アジカンのメンバー本人の言葉で解明する結成20年と『ソルファ』再RECの真相

【インタビュー】アジカンのメンバー本人の言葉で解明する結成20年と『ソルファ』再RECの真相

  • RO69
  • 更新日:2016/11/30
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2016年、バンド結成20周年を迎えたASIAN KUNG-FU GENERATION。2016年12月17日(土)から20周年を記念した全国アリーナツアーをスタート。そして本日、2004年にリリースしたセカンドフルアルバム『ソルファ』の再レコーディング盤をリリースする。“サイレン”“ループ&ループ”“リライト”“君の街まで”と、数多くの人気シングル曲を収録し、セールス的にも大成功を収めた本作だが、本人たちは一番自分たちの名刺として人に渡しづらい作品だったという。

なぜ彼らは、この『ソルファ』を結成20周年のタイミングで再レコーディングしたのか。RO69では、現在発売中のCUT12月号の表紙巻頭企画『僕らを変えた10の瞬間』で後藤正文(Vo・G)、喜多建介(G・Vo)、山田貴洋(B・Vo)、伊地知潔(Dr)の4人が語った言葉から、ASIAN KUNG-FU GENERATIONが結成から20年をどのように歩み、その中で『ソルファ』がどのように誕生し、そこから12年の間にどのような変遷をバンドが経てきたのかを検証し、今回の再レコーディングの真意に迫りたい。

1996年、ASIAN KUNG-FU GENERATION誕生

ASIAN KUNG-FU GENERATIONは1996年、大学の音楽サークルの中で結成された。まず後藤と喜多が出会い、そのあと山田が加入。3人はバンド初心者だったが、後藤はバンド結成前からオリジナル楽曲を書き始めていた。そのあと同じサークルにいた伊地知が、前のドラムの脱退を機に加入。今のメンバーによるASIAN KUNG-FU GENERATIONがスタートした。

後藤「(喜多との出会いは)未知との遭遇って感じ。指を出したら向こうも出してきて光るんじゃねえか、みたいな。E.T.みたいな顔してたね(笑)」

全員「(笑)」

喜多「気が合ったっていうぐらいなんです。出会った日に音楽の話をして、バンドをやろうかってなって。ゴッチとこの20年間一緒にいて影響を受けるところはあったけど、最初の頃は、家にも遊びに行くような友達の延長でしたからね。ゴッチの好きな音楽を教えてもらったりとか、楽器もお互い初心者だったから、いろいろ手探りでやってて」

山田「田舎出身なんで、洋楽聴いてる友達はみんなハードロックとかそういう文化だったんです。そうじゃないんだよなあと思いながら大学入ったら、ゴッチからいろんな音楽を教えてもらったり、CD借りたりして、勉強になりましたね。ただ最初からオリジナルやる空気があったから、アレンジすることも知らないのにどうすんべって。最初はついていくので精一杯だった」

後藤「山ちゃん、俺たちを操る能力というか、ギリギリなんとかしてくれる能力があったよね」

喜多「うん。バンドが変な方向にいかないように」

後藤「俺たちの振り幅がすごいから、山ちゃんが形を整えてる人、みたいな。一番まともな人だから」

伊地知「僕は1年目は乗り遅れちゃってあんまり軽音楽部に参加してなかったんで。1年後、後輩が入ってきたら自分がやってるジャンルの音楽を一緒にやってくれるかなと思って。僕が入った時は、同学年にメロコアとかパンク系の仲間がいなかったんです。その時、アジカンには別のドラムがいたんですけど、その子が辞めた時に立候補したんですよ」

山田「俺、潔からやりたいって言われてて。その前のドラムが辞める感じを出してて、それを察して潔はアピールしてくれたんだよね」

伊地知「前のドラマーとも仲がよかったからいろいろ相談もされてて、自分がやってみたら面白いことになるんじゃないかなって」

後藤「当時、バンドとしていけるぞとは思ってないけど、曲作りを始めてから、何者かにはなれるんじゃないかっていう気がずっとしてた。謎なんだけど、最初から曲が作れたんだよね。楽しくなって、さらにできるようになってくから、どんどん拍車がかかってくというか。浪人の時に、ある日突然曲作りたいと思って、始めてみただけなんです。建ちゃんと会ったからどうとかじゃなくて、曲作る、作らないに関していえば、この人らに出会わなくてもやってたと思う。これほどまでに形になったかはわかんないけど」

