳上皇が入京して2ヶ月後の8月15日、光明天皇の践祚が行われたが、三種の神器は後醍醐が持ち出していた。それゆえ、光明の践祚は、光厳法皇による宣言(太上天皇詔)で処置している(『匡遠宿禰記』)。この剣璽なき前例による践祚は、武家つまり尊氏の要請によるものであった(『建武三年以来記』など)。
その後の後醍醐方の戦いは不利な展開を見せており、同年8月25・28日の決戦では敗北を喫している。
この機会を捉えた尊氏は、坂本の後醍醐に和睦を申し入れ、後醍醐は同年11月2日に三種の神器を引き渡すことになったのである(『勘例雑々』)。

三種の神器と引き換えに、後醍醐は太上天皇の尊号を与えられた。また、後醍醐の皇子である成良親王は、皇太子に定められた(『神皇正統記』)。ところが、『続史愚抄』の同年11月2日条には、後醍醐から引き渡された三種の神器が「偽物」であると記されている。
和睦からわずか1ヶ月後の12月21日、後醍醐は一路大和国の吉野を目指したが、三種の神器も携行していた。吉野に到着した後醍醐は御所を構え、再び天皇位についた(『皇代略記』)。日本には南北に分かれて、二人の天皇が存在することになったのである。

弱体化した南朝を支えたものこそ、三種の神器

後醍醐が三種の神器を持ち出したことは、切り札にするための「誠に奇特の事」(『神皇正統記』)であった。それはいうまでもなく、三種の神器が皇統を伝えるのに、重要な意味を持ったからである。
暦応2年(1339)の後醍醐の死後、三種の神器を伝えたことにより、後継者の後村上は無事即位を済ませ、新年号を制定しえた。南朝が継続した拠り所は、三種の神器にあったのである。では、南朝にとって、三種の神器とはどのような意味を持ったのであろうか。
南朝が三種の神器を重要視する理由を知るには、後醍醐の側近である北畠親房の著『神皇正統記』が重要な意味を持つ。
親房によると、三種の神器の鏡は「正直」、璽は「慈悲」、剣は「知恵(決断)」をそれぞれ象徴するものであり、政道に携わる天皇が兼ね備えなくてはならない徳目であった。その意味でも、三種の神器は天皇にとって重要だとしている。

つまり、三種の神器を持たない天皇は、「正統」ではないといえる。後村上は三種の神器を擁していたので、「正統」の天皇になる。弱体化し今にも解体しそうな南朝を精神的に支えるのは、三種の神器を擁した天皇であった。
後村上即位後、南朝と北朝の抗争は続いたが、再度和睦の案が浮上した。和睦を提案したのは、尊氏の弟・足利直義であった。このとき問題となったのは、北朝・南朝がともに三種の神器の保持を主張していることであった。

(次回に続く)

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

コラム総合カテゴリの人気記事

グノシーで話題の記事を読もう!
いい大人がカーセックスしている場所ランキング――2位は駐車場や竹林、1位は...?
うつ病の人が良く使う言葉には特徴がある。言語分析で「うつ語」の存在が明らかに(英研究)
【心理テスト】選んだクレヨンの色でわかる、あなたが心から望んでいる生き方
糖尿病予備軍かも!? やってはいけない生活習慣6【糖質制限の基本】
【心理テスト】直感で選んだ石でわかる「あなたの真の性格」が的中率抜群! 近い将来変化が訪れる人も...!?
  • このエントリーをはてなブックマークに追加