「ハイスペックすぎるプリンセス」漫画家が震えた、雅子さまの苦悩

「ハイスペックすぎるプリンセス」漫画家が震えた、雅子さまの苦悩

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2019/11/18
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漫画家で小説家の折原みとさんが、「今まで、雅子さまのことを誤解していた」という。聞けば、女性週刊誌で雅子妃を描いたノンフィクション漫画の連載を始めるにあたり、ずっと皇室の資料を読み漁っていて、雅子さまの苦悩の深さに震えたというのだ。

雅子さまの物語は多くの書籍にも描かれているが、改めて折原さんに「雅子妃とはどんな女性なのか」をFRaU Webにて連載で伝えてもらい、「一般の女性が皇室に入るとはどういうことなのか」を考えていきたい。その第1回は、雅子さまがお妃候補になるまでのことをお伝えする。

理不尽なバッシングをしていた

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2019年5月4日、令和初の一般参賀にて Photo by Getty Images

2019年5月1日、令和の時代が始まってから、早くも半年近くが過ぎようとしている。天皇陛下の御即位を広く披露するための「即位の礼」が行われるというこのタイミングで、雅子さまのことを書かせていただくのには理由がある。

実は、女性週刊誌「週刊女性」において、皇后雅子さまの物語を漫画化し、12月から連載させていただくことになったのだ。
なんとまあ恐れ多い! そりゃあ日本人に生まれたからには、皇室には関心も敬愛の情も持っている。が、専門家でも皇室マニアでもない私が皇室漫画を描くなんて……大丈夫なのか?

とにかく、皇室関係の本を読み漁った。おかげで、今までうすぼんやりとしか知らなかった雅子さまの実像がわかってきた、と同時に、私を含めた日本人の多くが、いかに皇太子妃時代の雅子さまを誤解し、理不尽なバッシングをしていたかに気づいて、愕然としたのだった。

即位してから輝きを増した雅子さま

天皇陛下が即位されて以来、雅子さまに対する風向きはガラリと変わったように思える。

5月1日、テレビで生中継された「即位後朝見の儀」。天皇陛下の傍らに立つ純白のローブデコルテの雅子さまは美しく、すでに皇后としてのオーラをまとっているように見えた。その3日後、令和初の一般参賀に皇居を訪れた人の数は約14万人。国中の人たちが新時代の天皇皇后両陛下の誕生を祝っていた。

が、その数ヵ月前までは、雅子さまが皇后になられることに不安を抱いていた人も多いのではないだろうか。

2003年12月に帯状疱疹で入院された雅子さまは、翌年から体調不良で療養生活に入られた。後に「適応障害」という病名が発表され、公務もほとんどできない状態に。ご成婚から26年のうち、15年以上も療養されている雅子さまに、皇后としての責務が務まるのだろうか……と、正直、私も思うことがあった。

天皇陛下即位後の雅子さまは、幸いにも体調が安定されているように見える。即位に伴う儀式や行事も無事に終えられ、笑顔で公務を務めるお姿を拝見することも増えた。5月末に、令和初の国賓であるアメリカのトランプ大統領夫妻が来日した時には、堂々たるホストぶりで世界から絶賛されたほどだ。

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令和初の国賓、トランプ大統領来日の際には、控えめながら堂々としたホストぶりに感嘆の声が Photo by Getty Images

だが、立派に責務を果たされる雅子皇后を頼もしく思う一方で、「皇后になられた途端にお元気になられた」「なぜ皇太子妃時代には公務ができなかったのか」と訝しむ人もいるかもしれない。これまでも、雅子さまのご病気に関しては、「ワガママ病」「皇太子妃の自覚が足りない」などと、さんざん叩かれてきたのだ。

精神的な病気は、他人からは理解されにくい。しかし、「適応障害」は、決して「ワガママ病」などというものではない。自身ではどうにもコントロールすることのできない病に、雅子さまは長年苦しまれてきたのだ。

現在の皇后の晴れやかな笑顔は、天皇陛下や愛子さま、ご家族や周囲の人たちに支えられながら、もがき苦しみ、必死に闘い、ようやく取り戻しつつあるものだ。

それでは、なぜ日本のプリンセスは、長い間笑顔を失うことになってしまったのだろうか? そして、どうやって苦難と絶望を乗り越えてこられたのだろうか……。

それを紐解いていく前に、まず改めて、雅子さまがどんな女性だったのかを知っていただきたい。

モスクワやニューヨークでの幼少期

ご結婚前の雅子さま、小和田雅子さんは、ご存知の通り、とんでもなく華々しい経歴を持つ、超ハイスペックなキャリアウーマンだった。

外交官である父親の海外赴任に伴われ、旧ソ連のモスクワやアメリカ・ニューヨークで幼少期を過ごした。

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5歳のときの雅子さま。双子の妹たちとニューヨーク郊外にドライブにいったときのもの 写真提供/宮内庁