喜多「使ってるコードとかはそんなに難しくないけど、メロディが特に初期は際立ってた。その頃は、セッションで作るっていうよりは、弾き語りって感じで作ってたんで。ゴッチが弾き語りで持ってきたやつに肉付けする、みたいな」

2002年、初音源『崩壊アンプリファー』から状況が加速

大学卒業後も、4人はバンド活動を継続し、自主制作による音源制作やライブ活動を精力的に行うが、正式な音源をリリースするようになるのは2002年。インディーズレーベル、アンダーフラワーレコードのコンピレーションCDへの参加、そしてミニアルバム『崩壊アンプリファー』をリリース。翌年には、その『崩壊アンプリファー』をメジャーのキューンから再リリース。そしてFUJI ROCK FESTIVALの「ROOKIE A GO GO」にも出演。シングル『未来の破片』『君という花』が大きな話題を呼び、ファーストフルアルバム『君繋ファイブエム』で新たなロックシーンを切り開くギターロックバンドとして、その名を大きく轟かせる。

後藤「当時(2002年頃)が一番、焦燥感があったかな。早くメジャー決まってほしい、みたいな。でもバンドはあんまりうまくいってなくて。潔はもう辞めそうだったし、山ちゃんはレコーディングを切り上げて玉置浩二のライブに行っちゃうし(笑)。本当に素手で温泉掘るくらいの労力だった気がする。『やっと出た、お湯ー!』みたいな。メジャーになってからは、ぐんぐん人が集まるようになって、『ざまあみろ!』とか思ってたよ。『だろ? いいでしょ?』みたいな」

山田「(笑)」

後藤「FUJI ROCKに出れた時(2003年、ROOKIE A GO GOで初出演)は達成感ありました。バンドが大きくなっていくことは嬉しかった。でも思ったよりも自分たちに偶像性があって、イメージが先に転がってく感じがしたから、今度はそっちとの戦いになって。俺たちが対象化してる自分たちと、みんなが思ってるASIAN KUNG-FU GENERATIONのギャップがどんどん広がっていった」

2004年、『ソルファ』誕生の裏側で

そして2004年、『サイレン』『ループ&ループ』『リライト』『君の街まで』を経て『ソルファ』をリリース。アルバムチャートでも2週連続1位を記録し、ASIAN KUNG-FU GENERATIONは、日本のロックシーンにおける最注目バンドのひとつとなる。当時の正直な心境を4人はこのように語っている。

後藤「『サイレン』『ループ&ループ』はすごく手応えあったけど、このあたりも売れれば売れるほど、さっき話した実像と偶像性とのギャップとのストラグルが続いてる感じはありましたね。お客さんも集まってくるしCDも売れるっていう、いいスパイラルの中に身は置いてるけど、ストレスがないかっていったらそういうわけでもない。ロックバンドたちからは、死ぬほど妬まれたと思うしね」

喜多「シングル4連発の流れっていうのが、バンドの見せ方もそうだし、自分たちのやりたいことがきれいに見せられた時期だなと思います。バンドのやりたいこととレコード会社の方向性が合致したっていうか。すごく美しい流れだなと思いましたね。だから正直、ゴッチほど焦りは全然なくて。忙しすぎてそこまで考えてなかったですね」

後藤「俺も考えてるというより感じてた。フィール。なんかイヤな感じがする、みたいな。違和感だね」

山田「お客さんが増えてってることは感じていたけど、でもまだまだじゃないかなっていう思いもあった。まだどういうバンドなのか、までが浸透してないのかなっていう気はしてたと思います」

伊地知「まわりのスタッフがあんまりちやほやしてこなかったので、それがよかったなと思ってて。だからこそ、まだまだよくなんなきゃダメだっていう。お客さんはついてるけど、俺たちはそれに見合った実力を持ってないんだって思った。そこでちやほやされて天狗になってたら、たぶんここで止まってたと思うし」

後藤「人気があるだけだと思ってました。だってZAZEN BOYSと対バンすれば、やっぱりZAZEN BOYSのほうが演奏めちゃくちゃいいし、俺ら、ただ曲知ってもらってるだけじゃんって。なんか意外と自分たちってハチャメチャじゃねえんだなと思った。音楽やってるやつらの界隈では、自分たちはそんなにいかれてないっていうことがわかりましたね。
“振動覚”に書いてることはそういうことで。もちろん音楽的な才能はあると思ってるけど、同じように思ってるやつらの中に交じると、なかなか大変で。そういう中で飛び抜けるっていうのはとても難しいなっていうのは今でも思います」

