アルバニア、18歳で散ったパルチザンの少女マルガリータ 早春のアルバニアからクロアチアまで中欧自転車&バスの旅 第1回

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  • 更新日:2019/01/13
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(2018.2.24~3.24) 28日間 総費用42万円〈航空券含む〉)

イオニア海に面した南アルバニアの港町サランダ

千の窓の町として知られるベラト(RossHelen/Gettyimages)

2月26日。ギリシアのアテネから約10時間夜行バスを乗り継いで早朝4時頃ビーチリゾートの港町サランダに到着。

季節外れで町は閑散としていた。日が昇ってから、ぶらぶら走っていると、古いビルが並んでいる通りでゲストハウスのオーナーという髭面の男に呼び止められた。一泊8ユーロで共同キッチンがあるというので泊まることにした。

「こんなことなら共産党時代のほうが良かったよ」

ビルの8階にある古いアパートの3LDKを改装してゲストハウスにしていた。ちなみに中欧旅行中宿泊したゲストハウスはほとんどが一軒家やアパートを改装した“民泊”であった。

オーナーは40代半ば。サランダにもEU各国からの観光客が来るようになったので両親が住んでいたアパートを改装してゲストハウスを数年前に開業。

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(Smart/Gettyimages)写真を拡大

アルバニアはギリシアの北西、イオニア海・アドリア海を挟んでイタリアの対岸に位置する人口300万人、面積は日本の四国の約1.5倍という小国である。第二次大戦後は共産党一党支配が続き、ソ連や中国と対立してからは鎖国政策を維持して国際社会の発展から取り残されていた。当時の写真を見ると自動車が全く走っておらず主な移動手段は馬車であったことが分かる。

ソ連邦崩壊後にはバルカン半島や東欧各国同様に社会主義体制が瓦解して、1990年に自由主義・市場経済を導入。オーナー氏によると「体制変換の大混乱を経て最近やっと落ち着いてきたけど、暮らしぶりはパッとしない」

オーナー氏は中学生までは社会主義体制で育った世代であるが“皆が等しく貧しい時代”のほうが“一部の人間だけが上手に立ち回って金を儲ける時代”よりも生きやすい社会であると力説。オーナー氏はいかつい外見に似合わず心優しい御仁であった。

炉辺談話「ニッポンの技術がアルバニア農業を変えた?」

2月29日。アドリア海を左下に見ながら海岸線の山道を北上。アドリア海にギリシアのケルキア島(別名コルフ島)がぽっかりと浮かんでいた。

2014年の春に3カ月間東地中海から南イタリアを周遊したが、そのときにケルキラ島の山頂の高台からアルバニアの山並みを望見したことを思い出した。そのケルキラ島を対岸のアルバニアから万感の思いを込めて眺めた。

夕暮れ前にダーレムという海辺の絶壁にしがみついているような小さな集落に到着。一軒しかない薄汚れた食堂兼酒場に入ると、農夫や工事人夫らが早々と焼酎の地酒ラキで盛り上がっていた。

例により次々に地酒で乾杯をすることになり、そのうちに暖炉で羊肉の串焼きが始まりご馳走になった。腹が膨らみ酔いが回ったころに食堂兼酒場の親爺が「今夜はここに泊まれ。店を閉じたら簡易ベッドを用意するから」との有難い申し出。

こうして心置きなく焼酎と串焼きを堪能。そのうちにカードゲームをしていた田舎紳士が日本人と聞きつけて宴会に参加。田舎紳士は農業技術の専門家で3年間日本に滞在して東京農大の大学院で研究したというインテリであった。

彼は収穫した作物を窒素ガスで保存して鮮度を保持する技術を東京農大で研究して、帰国後は保存技術の普及に努めてきたという。世界の果てでこうした親日家に遭遇するのはバックパッカー冥利である。

ベラトは世界遺産の町

アルバニアはバルカン半島の小国の常として何度も他国の侵略・支配を受けてきた。第一次大戦後は混乱が続きイタリアの援助を受けるが、1939年にはムッソリーニ率いるファシストのイタリアに併合されてしまう。

第二次大戦ではアルバニアは独伊軍のギリシア侵攻の基地となった。アドリア海沿いの幹線道路には第二次大戦中に築かれたコンクリート製のトーチカが散見される。

3月5日。路線バスでベラティに向かった。ベラトは煉瓦屋根と白壁の家が建ち並び『千の窓の町』と称される世界遺産の町である。

バス停からオスム川に沿ってゲストハウスを目指した。クリスタック・トゥトラー二(Kristaq Tutulani)通り沿いに歩いた。途中に反ファシスト運動のパルチザン10人の慰霊碑があった。

ゲストハウスはアルバニアの国民的英雄兄妹の生家

ゲストハウスは旧家を改装したもので、オーナーのロレンツ氏一家が母屋に住んでいる。ロレンツ氏の父親がトゥトラーニ家から屋敷を買い取ったとのこと。

ロレンツ氏は40代半ばのテノール歌手で、イタリアのオペラ劇場にも出演したこともある。CDを何枚も出しておりレパートリーはオペラからポップスまで幅広い。

屋敷は文化財として残すため修復作業中であった。修復目的を解説した看板にはアルバニア語と英語で屋敷の歴史が書かれていた。この屋敷は19世紀初めに地元の名家トゥトラーニ家により建てられた。

1912年のオスマントルコから独立宣言をしたときの署名者の一人が当時のトゥトラーニ家の当主であった。その息子は後に共和国政府の大蔵大臣を務めた。

そして1939年からのイタリアのファシスト支配に抵抗したレジスタンス運動のリーダーであったアルバニアの国民的伝説的英雄であるクリスタックとマルガリータ兄妹の生家であるとの解説があった。

兄弟はどうしてパルチザン運動の英雄となったのだろうか

兄のクリスタックは1919年、妹のマルガリータは1925年に生まれた。クリスタックは将来政治家となるべく大学で法律を専攻。マルガリータは首都にあるティラナの寄宿制女学校に入学。文学や詩に強い関心を抱いていたと言う。

1939年にアルバニアがイタリアに併合されファシスト支配下に入るとマルガリータは女学校を止めてティラナから故郷のベラティに戻り、兄のクリスタックと共に反ファシズム運動に身を投じた。ふたりは抵抗運動(レジスタンス)のリーダーとなっていった。

当時首都ティラナから離れた山あいの町ベラティはアルバニアの独立を求める反ファシスト運動の中心となりパルチザン活動が活発となっていった。マルガリータは1942年にアルバニア共産党に入党する。

1942年10月28日に兄妹が中心となってベラティで数千人を動員する大規模な反ファシズムデモを実行した。当時のファシスト官憲は即日二人を指名手配。以降、兄妹は地下に潜伏して抵抗運動を続けた。

しかし43年7月4日に二人は官憲に逮捕され、拷問の末、数日後に処刑された。クリスタック24歳、マルガリータ18歳の悲劇的な最期である。拷問の傷跡も生々しい処刑後のマルガリータの遺体の写真を密かに入手したパルチザンが、痛ましい写真を公開すると瞬く間に反ファシズム運動は全国に拡大していった。こうして兄妹は国民的英雄となった。

戦後になると兄妹に関する本が多数出版された。ゲストハウスに置いてあったマルガリータの伝記本の表紙には内気そうに微笑むマルガリータの写真が載っていた。さらにネクタイを締めてウールのチョッキの上にジャケットを着たクリスタックと赤いセーターを着てはにかんでいるマルガリータが並んでいる肖像写真も心に残った。

⇒第2回につづく

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