小・中学校時代は帰国して日本で教育を受けたが、高校からは、再びアメリカへ。ハイスクールでも優秀な成績を修め、学業、リーダーシップ、奉仕精神などを総合して全米の優秀な学生を評価する「ナショナル・オナーソサエティ(全米優等生協会)」に選ばれるほどだった。

さらにオールAに近い成績で名門ハーバード大学経済学部に進学。卒業論文は、優秀賞の「マグナ・クム・ラウデ」を受賞。この栄冠に輝いたのは、卒業生1681人中56人。経済学部では、たった3人だったそうだ。

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ハーバード1年生のときの雅子さま。大学時代の親友Gigiさんと 写真提供/宮内庁

当然のように、在米の証券会社や金融機関から就職の誘いがあったが、雅子さまは、日本に帰って父親と同じ外交官になる道を選んだ。海外生活が長く、様々な国の人と接する機会が多かったからこそ、自分が日本人であることを強く意識し、日本のために働きたいという思いを抱いたのだ。

とんでもなくハイスペック

1985年(昭和60年)、21歳で帰国した雅子さまは、翌年春に東大法学部に学士入学。その2カ月後には外交官試験を受け、晴れて合格する。

……と、サラリと書いてしまっているが、東大の学士入学は、100人の受験者の中で合格できるのはたった3人。外交官試験の合格率は40倍。その年の難関を突破できたのはわずか28人で、女性は3人しかいなかったそうだ。

ハーバード大学、東大、外交官……いったいどれだけ優秀なのやら、経歴をなぞっているだけでもクラクラする。

しかも、雅子さまのすごい所は、決して勉強一筋のガリ勉ではなく、スポーツや文化活動にまで熱心に取り組まれていたことだ。ハイスクール時代はソフトボールクラブで活躍し、地元の新聞にも載ったことがあるほど。大学時代には、日本人や日系人で作る「日本文化倶楽部」の会長もつとめ、日本の伝統や文化を広める活動をしていたそうだ。

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1988年5月、日本料理の会での雅子さま 写真提供/宮内庁

すごすぎる……。漫画だって、こんな設定盛りすぎのキャラクターはいないってくらいのスーパーレディだ。

しかし、今にして思えば、この雅子さまの並外れた優秀さが、のちの「試練」の一因になってしまったのかもしれない。

浩宮殿下との初めての出会い

外交官試験に合格し、未来への希望と、仕事への意欲に胸を膨らませていた22歳の雅子さま。そんな雅子さまの運命が大きく動き始めるのは、折しも、外交官試験に合格した翌日のことだった。当時、外務省条約局長だった父親の恒さんのもとに、宮内庁から一通の招待状が届いたのだ。来日するスペインのエレナ王女の歓迎パーティへの招待で、文面の最後には、「ご家族も一緒にお越しください」とある。

小和田家の人々は知る由もなかったが、実はこのパーティは、浩宮徳仁親王殿下と、お妃候補の女性たちとの出会いの場でもあったのだ。

その1年前、1985年の秋に浩宮殿下(今上天皇)が英国留学から帰国されて以来、25歳の浩宮殿下のお妃選びは本格化していた。

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1985年、浩宮さま英国留学の際に英国王室にて Photo by Jayne Fincher/Princess Diana Archive/Getty Images

まずは、旧皇族、旧華族、学習院を中心とした学校関係などからお妃候補のリストが作られ、さらに、研究者や学者、公務員といったルートでも候補者探しが行われた。雅子さまを推薦したのは、父親と親交のあった元国連大使・中川融氏だったという。

ご自身がお妃候補になっているとは露にも思わず、雅子さまは外交官になった時のための経験になればと、このパーティに出席することにする。そこで、初めて浩宮殿下と出会ったのだ。

会話はほんの2~3分の短いものだったが、浩宮殿下は、控えめだが聡明な雅子さまに好意を抱いた。ほとんど、一目惚れといってもよかったのかもしれない。

それまで、何人ものお妃候補と面会してきた浩宮殿下だったが、同じ女性に「もう一度会いたい」と言ったのは初めてのことだった。そんな殿下の思いを受け、その後も何度か、浩宮殿下と雅子さまとが会う機会が設けられる。