2006年、苦悩の中で誕生した『ファンクラブ』

2005年には自主企画イベント「NANO-MUGEN FES.」が横浜アリーナにて開催、UKからも4バンドが出演。同年、SUMMER SONICでオアシスやウィーザーなど長年の憧れのバンドとの共演も果たす。しかし『ソルファ』の大きなセールス的な成功を経て、サードアルバム『ファンクラブ』が誕生するまでの道は険しいものだった。

後藤「『ファンクラブ』のときは、このまんまじゃダメだと思ってて。もっともっとうまくなりたいし、すごいもの作んなきゃ生き残っていけないっていう思いにやられてました。だからみんなにもむちゃくちゃ厳しかったし、もちろん自分にも厳しかったし。『先週から何もやってないんだったら俺は帰る』っつって帰ったりしてたもん」

山田「うん。帰っちゃった時に“ブルートレイン”作ってた記憶がある」

後藤「認められないことへの焦燥っていうよりは、もうちょっと内向きになってくというか。バンド自体に対する焦りですね。もうちょっといい曲書けなきゃいけないし、技術的な面白さもなきゃいけないし、ただ売れただけのバンドで終わっちゃう、確固たる何かが欲しい、みたいな。
あの頃にちゃんとバンドになったと思います。潔のことを信用したのもこのアルバムからだし。コミュニケーションしなきゃいけないなあと思って。自分が思ってるアイディアとかを具現化するには、潔に相談する以外なかった。相談したらけっこう面白がってくれて」

喜多「必要な時期だったんだろうなとは思います。『ソルファ』でガッと行って、バンドに対して褒められるのも、良くないこと言われるのもフロントマンだから、ゴッチがけっこう背負っちゃってるんだなって感じてて。『ファンクラブ』の曲作りで合宿も行ったけど、なかなか曲が抜けないというか、複雑になっていくし、曲の尺が長くなったりする片鱗があって。簡単には曲ができない時期だなあと思ってました」

2011年、東日本大震災はアジカンの何を変えたのか?

『ファンクラブ』で本当の意味でバンドになれたASIAN KUNG-FU GENERATIONは、4枚目『ワールド ワールド ワールド』、ミニアルバム『未だ見ぬ明日に』、5枚目『サーフ ブンガク カマクラ』、6枚目『マジックディスク』と、アルバムごとに新たな音楽的トライアルに挑戦。
しかし最も大きな転機となったのは2011年に起きた東日本大震災。後藤正文が編集長を務める新聞「THE FUTURE TIMES」の創刊や、伊地知がインストバンド・PHONO TONESをスタートするなど、メンバー個々の動きも活発になる。そして2012年にリリースされた7枚目『ランドマーク』は、震災を経て生まれた新たな表現に満ちたアルバムなった。そして、その激動期の中で彼らは「アジカンとは何であるのか?」に改めて向き合い始めていた。

後藤「単純に当時の被災地は、ひとりじゃないと回れないことが多かったんで。だって『明後日炊き出しあるけど行きますか?』って訊かれて、いちいち事務所に連絡してみんなのスケジュール確認して、では遅いから、自分はギター1本背負って自分の気持ちで行ったんです。
そういう意味では個であることに対する意識はもちろんあった。PHONO TONESもそういうとこあるんじゃないかな。アジカンを離れて自分が何をやれるか、やりたいのか、みたいなこともあると思うし。自発的にやる、やらないでいうと、俺と潔はそういうモードになっちゃうというか、やりたいことは自分からスタッフにプレゼンしてくんだよね。もちろんアジカンのことをほっといてるわけではない。けど、新しい窓を開けるには自分が変わんないといけないんだっていうことはよくわかるから。
あとは俺、10周年のライブで、自分のやりたいことと、求められていることの齟齬がよくわかった。たとえば自分では音楽的に『ランドマーク』の7人編成ってめちゃくちゃ幸せで、やりたい音楽ができたんだけど、観てるほうは『4人でやれや』と思ってたっていう、ギャップがけっこうでかくて。やっぱアジカンはこの4人でやんなきゃしょうがねえんだなって。
あとは震災によっていろんなところで歌う機会があって、アジカンはもう俺のもんじゃないと思った。だって“ソラニン”とか歌ってもみんなすげえ喜んでくれるから。だからバンドっていうのは、徹底的に自分のものではない。そこに捧げるようにやるしかないんだ、と思ったんですよね。
自分はどんなミュージシャンかっていうことにも向き合わざるをえなくなったし、アジカンに対しての向き合い方も考えなきゃいけなかった。捧げるようにやんなきゃいけないんだなとか、みんなでやってるからみんなが幸せになるにはどういう曲を作ったらいいかな、とかさ。だから、はっきり言うともうアジカンは自己実現のためにやってないんだよね」

2015年、『Wonder Future』の開放感の理由

Gotchのソロアルバムリリースなど、さらに活動が多様化する中でASIAN KUNG-FU GENERATIONとして8枚目のフルアルバムが誕生するのは『ランドマーク』の2年8ヶ月後。彼らが、そのアルバム『Wonder Future』をレコーディングする環境として選んだのは、LAにあるフー・ファイターズのプライベートスタジオ「Studio 606」だった。

後藤「みんなが求める新しいラウド、みたいな。そういうところにまったく異論はないかっていうとあるんだけど。あるからフー・ファイターズのスタジオに行ったんです。フー・ファイターズのスタジオに行くことによってある種のエゴが昇華されて、純粋に楽曲にいけるかなっていう気持ちもあって。みんなの気持ちも上がるかなと思ったしね」

喜多「気持ちは上がったね」

山田「最初は興奮したよね(笑)」

後藤「久々にみんなでメシ食ったり、部屋飲みしたりして、学生っぽさはあったよね。楽しかった」

2016年、結成20周年の『ソルファ』再RECから始まる物語

そんなデビュー以降のバンド内ストラグルから開放されたアルバム『Wonder Future』を作り上げたことが、ASIAN KUNG-FU GENERATIONが20周年という節目に何をするかに影響したことは間違いない。そして、そこで彼らが出した答えが『ソルファ』の再レコーディングだった。
彼らは、このアルバムに今のスキルと環境と関係性で取り組むことで、未開拓のASIAN KUNG-FU GENERATIONが歩むべき道を発見したのだろう。20周年を超えた彼らは、その道をときに喜び、ときに悩みながらも力強く進んでいくに違いない。

後藤「ディスコグラフィの中でも、いろんな思いも含め一番人に渡しづらいアルバムだったから。友達にあげるんだったら最新アルバムを渡すのは当たり前だと思うけど、ときどき外国人に会った時に『ソルファ』を渡さないっていうか。時代が進めば進むほど、自信持って人に渡せないものになってた。
けど、そのわりには一番求められる作品でもあるし、自分たちが紹介される時のBGMが“リライト”だったりする。そう考えるとちょっと違和感があるというか、今の自分たちと当時一番売れたアルバムとのギャップが広がっていってるように感じたから、ここで録り直しておきたいっていう気持ちがあったんです。でも僕が最初に言ったときは、『何言ってんの?』っていう感じだった。特に建ちゃんは『うーん……』みたいな」

喜多「(笑)アルバム丸々1枚っていうのは、なかなかなことだぞって思って最初はイメージできなかったんです。でも20年間、俺らが『おや?』って思うことをゴッチが言いだした時って、あとから思えばバンドに足りないところを成長させるための試練じゃないけど、理由がちゃんとあったんだなって今では思えるんで。
今回、やってみてほんとによかった。過去のどの作品に対しても、録り直したいと思ったことはなかったんです。でも最近、『ソルファ』は他のアルバムに比べると認知度が違うんだなっていうのはひしひしと感じてて。みんな俺の『ソルファ』、私の『ソルファ』がある。それぐらい聴かれたアルバムなんだなっていうことがわかってきました」

山田「やっぱり楽曲がすげえいいんだなっていう実感が、それぞれレコーディング中からありました。だからレコーディングが改めて楽しいなと思いましたね」

喜多「2004年の時は、ほんとに忙しすぎて、レコーディングの時の記憶がないんですよ。今回は噛み締めながらできた(笑)」

後藤「ここからもう1回、『ソルファ』の続きをやったほうがいいのかなと思うよね。『ソルファ』ショックっていうか、そこからのバンド的ストラグルはずっとあったから」

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