お妃候補報道と「完全否定」

雅子さまは、殿下の特別な想いに気づいてはいなかったが、マスコミは「小和田雅子さん」を最有力のお妃候補としてマークし始めていた。

そして1987年12月。女性週刊誌が初めて雅子さまを「お妃候補」として大きく取り上げると、外交官として社会に出たばかりの23歳の女性は、一躍日本中の注目のマトとなってしまった。雅子さまにとってもご家族にとっても、青天の霹靂のような出来事だっただろう。

その頃、皇太子殿下の妃になることなど、雅子さまには全く現実味のない話だった。翌1988年には、父親の恒さんから中川氏を通じて、はっきりとおつきあいを固辞している。それでも、過熱するお妃報道と激しい取材攻勢は、いっこうに治まることはなかった。

希望に満ちて入省した外務省。仕事のことだけを考えていたいのに、どこにでもつきまとうマスコミ、容赦なく向けられるカメラのフラッシュ。雅子さまにとっては、迷惑を通り越して、恐怖でしかなかったはずだ。

1988年7月、雅子さまは日本大使館外交官候補の海外研修生として、イギリスのオックスフォード大学大学院に留学することになった。

これでようやくマスコミから解放されると思ったのも束の間、日本のマスコミは、イギリスまで雅子さまを追いかけてきた。オックスフォード大学の構内まで取材陣が押し寄せてきた時、ついに我慢の限界を超え、雅子さまは勇気を振り絞ってテレビカメラの前に立ったのだった。

「私はこの件に関しましては、まったく関係ございません」
「とにかく、私はお妃候補には関係していないと思っておりますので」

震えながらも、カメラに向かって毅然と言い放った言葉。それは、お妃候補報道に対する、雅子さまの「完全否定宣言」だった。

もしもあなたがお妃候補になったら

ところで、もしもあなたが「皇太子妃になってほしい」と望まれたとしたら、いったいどう思うだろうか?「ありえない!」と笑わずに、試しに想像してみていただきたい。

神話の時代から2700年近くにわたり、万世一系の系譜をたどってきた、世界でも類を見ない歴史を持つ日本の皇室。一時は天皇が「現人神」とされていた時代もある。第二次世界大戦後に実質的な統治権はなくなったが、日本国憲法により「日本国の象徴」となられた天皇は、現在でも国民の心の拠り所だ。

その公務は、国内外の行事への出席、災害が起きた際の被災地への慰問などと、多岐にわたる。そして、国と国民の安寧を祈る「祭祀」は、天皇の最も重要な役目だ。常にスケジュールを管理され、精神的には、国民のために24時間働いていると言っても過言ではない「無私」の存在。

未来の天皇となられる皇太子。その妃になるということは、自らもまた「私」を捨てる覚悟のいることではないだろうか。

ディズニーアニメのプリンセスとはわけが違う。綺麗なドレスを着てかしづかれるとしても、一生自由を失くしてしまうような生活に、普通は耐えられるわけがない。

先に書いたように、雅子さまは、優秀すぎるほど優秀な女性だ。人並外れたキャリアと能力をもち、それを生かせる場所を、懸命の努力で手に入れた。自分の足で立ち、思うように生き、社会に貢献したいと、大きな夢と理想を抱いていた。だが、皇室という閉ざされた場所で、それらすべてを封じ込まれてしまった時、雅子さまの長い長い苦悩の日々が始まったのだ。

26年前のご成婚の日、祝賀パレードで輝くような笑顔を見せていた皇太子妃は、ご自分の未来にどれほどの試練が待ち受けているのかを知らなかっただろう。でも、あの時の雅子さまが、「私」を捨て、日本という国のために生きるご覚悟を持っていたことは、確かだと思う。

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1993年6月9日に行われた結婚の儀。この輝くような笑顔は日本中を虜にした Photo by Getty Images

かたくなに皇室と関係を持つことを拒んでいた雅子さま。その雅子さまに、皇太子妃となる決心をさせたものは何だったのか……。

それは、次回の記事で詳しく書いてみたい。

漫画家が見た雅子妃②「漫画家も泣いた!雅子さまの心を動かした、皇太子のひたむきな愛」こちら

参考文献
皇后雅子さま物語』(文春文庫)友納尚子
雅子妃 非運と中傷の中で』(文春文庫)友納尚子
皇后雅子 妃から后への三十年』(講談社)石井勤
雅子さま ご成婚十年の苦悩』(講談社)渡邉みどり
素顔の雅子さま』(主婦と生活社)週刊女性皇室取材班

編集部注:小和田恒氏の「ひさし」の字は、本来は別の人名用漢字です。

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